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20.涙色の魔法と再会の約束


 横殴りの雨に打たれながら、小屋を飛び出して来たのは結果的に良かったのかもしれない、とエステルは思った。


 ウィリアムを置いてくる形になったが、脱出を急ぎたいのはエステルのわがままだ。自分の都合で彼をこの嵐の中、付き合わせるわけにはいかない。


 それでも、彼の言うように時間をかけて別の手段を模索している余裕はなかった。初めてクラリスに繋がる確かな情報を得られたのだ。すれ違ってしまった妹が、今この瞬間も危ない目にあっているかもしれない。


 もたもたしている間に彼女の身が危険に晒されることだけは避けたかった。


 エステルは、今度は海の民(マーフォーク)のことを強く心に思い描きながら魔法を使った。彼女への道を示して、と。


 濡れて用を成さなくなった包帯と当て布をジャケットの内ポケットに押し込みながら、血が浮かび上がり、霧散し、弾けた飛沫が金に輝く道を辿った。何度も開いた傷口はじくじくと痛んでいたが、数分も嵐の中に居れば、冷えた体温で感覚が鈍くなる。


 てっきり、道しるべはそのまま海の中へ続くかと思っていたのだが、光の粒子は砂浜をまっすぐ入江の方へと伸びていた。


 くらり、と頭がほんの一瞬揺れる。同時に視界がぶれて、自分が軽い貧血状態になっていることを自覚した。


 一日に、それも短時間に何度も魔法を使っているのだ。流した端から体内の血液が補充されるわけではない以上、今日はそろそろ自重しなければと少女は自分を戒めた。


 疲労の滲む息をこぼして、濡れて滑りやすくなった岩場を慎重に進む。


 魔法のしるべは、海の民の少女を最初に見かけた岬の付近で途切れていた。


 不明瞭な視界によく目をこらすと、金色の粒子が海の中へと続いている。この嵐で海水は濁っていたが、魔法の光は道筋を主張するように波間に揺れてエステルを誘った。


(もう一度、わたしを嵐の荒波から守って。水中でも不自由のない呼吸ができるように。波にさらわれずに目的の場所まで泳ぎきれるように)


 傷を負った手を握りしめて、祈るように強く心に願いを灯すと、エステルは勢いつけて岬の突端から海へ飛び込んだ。


 嵐に負けないという強い意志と、妹への情、それから海の民の少女へ会いたいという想いを抱いて、エステルは暗い海底への光だけを頼りに海の底へともぐった。


 気を抜けば一瞬で岩壁に叩きつけられそうで、岩場のそばを泳ぐのは恐ろしかったが、魔法が潮の流れを緩和してくれているお陰でどうにか難を逃れた。


 岬付近の海中は沖よりも浅い。それでも空がこの天気では、いくらももぐらない内に視界は黒で塗り潰された。その中で明滅する金の光だけを頼りに、見えない眼前を搔く。脚だけで泳げば、下手をすると頭から岩場に突っ込みかねない。


(今が嵐というのが、不幸でもあり幸いね。大きな魚も、危険な海中生物も息を潜めて隠れているだろうから)


 波に連れ去られる危険と引き換えに、少なくとも大型の魚に食べられるという危険はぐっと下がっただろう。海には血の匂いに引き寄せられて人を襲う魚も居ると、幼い頃に図鑑で読んだことがある。


 本の中でしか見たことのなかった世界が、今、目の前にあるということが、エステルにとっては不思議でならなかった。


 こんな状況でもなければ、もう少し心から楽しむことができたろうに。


 ふいに道しるべの光が弱くなる。余所事を考えてしまったせいで、魔法が不安定になってしまったのだろう。


 頭を振って目を凝らすと、何度か大きく明滅した光が力を取り戻すように輝いて、ゆるく下方へ弧を描いた。


 手を伸ばすと、ザラリとした表皮の枝のようなものに触れる。一瞬、驚いて手を引っ込めたけれど、生き物よりは植物のような質感にもう一度形を確かめるような手付きで触れてみた。


 根本で幾重にも分かれた細い枝は、海上に向かって伸びている。これがサンゴというものか、と記憶の中から図鑑の絵図を引っ張り出すのに、しばらく時間がかかった。


 光の伸びる方へ恐る恐る手を伸ばすと、これらのサンゴは辺り一帯に生えているようだと察せられた。サンゴ礁の間を、人ひとりがなんとか這って抜けられる道に、光が走っている。光はその更に奥の、小さな岩の窪みに入り込んだ。


 窪みもまた人ひとりが腹這いになってやっと通れるような洞穴になっており、頭をひとつぶん上げるだけで天井に触れるような狭いトンネルだ。


 息が詰まるほどの洞穴をどれほどか這うように泳ぎ進んだ頃、ようやくぽっかりと開かれた洞窟の潮溜まりへと出た。


 潮溜まりにはノクテルーカが青白い光を纏って身を寄せ合っていた。お陰で辺りをうっすらとした光が照らしている。


 空洞は人ひとりが暮らせる部屋ほどの広さで、その半分がエステルの泳ぎ着いた潮溜まりとなっており、もう半分には棚田のように段差の付いた岩場が続いていた。


 岩場の上は苔が絨毯のようにびっしりと覆っていて、その上に、潮溜まりへ尾鰭だけを浸した海の民の少女が寝そべっている。


 その光景は美しく完璧な、一幅(いっぷく)の絵のようだった。


 エステルが海面から顔を上げる音で、少女は体を震わせて身を起こす。瞳にエステルの姿を映すなり、美しい顔は忌々しげに歪んだ。


「またあなたなの? こんなところまで追ってくるなんて。もういい加減にして。聞きたいことは全部聞いたでしょう!?」


「ごめんなさい、あなたのテリトリーを侵してしまって。でも、まだ聞いてないことがあったから」


「これ以上、何の情報を引き出そうって言うの? あたしはもう、あなたみたいな人間が求めるような情報なんて持ってないわ」


「聞きたいのは情報じゃないわ。あなたの話よ」


 海の民の少女は、エステルの返事を聞くなり目を見開いて彼女を凝視した。ノクテルーカに照らされた青白い顔を、真偽を見定めるかのようにじっと見つめる。


 耳のある位置に生えたヴェールのような鰭状の器官が、飛沫を跳ねさせて波打った。


「だってあなたは、嫌っていただろう人間(わたし)の話を聞いてくれたのに、わたしったら自分のことばかり。あなたの話をちゃんと聞くこともしなくて、挙げ句こんな嵐を喚ぶほど、あなたの気持ちを波立てた。だから、きちんと聞きたくて」


「あたしには、もう話すことは何もないわ。あなただって、あたしの話を聞きたいんじゃなくてこの嵐を鎮めたいだけなんでしょ」


「嵐を鎮めたいのは違いないわ。でも、それだけじゃない。だってあなた、人間に怯えて、遠ざけたいほどに苛立たしげなことを言いながら、人を傷つけることに怯えてすらいた。それがとても不思議で……あなたのことをきちんと知りたいと思ったの」


「そんなのただの偽善よ。口ではどうとでも言えるじゃない」


「連れにも同じことを言われたわ。それで、口論みたいになって飛び出して来ちゃった」


 エステルが苦笑すると、海の民の少女は己の中の葛藤をこらえるようにむっつりと唇を引き結んで眉根を寄せた。


 エステルの言い分に、思うところはいくらでもあるだろう。何千年もの鬱憤も、理不尽に流した涙も、彼女の想像もつかないほどの苦しみもあるに違いない。


 エステルはまるで固く握りしめた少女の拳から、一本一本指をほどくように語りかけた。


 今のエステルにできることは、真摯な気持ちで言葉と心を尽くすことだけだった。


「わたしはあなたの言う通り、人間があなたに何をしたかも知らない。何も知らないから、あなたを傷つけた人たちと同じ人間だからって、安易に謝ることもできないわ。

 だから今度は、あなたの話を聞かせて。石碑のことや、わたしの妹のことじゃなくて、あなたの抱えているものを教えてほしいの。そうじゃないと謝ることもできないし、あなたの悲しみを知ることもできない」


「どうしてそこまで……、あたしはあんなにあなたを突き放すようなことを言って、怪我もさせたのに」


「そんなこと。突き放しきれなくて、結局こうしてわたしと話してくれるあなただから、放ってなんておけなかったのよ」


 エステルは微笑むと、「ねぇ、そっちに行っていい?」と潮だまりの水を搔いて岩場へ近づいた。少女はわずかに身を固くしたようだったが、拒否の言葉は出なかった。


 エステルは苔の生えた岩場に乗り上げると、少しだけ距離を置いて少女の隣へ腰を下ろした。


 少女は髪をほどいて絞るエステルを観察するように見ていたが、手櫛を入れてひと息つく頃に、やがて固く閉ざしていた口を開いた。


「昔……あなたにとっては何千年も昔、あたしたち海の民(マーフォーク)と海辺の町の人間たちは、良き隣人だったわ。それぞれが手を取り合って生きてきた」


「そうなの?」


「人間は必要以上に海の恵みを奪わずに暮らしていたし、海の民は人々が海を渡るとき、船が嵐で沈まないよう導いた。人間はそれに敬意を示して、人の文化や食べ物を海の民に供えたわ」


 人は人の領分を、海は海の領分を。互いに守り、侵さずに、それでいてうまく交わりながら生きていた。


 そう語る海の民の少女は、けれど、と続く言葉に顔を曇らせた。


「人間と“夜にひそむ者たち(ナイトレイス)”の間で大規模な戦が起こると、海辺の町の人々は次第にあたしたちを恐れ、排斥するようになったわ。

 どこかからまことしやかに流された“人魚の骨が万病の薬になる”という噂に踊らされ、『“邪悪なる者たち(ナイトレイス)”に傷つけられたのだから』と、人間は海の民たちを狩るようになった」


「どうしてそんな……ひどい。それまで培ってきたものを覆してでも、人はあなたたちを狩ろうとしたの?」


「戦になったら、町の外の人間もたくさん流れてきたからね。それに、人の命や病に、魔法はひどく無力よ。

 だから人間は、“魔法”以上の奇跡が欲しかったの。どんな瀕死の人間でも、それを飲めばたちどころに息を吹き返す奇跡の妙薬。いつ誰がどんなはずみで死んでもおかしくない世の中だったもの」


 昔は少なかった魔法使いは、戦をさかいに急激に増え、(おか)の者が海に入ることを恐れなくなった。


“夜にひそむ者たち”を恐れていた人間を、いつの間にか“夜にひそむ者たち”が恐れるようになった。


「あたしは同胞たちの手で、この岬に逃がされたの。ここのサンゴ礁、複雑だから、外を嵐の海流が取り巻いていればきっと隠れられるわって」


 おまけにこの洞窟への通路は、人の脚で泳ぐにはあまりに狭すぎる。エステルも道しるべの魔法が指し示していなければ、決して足を踏み入れることはなかっただろう。


 それどころか、魔法がなければ何も見えない視界でたどり着くこともできなかったに違いない。


「あたしの同胞もみんな殺されて、ありもしない薬の材料にされて、それでとうとうひとりになっちゃった。あたしもいつか人間に見つかって殺されるんだろうなって思いながら、どれくらいのあいだここに居たのかはわからない」


 少女はそう告げながら、魚の鱗で覆われた下肢を守るように抱きかかえた。シアンの鱗はノクテルーカの光を反射して、暗い洞窟でも青銀に煌めいている。


 それが美しくもあり、また人の上半身に人の姿ならざる下半身を併せ持つ様は異様でもあり、エステルの胸に僅かな畏れを抱かせた。


 だから人は、彼らを排斥したのだろうか。どんなに言葉を交わせても、どんなに人の姿に似ていても、決定的に異なる存在を畏怖の対象として。


 敬い尊重していたはずの隣人を、人間側の勝手な理屈の上塗りで駆逐してしまえるほどに。


 ――その当たり前を、人は恐怖で簡単に投げ出してしまえるんだよ。


 ついさっき、そう語り聞かせてくれたウィリアムの言葉が頭の隅で思い出された。


「いつだか、嵐はやんで、町も海も静かになって、海の生き物たちの音しか聞こえなくなった。町からはあんなに殺気立ってた人の気配が消えて、同胞たちの悲鳴も聞こえなくなってることに気づいて、それで遠くの海へ逃げようとしたの。でも、そこでやっと、どこへも行けなくなってしまったことに気づいた」


「海底遺跡で教えてくれた、海がループしているということ?」


「ええ、そう。何が起こったのかわからないけど、()()()()()()()ことはわかったわ。それで、あたしとこの海は隔離されたのだということだけ理解した」


 理解した頃には、もう何もかも手遅れだった。同胞も人間も、何がどうなったのか何ひとつわからないまま、少女はひとりぼっちになってしまったのだ。


 魚たちは変わらず悠々と海を泳いでいたけれど、彼女の悲しみや、怒りや、寂しさに寄り添ってはくれなかった。初めのうちはどうにかこの閉ざされた空間から脱出しようと試みたけれど、百年も足掻いた頃には、すでに少女の心が疲れ切っていた。


 だから日々をただ、食べて寝て、歌を歌って、海をたゆたうように過ごすことを選んだのだ。


 何も考えず、何にも心を動かされず、魚たちの動きを追って、ノクテルーカの明滅をぼんやりと見守る。そうすれば長い時間は無為に過ぎた。


 ――なのに、あの少女が突然現れて、突然消えた。


 朝焼けの色をした髪から、綺麗なリボンを一本落として消えた少女。久しく見なかった人間の姿に、恐れと期待を抱かずにはいられなかった。


 何も代わり映えのしなかったこの海に、どれくらいぶりか、明らかなる異変をもたらしたのだから。


「あなたの話を無下にできなかったのはね、あなたたちが何か、これまでとは違うものをあたしに与えてくれるんじゃないかって思ったから。

 それに……結局あたしは、まだあのきらきらした遠い昔の日々が忘れられないのよ」


「人間と海の民が、手を取り合って生きてきた頃が?」


「うん、そう。穏やかなのに刺激的で、笑顔に溢れてた。そんな日々が、また戻って来るんじゃないかっていう、勝手な期待。先に裏切ったのは人間なのに、それでもまだ、あたしは人間に期待してたのね」


 エステルは弱く微笑んだ海の民に、いくらか迷って手を差し伸べた。膝を抱えるように下肢を抱いた少女の手は、冷たくて、つるりとしていて、変に力を入れたら折れそうなほど頼りなかった。


 実際はその力がエステルよりもずっと強いことをすでに知っているのに、それでも、エステルはこの手が守らなければならないほど弱々しいもののように思えた。


 うっすらと付け根に水掻きのある指へ、手を重ねる。


「ごめんなさい。わたしは本当に何も知らなかった。人間があなたたちにしたことも、あなたがどんな気持ちでわたしと話してくれていたかも」


 少女の視線が重ねられたエステルの手に落ちて、それからそろそろと上げられる。エステルは琥珀色の瞳で少女を見つめ返して、人より鋭い爪の少女の手を両手で握りしめた。


「それから、ありがとう。怖かったでしょうに、わたしの話を聞いてくれて……あなたの話も教えてくれて」


「……だってあなた、あまりに必死なんだもの。跳ね除けようとするあたしが悪いような気がしてくるのよ。ずるいわ」


「そうね、いくらでも詰ってくれていいわ。でも、妹のことがそれだけ大切なの。あなたがあなたの同胞を憂えたように」


 海の民の少女は、しばらく躊躇したように黙っていたけれど、それからこくりと頷いた。そしてエステルの手を取ると、まだ血の流れている手のひらを両手で掬い上げて、ほとりと一粒、涙を流した。


 落ちた雫が淡いシアンの光となって、エステルの手のひらに鱗をまとわせる。エステルは驚いて少女の顔を凝視すると、海の民の少女は傷跡を覆う鱗を撫でて告げた。


「応急処置よ。怪我を治せるわけじゃない。それでも、こうして傷を覆って回復を早めることはできるわ」


「でも、魔法で怪我や病気を治すのは難しいって」


「だから、『回復を早めるだけ』なの。傷が塞がれば鱗は自然と落ちる。……それを、昔の人間たちは万能の薬だと思ったんでしょうね。あたしたちの魔法だって、そこまでの力はないのに」


 エステルはもう一度「ありがとう」と礼を言って、それから遠慮がちに「一度だけあなたを抱きしめてもいい?」と尋ねた。


 感謝と、謝罪と、きっと寂しがりな少女を慰めるための包容だった。


 少女はまだ抵抗のあるような顔で、それでも長らく誰とも触れ合えなかった寂しさに抗えなかったのだろう。


 おずおずと手を伸ばした少女の背中を抱いて、エステルは優しくぽんぽんと撫でた。幼い頃、雷に泣いたクラリスをあやしたように。つい先日、両親の訃報でくずおれた妹を宥めたように。


「わたし、エステルというの。エステル・エヴァンス。あなたの名前も教えてくれる?」


「みんなからはメリルって呼ばれてたわ」


輝く海(メリル)――あなたにぴったりの名前ね。

 ……ねぇ、メリル。わたし、この空間を閉ざす封印を解こうと思うの。扉を開けて、外への道を繋げるわ。そうしたらまた、あなたに会いに来ても良い?」


「なんのために? あなたがあたしに会うメリットなんて、もう何もないのに」


「そんなの、ただ話をしたいからよ。あなたの好きなもの、嫌いなもの、楽しいこと、苦手なこと。もっとたくさん話をしてみたいわ」


 エステルはこれまで、“邪悪なる者たち”を、ただただ恐ろしい化け物なのだと思っていた。人の心を持たず、解さない、人を食い、手慰みに(もてあそ)び、壊して捨てるだけの恐ろしい化け物なのだと。


 けれど少なくとも、一定の時代までは人と共存していた者たちも居たのだと知ることができた。こうして話してみなければわからないことが、世の中にはあまりにも多すぎる。


 戦うものではなく、言葉を交わして心を交わせるものだと知ることは、エステルにとっても大きな収穫だった。


 これから開く扉の多くに、まだ“邪悪なる者たち”が潜んでいるのだろう。けれどそこには危険なばかりではない、思い、悩み、笑い、涙を流す同じ心を持った者が居るかもしれないのだ。


 運が良ければ助けてもらえるかもしれないし、そうでなくても、互いに害意が無いことを理解し合えて気楽に言葉を交わせる存在が増えるかもしれないという希望は、エステルの心を支えてくれた。


 身を離して再び海へもぐるエステルの背中に、美しい少女の声が投げかけられる。


「どうせこの海からは出られないんだもの。あなたが勝手に来て話す分には、誰も咎めないわよ」


 それは素直になれない人魚姫の、最大限の譲歩だったに違いない。


 エステルは肩越しに振り返ってメリルへ笑いかけると、「また来るわ」と手を振って潮だまりの中へもぐった。




 帰り道は、何言わずともノクテルーカが示してくれた。


 洞穴から出ると、先ほどまでが嘘のように潮の流れは穏やかになっていた。海上を目指して水を蹴り、上昇していたさなか、それは起きた。吸い込んだ空気と海水が混じり合って、逆流した塩水が気道を焼いたのだ。


「……っぇ!」


 がぼり、と空気が肺から出ていく。えづくように咳き込もうと口を開けると、水を飲んでしまって更に鼻の奥と喉が痛んだ。


 魔法の効力が切れたのだ。流す血の量でどれほどでも持続し、効果も強くなるものだが、海に入る前に流した血の量では、ここが限界だったのだろう。


 海面はもうすぐなのに、と狭まる視界の中、死にものぐるいで水を掻いたとき、かすかにエステルの名を呼ぶ声が聞こえた気がした。


 エル、ではなく、ステラ、と。


 彼以外は誰も呼んだことのない、エステルを示すまばゆい星の名前。


 ウィリアム、と心の中で彼の名を呼んだ。ここに居るはずがないのに。彼はまだ、あの小屋で嵐が去るのをやり過ごしていたはずだろうから。


「ステラっ!!」


 ザブン、と波が大きく揺れるくぐもった音が聞こえた。それからうっすらと差す光に、逆光になった影が見える。


 黒い癖毛の間から、銀に輝く双眸が焦りと不安の色を宿してエステルを見つけた。


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