19.ジャムの瓶から飛び出すために
「ひとまず、いったん昼食にするか」
ウィリアムの提案で、それまで緊張と興奮で遠ざかっていた空腹感が戻ってくるのを感じた。
「そうね。お腹が空いてちゃ、いい考えも浮かばないもの」
毛布にくるまったまま、ナップサックから取り出したスコーンをどちらともなく齧りだす。行儀も何もあったものじゃないけれど、ここにはウィリアム以外に見ている者も居ない。
油紙にくるんで鷲掴みのまま食べるスコーンは、ささやかな礼儀への反抗と甘酸っぱいイチゴジャムの味がした。
簡単な腹ごしらえを終えて、ついでに魔法を使った際の傷を手当したあと、ずっと何事かを思案していたウィリアムがふと言った。
「思ったんだが、君の出逢った海の民は、人間を嫌うようなことを言う割によく人間を見てるんだな。そうじゃなきゃ、君の妹の動向なんてわかるはずもない」
「ええ。もしかしたら、嫌っているんじゃなくて怯えているのかもって、彼女の仕草を見て思ったの。それに……」
彼への返事と己の所感を整理しながら、エステルはふいに息を呑んだ。
彼の疑問に触発されて、それまでずっと感じていた、喉に魚の小骨が引っかかるような違和感の正体にようやく気づいたのだ。
「そうよ。あの海の民の子、『ジャムの瓶みたいに』って言ってたわ」
「ジャムの瓶? 話の脈絡が掴めないんだが」
「彼女が言うには、この空間は『まるで“邪悪なる者たち”を捕らえるために空間ごと封じ込めたジャムの瓶のよう』なんですって」
「そこから“ジャムの瓶”に繋がるわけか。それで?」
「おかしいと思わない? どうして人魚が“ジャムの瓶”なんて知っているの? 海の中にジャムがあるなんて思えないし、たとえどこかからジャムの瓶が流れ着いたとしても、それが“ジャムの瓶”だっていう知識はいったいどこから得られたの?」
あぁ、とウィリアムが納得の声を上げた。エステルの言わんとするところに気づいたようだ。
「本当にその海の民が人間を毛嫌いして避けていたのなら、人間の使うものや食べ物の知識なんて得られるはずがないもんな」
「ええ。彼女自身か、少なくとも彼女の周りには、本来、人間の知識を得られるだけの交流があったんじゃないかしら」
「あるいは、遠い昔には人との交流があったが、何かのきっかけで決別してしまったか、だな」
「彼女、『人間があたしたちに何をしたかも知らないで』って言ってたわ。なんだか、とても――話の断片を拾ってみた限り、手ひどい扱いを受けたみたいだった」
「それで人間に拒絶感を抱いて、攻撃される前に防御反応を起こした、か。それでもステラと話をしたということは……」
「なに?」
「いや」
ウィリアムが、今度はエステルを横目で見ながら口を噤んだ。思わせぶりに言いかけて止められると、続きが気になって仕方がない。
先を促すように少女もまた無言で見上げ続ける。しばらく沈黙の見つめ合いが続いた末、埒があかないと悟った青年は降参とばかりに口を開いた。
「その海の民は、本当はまだ過去の人間との交流を忘れられないのかもしれないな、と思ったんだ。あるいは、君に興味が湧いたのかも。……頼むからステラ、変な気を起こすんじゃないぞ」
彼の推測に、見開いた少女の瞳へ宿った光を見て、ウィリアムは呻くように付け加えた。
「だったら、もういちど話すチャンスもあるかしら?」
「そう言うと思ったから言いたくなかったんだ」
「やっぱり、もう一度彼女に会って話すべきだと思うのよ。この嵐があの子の衝動で起きた魔法だって言うなら、あの子を宥めないかぎり嵐も収まらないでしょうし。それともこの大規模な嵐を、わたしとあなたの魔法でどうにかできると思う?」
「失血で気を失う覚悟があるなら止めないが、お勧めはしないな。天候を操るなんて芸当は、本来なら生身の人間の扱える力じゃない。魔法を使うにも相応のリスクが伴うだろう」
「そうでしょう? クラリーの消えたという歪みがまたどこかに出来ていないかも調べたいし、それに……やっぱりこのままにしておけない」
嵐は今も衰えることなく鳴り続いている。まるでそれが、海の民の嘆きの深さを表しているようだった。
嵐と荒波に嬲られた髪はぐちゃぐちゃだし、乾かしてもらったドレスの裾も泥の混じった水のように濁った色をしている。
それだけ激しい感情の揺さぶりを与えてしまったのだ。このままでは、この荒々しい衝動の嵐は収まらないように思えた。
「それはこの嵐の中、また海にもぐるってことだぞ。俺は反対だ。それだって、嵐を魔法で止めることと同じくらい危険すぎる」
厳しい声が、彼を見つめ返すエステルの懇願じみた決意を遮った。冷静に考えれば、彼の言い分はもっともだ。
いくら魔法で潮流や衝撃を和らげようとも、穏やかな海を泳ぐのとはわけが違う。血も体力も、気力までも、ひどく消耗するだろう。運が悪ければ、海の中で力尽きないとも限らない。
「だけど、いつまでもこうしてるわけにもいかないでしょう?」とエステルは反論を試みた。
「嵐はいつやむかわからないわ。明日かもしれないし、三日後かもしれないし、十日後――もしかしたら一ヶ月続くかも。そのあいだずっとここに隠れてるなんて無理よ」
怒りは案外かんたんに忘れられるものだ。あるいは、海の民の少女のようにひとまず腹の底の箱に鍵を掛けてしまっておくこともできる。怒り続けることは疲れることだから。
けれど恐れや悲しみはそうはいかない。寄り添う者がいなければ、悲しみもまた癒えないことを、エステルはつい最近知ってしまった。
自分にはクラリスが居た。今は暇を出してしまったが、屋敷の使用人たちも。だからくずおれることなく、ここまで走り続けられたのだ。
けれど海の民の少女は、この孤立した海でひとりきり、誰にも会えないとこぼしていた。それが何千年も、気の遠くなるような時間つづいてきたのだ。彼女の孤独は推し量れないほどに深いだろう。
「すぐそばにクラリスへの手がかりがあるのに、このまま手をこまねいて足踏みしているわけにはいかないの。彼女の神経を逆なでしてしまったわたしに何ができるかはわからないけれど、もしも彼女がまだわたしと話してみたいと思ってくれるのなら、わたしはそのわずかな好奇心に賭けるわ」
「妹のことが心配なのはわかるが、こんな嵐のなか海に飛び出すのは無謀だろう? 何か他にも手はあるはずだ」
「妹のことだけじゃないわ。海の民の子のことも心配なのよ。こんなに激しい嵐を呼ぶほど悲しんでる」
「ずっと寄り添ってやるつもりもないのに気にかけるのは偽善だと思わないか?」
「それでも、ほんのいっときの心の慰めにはなるかもしれないでしょう」
「たしかに、純粋な気持ちで誰かのために行動できることほど美しいことはないだろうな」
ウィリアムの声が次第に硬くこわばり、元からない距離を身を乗り出すほどに埋められる。先ほどの戯れじみた空気はいっさい感じられない。毛布のゆくえについて口論したときとはまるで違う様相を呈していた。
「けど、最たる行動原理が“誰かの為”だということほど、危ういものもない」
それはいつか、己の身を滅ぼすぞ、と彼は言った。切々と、危険以上の何かを訴えかけようとするように。
「自分のために選ばなければ、いつか必ず取り返しのつかない後悔を抱えることになる」
「それはあなたの経験談?」
「そうだと言ったら?」
「……それでも、あなたとわたしはきっと、立場も、生まれも、背負うべきものも、何もかも違うわ」
ウィリアムが本来、どのような立場の人で、どのような人生を歩んできたのか、エステルは知らない。その口ぶりからするに、彼にも、誰かのためを思って選んだ行動で今に続く後悔を生んでしまった経験があるのだろう。
それでも、何もしないまま、「あのとき何かできたかもしれないのに」という後悔を後になって嘆くのは嫌だった。
それは、両親の訃報を聞いた時に散々繰り返した後悔だったから。
もしも両親が出かける前に引き止められていたら。あるいは一日出発を遅らせられていれば、両親は今も生きていたかもしれない。
過ぎ去ったたらればをいくつ積み重ねても、失ったものは戻ってはこないのだ。
翻ることのない意思をエステルの琥珀色の瞳に見出して、ウィリアムは彼女の肩を強く掴んだ。
「心配なんだよ、君は妹を見つけるために無茶をしようとしてばかりだ」
「でも、だって、両親も死んで、住む家もなくなったの。形見だってほとんど残ってないわ。わたしにはもうあの子しか居ないの。あの子が今のわたしの生きる目標なのよ」
かつては、夢があった。幼い頃はそれこそ、なりたいものは沢山あって、道理を知らない子どものエステルは、父の土地を継いで地主になるのだと豪語できた。妹と森で遊ぶとき、自分にしか見えない魔法があって、お伽噺の大魔法使いになるのだとも息巻いていた。
現実を知ってしまった今、彼女の見た夢は泡沫とともに消えてしまった。ラステールの国法では一部の例外を除いて女は父親の土地を受け継げないし、魔法はこの城の中にしか存在しない。
エステルの手の中に掴めるのは、みっつ歳下の妹の手のひらだけだ。
「妹しか居ないなんて言うな。……少なくとも、今は俺が居る。君の目の前に、こうしてここに居る。俺たちは相棒だろう?」
「そうね。だけどわたしはきっと、あなたのためには生きられないわ。あなたがそうであるように。
だってあなたもわたしも、ただ自分たちがこの城から出るために同じ船に乗り合わせただけだもの。この快適な檻のような城から脱出するまでの縁。外に出られたらそれでさよなら。そうでしょう?」
見上げた彼の顔が、声同様にこわばる。
ウィリアムは、何も言い返さなかった。否定も肯定も。そこにエステルはためらいを見て、すかさず毛布から抜け出した。
肩を掴んでいた彼の手は、拍子抜けするほど簡単にエステルから離れた。振り払おうと思えば振り払ってしまえるような、優しい力だった。
それがエステルへの配慮だったのか、それとも彼女の言葉が彼の心のどこかを突き刺してしまったせいで緩んだだけだったのか、エステルにはわからない。
小屋を出て、言い過ぎたろうかとほんの少し振り返った。
けれど、彼は追って来なかった。それが、エステルの問いに対する答えのすべてだ。




