9.荒野を渡る大鴉
エステルがエントランスフロアの絵画前に向かうと、ちょうど南西の回廊からウィリアムがやって来るところだった。
「上のほうにも扉があるでしょ? あの辺りは全然確認できていないの」
本日二度目の迷宮の広間に入って、エステルが指さしたのは、一階からではとうてい届かない場所に据えられた扉群だった。
エステルの身長でも登れるほどの場所にある扉はなんとか確認できたが、自らの足で行けない場所ではどうしようもない。
事情を説明すると、ウィリアムは心得たとばかりに大理石の敷石を歩いた。
「この部屋の道も鏡の隠し通路と同じだろう。つまり、手順を踏めば作動する魔法の仕掛けがある」
「そうだったの? じゃあ、さすがに上の扉にクラリーは居ないかしら」
「そうとも限らないだろ。ステラがエントランスフロアで気を失ってたように、あんたの妹はあの頭上の通路で気を失ってたかもしれない。飛び降りることも別の階段へ移ることもできなかったら、そばの扉へ入ってみようと思うのは何ら不思議じゃないさ」
エステルの気落ちした声に反論を投げかけて、ウィリアムは壁に走る大理石の上を指でなぞった。すると、そこのタイルにだけ流れるような流線型の溝が彫られていることに気づく。
こういう場合は、たいていそこに合う形の何かを嵌め込むか、「血を注いで溝を満たすもんだな」
彼は独り言じみた結論を口にして、やっと血が固まり始めた手のひらを腰の短剣で裂こうとした。
「きゃあ! 何やってるの、ウィリアム! あなた、人には無用な怪我をするなって言っておきながら、自分の怪我は躊躇しないところよくないと思うわ!」
「無用な怪我じゃないから甘んじて負うんだろ。恐らくはそういう仕掛けだ。正解かはわからないが」
「だったらわたしがやります! これはわたしのわがままに付き合ってもらってるんだし、それが筋というものでしょう!?」
「これくらいのことでいちいち悲鳴を上げていたら、これからやっていけないんじゃないか? あんた」
彼と共に行動するようになってから、エステルはしょっちゅう声を張り上げている気がしてならない。もっと言うならば、この城に訪れてからだ。
これまで彼女は、クラリスが変な無茶をしたとき以外はそうそう声を荒げることもなかった。それで言うと、彼は妹と同程度には突拍子もなくて、エステルの胃をキリキリさせる存在だということだ。
エステルはウィリアムの手から半ば強引に短剣をもぎ取ると、左手のひらに刃身を当てた。
刃物もろくに扱ったことのない少女だ。勢い引き抜いて自分の手を切り裂くには、わずかならぬ覚悟と気力が必要だった。
及び腰になって、指の第一関節の下へ刃先をずらす。浅く裂いた二本指から、じわじわと赤が滲んだ。
パタ、パタ、パタ。ゆっくりと時間をかけて流れる血を、タイルの溝にこすりつける。流線型の溝を流れて、そのすぐ下に半ばほど埋まっていた小指の先ほどの水晶玉を血で濡らした。
タイルはうんともすんとも鳴らないし、動きもしない。
間違いだっただろうか。一抹の不安が胸をよぎったとき、それは起きた。
溝に沿って流れる血が、金の光を帯びながら輝く。まるで小さな水晶玉が血を飲み干すように、赤と金の筋が玉の中でうずまき、煙水晶のような炎の揺らめきを内包する。
この迷宮の部屋に漂う水晶玉の照明のようだ、と、その中身が己の血であるにもかかわらずエステルは見とれた。
ひゅう、と窓のない室内に一陣の風が差す。エステルが一歩後ずさると、ウィリアムが彼女の手を取って、自分のハンカチで新しい傷の上を押さえた。
「圧迫止血。忘れるなよ」
「え、ええ……」
金色の光が強さを増して、やがてタイル全体を輝かせる。色水を吸わせた紙が鮮やかに染まりゆくように、大理石が光に包まれると、壁に沿って縦に走っていた足場はバラバラとほどけて、一メートル四方の足場を階段状に浮き上がらせた。
迷宮の部屋の壁際を取り巻く、螺旋状の通路ができたというわけだ。
「成功だな。おめでとう」
「ありがとう。でも、まだ道がひとつ開けただけだわ」
左指を右手で握りしめながら、エステルは光り輝く階段を駆け上った。逸る気持ちもあったが、急がなければ鏡の通路のように、一定時間で消えてしまうかもしれない。
物事は、何事も素早く行う必要がある。たとえば、目玉焼きを乗せる前のエッグトーストにバターを塗る時のように。
目玉焼きとパンが冷める前に、手早く、けれどすみずみまでしっかりと塗るのは、案外と至難の業なのだ。
エステルはウィリアムへ視線で合図を送ると、止血の手を止めないまま器用に手近な扉を開いた。
色褪せたオイスターホワイトの扉の向こうは、剣山のような隆起岩が乱立する荒野だった。
「クラリス? クラリー! 居るなら返事をして!」
草地は少なく、川もない。かぼちゃ色のくすんだ赤土を巻き上げて吹く風に、迫り上げられて咳が出る。
エステルの後ろから戸口に手をついて顔を出したウィリアムも、乱暴な砂埃に目を細めた。
ドルメンのような組まれた岩の台座に備えられた扉のようで、視界は多少効くが、いかんせん風に煽られる。ドレスで歩くには相性が悪すぎるだろう。
「いくら好奇心が旺盛な娘さんでも、さすがにこの扉には入らないだろ」
「そうね、あの子ならもっと緑の溢れた――」
肌に馴染む森や、まだ見たことのない海に興味を惹かれるだろう。そう答えて扉を閉めようとした瞬間のことだった。
ウィリアムがなにげなく上空を見上げて、目を瞠る。
「危ない!!」
同時に張り上げられた声で、エステルは、驚きのあまり前のめりになった。
「っあ……!!」
視線を追って見上げた視界が捉えたのは、扉から覗かせた頭上から急降下してふたりを獲物と定めた、黒い、何かだった。
俊敏なそれが耳をつんざく叫び声を上げながら、弾丸のようにエステルたちへ突っ込もうとする中。止血していたことで咄嗟に扉の縁を掴めなかった少女は、つんのめって異空間への一線を――超えてしまった。
岩の台座の縁を踏み外して、赤土の上に体が投げ出される。
肩を打つ激しい衝撃を予想して、ぎゅっと強く目をつむった。けれど灰色に閉ざされた視覚の代わりに感じたのは、彼女の華奢な背中を包む力強いぬくもりだった。
衝撃は確かにあった。ごろごろと何度か転がって、うつ伏せた胸の下にごつごつとした弾性の感触も感じる。
(……柔らかい…?)
訝しんでそっと目を開けると、土にまみれた濃紺のベストが視界を覆っていた。手をついて起き上がろうとした体は、頭と腰をがっちりと固定されていて動かない。
それが抱きしめられているせいだと気づいたのは、体の下からこの二日で聞き慣れた呻き声が聞こえてからだった。
「ウィ、リアム!?」
「うあ゛ー……、さすがに岩の上を転がるのは……絨毯敷きの廊下に倒れるのとはわけが違うな。痛ぅっ……」
「ごめんなさい、わたしを助けてまた下敷きに……」
「今はそういうのはいい、指以外に怪我してないな?」
「ええ、それは平気よ」
「だったら起き上がって――走れ! 来たぞ!」
驚きに声を上げる暇もなかった。再び聞こえた爆音のような鳴き声が空気をビリビリと震わせる。音量こそ違うが、それは鳥の鳴き声に似ていた。
飛び上がるように身を起こすと、ウィリアムも弾みをつけて起き上がる。辺りを見回せば、自分たちが転げ落ちた岩の上に、巨大な嘴を持つカラスのようなものがいた。
“ようなもの”と形容したのは、それがひと目でただのカラスではないとわかったからだ。
巨大なのは、なにも嘴だけではなかった。その体躯もまた巨大で、女性の平均的な身長であるエステルをゆうに越える体長なのだ。
おまけに、黒い翼は二対四翼で、下部の一対が巻き上げた風を上部の翼で更に煽って勢いを増している。
オオガラス――お伽噺に聞く“邪悪なる者たち”は、ゲギャア、ゲギャア、と耳障りな鳴き声を上げて、再びエステルたちへと突進してきた。
ウィリアムがエステルを追い抜きざま、ハンカチのほどけかけた手を引いて走り出す。半ば引きずられるように前方の岩陰へ逃げ込むと、直後、地響きに似た岩山の振動が肌に伝わった。
オオガラスの嘴が岩山の先を砕いたのだと、想像するのは容易だった。
同時に、ウィリアムが語った“目の前で行方不明になった漂着者”の話を思い出した。見た目の説明からあのオオガラスとは違う個体だろうが、あっと言う間に連れ去られたというのも頷ける。
これでは意識を集中させて魔法を使うことすらできない。
「なぁ、ステラ。あそこ、見えるか」
ぼそりと囁いた男の声に、身を寄せ合って岩陰に隠れていたエステルは首を巡らせた。ウィリアムの指差す先に、さっきまでエステルたちの居た岩場が見える。
台座のような岩の縁が欠けていた。最初の襲撃でオオガラスに抉られたのだろうが、彼がそこに注視しているわけではないことは一目瞭然だった。
岩場の上には何もなかった。
本来そこにあるはずのもの――彼女たちの入って来た扉が、跡形もなく消えていたのだ。
「そんな」
「なるほど、扉の向こうに消えた彼らが二度と戻ってこなかったのはこういうことか」
納得の声とは裏腹に、ウィリアムはぐしゃぐしゃと頭を掻き、どうしたもんかと思案に耽る。
「わたしが油断していたばかりに……本当にごめんなさい。こんな危険に巻き込んでしまって。やっぱり妹はひとりで探すべきだったわ」
「謝ったって現状は何も好転しない。ここでいつまでも後悔に浸ってるつもりか? まずは異物でもなんでも、脱出の糸口になるものを探そう」
どうせ俺たちは“出口”を探してるんだ。いまさら探す出口がひとつふたつ増えたところで、目的は変わらない。
ウィリアムはそう言って、視界のきく限りの荒野を見回した。口ぶりは厳しいものだったが、声音からエステルを励まそうとしている気づかいが見て取れた。
自分の不幸を他人のせいにして嘆いていても、事態はよくならない。昨日、エステル自身が彼に告げた言葉だ。自分のせいで他人を巻き込んだと後悔してばかりいるのも、また同じこと。
ひとつ深呼吸をして同じように周囲を見回すと、エステルは目を眇めた。
「とにかく、見晴らしのいい場所へ行かなくちゃ。地形を把握するにも、何かを探すにも、高いところから見渡すのが一番だけど……」
さすがのエステルも、岩場を上ってオオガラスの目につく危険は冒したくなかった。かと言って、他に全景を見渡せそうな場所は目につかない。
「高いところ、ねぇ」
ウィリアムが思索するように呟いた直後、彼の灰色の瞳がオオガラスを捉えてにわかに輝いた。
「なんだ、目の前にあるじゃないか」
「え? 目の前って、まさか……」
「視界が高く、しかも動き回ってくれる最高の足場。……いや、足場じゃなくてグライダーかな」
彼がグライダーと口にした瞬間、エステルは一瞬考えた「まさか」が現実になることを悟った。男は善は急げとばかりに、腰に下げていた短剣のベルトを引き抜くと、自分の指の先をつついて血を浮かべた。
「革のベルトを蔓のようにしなやかに、鋼のように頑丈に……ってとこか。行くぞステラ。次に奴が突っ込んできたときがチャンスだ」
「冗談よね、お願いこれもたちの悪い冗談だって言って!」
「こんなひねりのない冗談、つまらなくてあくびが出るだろ。ほら、来るぞ」
赤いもやが立ち上り、銀の光を帯びて彼の手にした短剣ベルトを包み込む。その魔法の気配を感じとったかのように、オオガラスは手当たり次第につつき壊していた岩場の隙間から二人の方へ振り向いた。
アギャア、グギャア、と心なしか歓喜に満ちた声を上げて、オオガラスが翼を羽ばたかせた。
「突っ込んでくる直前に避けて、岩に激突させる。嘴が岩にとられてる隙にベルトを奴の脚に引っ掛ければ、あいつは邪魔なものを振り落とすために空中へ逃げるだろう。手綱は俺がしっかり握ってるから、あんたは俺にしっかり掴まっててくれ」
「ねぇ、あなた『無謀』って言葉知ってる!?」
「そんな言葉はとうの昔に城の外に忘れてきたな」
恐怖と混乱から声を張り上げて喚くエステルを、ウィリアムは面白がっているようだった。堪えきれない笑いは無垢な少年じみていて、ささやかな――しかし周りにしてみればとんでもない――いたずらを仕掛ける前のわくわくと輝く瞳でオオガラスを見上げている。
背後には針のような岩山。前方上空には化け物カラス。木陰も無いような荒涼とした荒野に、隠れおおせる場所はない。
一か八かの大勝負に、エステルは腹を括った。カラスが勢いを増して滑空してくる。今度こそ、獲物を一撃で仕留めるために。
強風に煽られて、黒い巨体が前方数十メートルまで迫ったとき、「今だ!」と叫んだウィリアムの背中を追って真横に転がった。
風を切る烈風が駆け抜けていく。直後、轟音を上げてオオガラスが岩山へ雪崩込んだ。ふたりは足をもつれさせながら起き上がり、じたばたと頭を振って岩から嘴を引き抜こうとしているオオガラスへ飛びつく。
ウィリアムがオオガラスの脚にベルトを引っ掛ける間に、エステルは彼の背後からおぶさる形で掴まった。
渾身の力で彼の首を囲い、両肩にしがみつくと、ウィリアムがエステルの腕をタップする。
「もう少し力、緩められるか? 締まってるんだけど」
「緩めたら多分、数分としがみついていられないわ」
空中で投げ出されることだけは勘弁だ。腕の力を緩めることに断固拒否すると、彼は「あー、……ったく、仕方ない」とぼやくなり、エステルの首根っこを猫のように掴んで引っ張った。
「ちょっと、やだっ……乱暴者!」
「静かにしてないと落とすぞ」
落とすぞと脅されれば、ぴたりと動きを止めるしかない。
無理やり引き剥がされた体を、彼と向き合う形で抱えなおされる。かと思えば、ウィリアムは彼女を荷物か何かのように自分の肩に抱え上げた。
彼は器用に少女の足を腕で押さえながら、両手で短剣ベルトとオオガラスの片脚にしがみつく。踏ん張ったオオガラスの脚が地面を蹴って、とうとう嘴が岩山の拘束から逃れた。
オオガラスは怒りもあらわに地団駄を踏む。脚の重みで、エステルとウィリアムという異物に気づいたのだろう。
グギャア、ギギャアと威嚇の雄叫びを上げたかと思うと、カラスの姿をした“邪悪なる者たち”はついに空高く飛翔した。
【8/15:追記】
濁点付き仮名が正確に反映されていなかったようです。
環境依存文字のようなので、半濁点で対応して修正しました。