17.衝動が喚ぶ嵐
このたおやかな人魚が“邪悪なる者たち”だと聞いて、怖くなかったわけではなかった。
一見すると鋭い爪も牙も見当たらないが、幼い頃から“邪悪なる者たち”は恐ろしい怪物だと聞かされて育ったのだ。もしかしたら、指先ひとつで人間を昏倒させられるような力を持っているかもしれない。
いくら彼女が怯んだからと言って、その気になれば人間をどうにかしてしまうことは造作もないのではないか。エステルも、それくらいのことはもちろん考えた。ネズミだって、追い詰められればネコを噛む。
けれどようやく掴んだ妹へ繋がる糸口を、みすみす目の前で逃すことに比べれば、大抵の恐怖は悲鳴と共に飲み込めた。
「このリボンの持ち主ね。見たわよ。一瞬だったけど。ほんのちょっと前にね。赤毛の、あなたよりまだ幼そうな女の子でしょう」
金髪をまとめるリボンを撫でながら、海の民の少女はエステルのもっとも望む答えを口にした。
「やっぱり! そう、そうよ。まだ十四歳なの。彼女はいったいどこに行ったの?」
つかのま、凍えるような海底の温度も忘れて興奮で頬が紅潮する。けれど彼女の抱いた淡い期待は、次に海の民の少女が口にした返答に脆くも突き崩された。
「あの子、すぐそこの離れ小島から出てきたの。突然現れたわ。何もないところに扉が現れてね。それで次の瞬間には、歪みの中に落ちちゃった」
「ゆ、がみ……? どういうこと?」
「言葉のままの意味よ。彼女の立っていた足元の風景がねじれて、吸い込まれていったの。穴に落ちるみたいに、足を踏み外したようなふうにね」
そのとき、彼女がリボンを落としたので拾ったのだ、と海の民の少女は言った。リボンの刺繍があまりにきれいだったので、つい。落とし主が再び現れるまでは使ってもいいだろうかという出来心で。
「歪みは彼女を飲み込んですぐに消えたわ。今はもう何もない。あの歪みがどこに繋がってるかも、あたしは知らない。またあの歪みが生まれないかずっと見張ってるけど、海はいつも通り凪いだままよ」
「……そうなの」
やっと手に入ったクラリスへと繋がる手がかりが、またしてもここで途切れてしまったことに、エステルはひどく落胆した。
ひとつ見つけては前進し、ふたつ見つけては後退しながら道を見失う。その繰り返しだ。あまりに紆余曲折するもので、まったく進んでいる気がしない。
(ううん、前向きに考えるのよ。少なくとも、やっぱりあの子もこの城へ閉じ込められていることはわかったんだもの)
それが良い報せだとは決して言えなかったが、少なくとも最悪の報せではない。今はそのことに安堵すべきだ。
「それから、えぇと……出口についてだっけ。出口とか石碑とかはよくわからないわ。あたしもはじめの頃は外海に繋がる道を探していたけれど、この海がどこにも繋がっていないことに気づいてからは探すのをやめちゃったから」
「どこにも繋がっていない……? やっぱり、ここも一定距離から先に行けないのね」
「と言うより、空間がループするような魔法がかかっているみたい。あの離れ小島からもっと先に泳いでいくと、いつの間にか浜辺の浅瀬に戻っているのよ」
「どちらにせよ小島から先に行けないのなら、小島の周りは調べなかったの?」
エステルが尋ねると、少女は眉をひそめて渋い顔をした。彼女の疑問はもっともだが、その話題にも触れたくないとばかりに。
「無理よ。あの辺りに近づくと、頭や体の中がぐるぐるして気持ちが悪くなるの。あれの近くには本能的に、“夜に出る者たち”が近づきたくなくなるような魔法が掛けられてるし、あたしたちの魔法じゃどうにもできないようになってる」
「“邪悪なる者たち”の魔法……? 人の使う魔法とは違うの?」
つい、いつもウィリアムに聞き返すのと同じ調子で尋ね返してしまった。
人間に対して、警戒心と敵愾心を持つ異種族の少女だ。根掘り葉掘り尋ねては口を閉ざしてしまうかと思ったが、彼女の懸念に反して、海の民の少女は呆れた声を上げながらも口を噤みはしなかった。
「そんなことも知らないの? あなた、そんなんでよく魔法なんて使ってるわね」
「魔法については手探りなの。だってわたしたちの時代には、魔法も“邪悪なる者たち”も、大魔法使いがおさめたという“邪悪なる者たち”の大規模な襲撃も、お伽噺の中だけの存在なんだもの」
まさか本当に“邪悪なる者たち”が存在するなんて思いもしなかったわ。そう続けたエステルの返事に、少女は眉をひそめた。
「あなたたちの時代? “夜に出る者たち”の襲撃に……、魔法がお伽噺ですって? いったいどれだけの時間が流れれば、あの悲惨な時代が『お伽噺の中の物語』になるっていうの」
「少なくとも、”邪悪なる者たち“が世界に溢れていたのは、何千年も前だと言われているわ」
返答を聞きとがめた海の民の少女に、エステルは今がどのような世界で、どうして自分に魔法や“邪悪なる者たち”の知識が乏しいのかを語って聞かせた。
大魔法使いとその功績に端を発する、“邪悪なる者たち”の襲撃。
彼らがひとり残らず地上から姿を消したこと。
彼らが世界から消えてのち、それこそ、千年や二千年では足りない年月が流れたこと。
この海には、自分が囚われている出口のない城の扉から繋がっていたことも。
話を聞くにつれ、海の民の少女はさっと青褪めると表情を固くして呻く。
「冗談でしょう。まさかあれから、何千年も経ってるなんて」
悍ましいことを聞いたと吐き捨てる口ぶりでこぼした海の民の少女へ、エステルもまた驚愕に目を剥いた。
「待って、それって……そんなに長いあいだ、あなたはここに囚われているということ? “邪悪なる者たち”が世界から消えた時代から? ずっと生きているの?」
ここは魔法という伝説上の存在が満ちる城だ。だから、人間が人魚と呼ぶ存在も、いつしか天寿をまっとうし、また人知れずこの海の底で新たに生まれ出ていても不思議ではない。
それがまさか、死することもなく延々と生き延びていたなどと、誰が思うだろう。
“邪悪なる者たち”が怪物で、たとえ人間とは比べものにならない寿命を持つとして、それほど長く生きられるものとは思えない。生命には必ず終わりが訪れるものなのだから。
(つまり、ここは「時間ごと」中のものを閉じ込めるための部屋だということ? あの、扉を隠す石碑の封印も―――)
ちらりと頭の隅でエステルが考えたとき、険を帯びた少女の声が牙を剥いた。
「好きで居ると思う? こんな誰も居ない、出口も見当たらない、たったひとりで永遠を過ごさなきゃならない地獄のような場所に」
やはり海の部屋でも、意思疎通の可能な存在はこの海の民の少女以外に居ないようだった。それはまた、彼女が長いあいだ孤独に晒されてきたのだということを物語っていた。
エステルは言葉なく首を振る。口先だけの慰めも、見せかけだけの寄り添いも意味がなかった。ただ忌々しそうな少女の声に滲む不本意さが、彼女の心中を如実に語っていた。
「当時の魔法使いね。あいつらがあたしをこんな場所に封じたんだわ。こんな繊細で大仰な魔法、扱えるのは人間の魔法使いだけだもの。“夜に出る者たち”には無理よ」
「それって、さっき言っていた“邪悪なる者たち”の魔法と人間の魔法の違いに関係するのかしら」
エステルの問いに、水の民の少女は小さく頷いた。辺りの朽ちた海底遺跡を見回して、彼女はそこに郷愁を見出すように海面を仰ぐ。
「この広いようで狭い空間は、景色だけならあたしのいた海そのものよ。それって多分、その部分だけをスコップで掘り出すようにして、土台になる別の場所へ植え替えたんだわ。人間の作る庭みたいにね。あるいは瓶に詰められたジャムみたいなものよ」
「鍋から移し替えたごく一部の空間を、瓶に詰めて、棚の中にたくさん積み重ねた……ようなものなのかしら」
「たぶんね。そして、蓋を閉められて開けないジャムは中身がなくなることもなく、凝り固まって棚の奥でひとつの世界を構築する。
ここでは願えばなんでも叶うけど――そういう魔法がかかっているようだから――飢えないし、凍えないし、死なない――、代わりに誰とも会えないしどこにも行けない。だって世界はここで完結しているから。タチが悪いのは、時間の流れを完全に奪い去ったことだわ」
ギリ、と海の民の少女が歯ぎしりをした。ごぽりと吐き出された息の塊が、泡となって立ち昇っていく。
今まで沈静化していた彼女の怒りが、急速に膨れ上がっていくのを感じた。
「人間はいつも身勝手だわ。いつだって一方的にあたしたちを畏れて、敬って、欲のままに蹂躙する! そして今度はこうして自由も寿命さえも奪うのね。――なんて傲慢!!」
少女が叫んだとき、自身を包む海流が唸りをあげて大きく揺れた。まるで彼女の怒りに呼応しているようだ、と考えてから、エステルは違う、とあやふやな憶測を否定する。
「まるで」でも、「ようだ」でもない。正真正銘、荒ぶる海の民に波が同調しているのだ。
(嵐が起きているの? 人魚の……水の民の怒りで?)
ピリ、としばらくぶりに肌が粟立つのを感じた。皮下にぞわぞわとした震えと微かな痛みが走る感覚。
かつて幾度となく経験した、虫の知らせだ。このままでは必ず危険なことになる。考えるが早いか、エステルは海の民の少女を宥めようと試みた。
結果は――
「落ち着いて。ねぇ、このままじゃ嵐で魚たちも無事じゃ済まなくなっちゃうわ」
「落ち着けですって? 人間のあなたがそれを言うの!? わたしたちにしたことも忘れてのうのうと地上で生きながらえているくせに!」
惨敗だった。
エステルが動揺した隙をついて、少女はとうとう拘束されていた手を振り払う。強く、易々と突き飛ばされて、それまで彼女が「拘束されてくれていた」のだとようやく気づいた。
ふたりを取り巻いていた発光生物――おそらく少女が最初にノクテルーカと呼んだものが、明滅を繰り返しながら右へ左へと潮流に揉まれる。
危機への警告のようにちかちかと光を騒がせる微細な生き物は、波に抗えるわけもなく、またたく間に散り散りに流されていった。
エステルの指先に灯った小さな光も見る間に勢いが衰える。彼女の願いの力が弱まっているからか、それともこの激しい潮流に「魔法が吸われている」せいなのか。
潰えていく光にいよいよ危険を感じて、エステルは海の民の少女への説得を諦めた。腕力では敵わない。おそらく知識でも。
生きてきた時代が違うのだ。魔法の息づく時代に生きた“邪悪なる者たち”に、今のエステルの未熟な魔法で太刀打ちできるはずがない。
今はただ、己の身の安全を確保する必要があった。ウィリアムに釘を差されたことを思い出す。気づけばすっかり長いあいだ海中にもぐっていた。
海のうねりがおかしい今、一刻も早く海上に戻らなければ、彼が本当にここまで探しに来るかもしれない。そんな危険に巻き込むわけにはいかなかった。
水底を蹴る。ごうごうと耳元で海鳴りがする。それは上へ上へと上昇するたびに、遥か頭上で荒れ狂う雷の音と共にエステルの全身を叩いた。
必死で脚を動かすエステルの耳元で、
「愚かで無知なあなたに、もうひとつだけ教えてあげる」
水の民の声が囁いた。
「あたしたちの魔法と人間のそれは違うわ。人間は祈りや願いの強さで魔法を使うんでしょう。だけどあたしたちは個々が持つ“衝動”の強さで魔法を使うの――こんなふうにね」
衝動、と口の中で反芻して、エステルは一瞬、ちらりと振り返った。海底遺跡があった辺りは、距離感さえ掴めない闇が周囲を黒く塗りつぶしているだけだ。水の民の少女の姿もノクテルーカも、もう何も見えない。
それどころか、頭上を見上げても海面に差す光の気配は窺えなかった。完全なる闇が、エステルの視界を覆っている。あの、クラリスの気配のする悪夢のようだと震えた。
向かっているのが本当に海面なのかもわからないまま、それでもエステルは無我夢中で海上を目指した。
背中から荒波の勢いを増した水流が襲い、かと思えば今度は前方からエステルを押し流すように突き上げる。内臓が潰れそうなほどもみくちゃにされて、吐き気を喉元でこらえながらなんとか海上に顔を出したとき、
「ステラ! 無事か!?」
渦を巻く潮に紙一重で抗いながら、筏を死守するウィリアムの姿が見えた。
いつの間にか筏のすぐそばまで戻ってきていたらしい。
青かった空には黒々とした暗雲が立ち込め、烈しく叩きつける雨を降らせていた。海中で感じた何倍もの大きな風の音が、冷えたエステルの体から余計に体温を奪っていく。
嵐が来ていた。水の民の怒りが呼んだ嵐だ。これが“邪悪なる者たち”の魔法なのだろうか。たったひとりの力で容易に天候をも変えてしまうような、激しい力が。
死に物狂いで水を掻き分け、筏に縋り付こうとするエステルを、ウィリアムの温かい手が引き上げる。
「ステラ!!」
エステルを呼ぶ男の声が、今この瞬間だけは、何よりも彼女を安心させた。
この安心感を、遥か昔に己の名を呼ぶ他者の存在を失った水の民の少女は、もう長らく忘れているだろう。
そう思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。
ラッコが海で眠るときにそうするように、再び海に落ちたりはぐれたりしないように互いの腕を絡めて固く組む。もう片方の腕は筏の格子にしっかりと掴まって、懸命に櫂を動かすウィリアムが体勢を崩さないように、エステル自身が命綱の代わりとなった。
「さっき話した人魚が居たの。彼女の動揺が嵐を呼んだんだわ! 飲み込まれないように浜辺にいちど戻りましょう!」
互いの耳元で暴風が唸るせいで、自分の声さえ満足に聞こえない。それでもウィリアムは、エステルの言葉を一語一句受け止めたように頷いて、荒れた波の上を全身全霊で浜辺へ急いだ。




