雨の日
じめじめとした梅雨入りの六月上旬。通学路に咲くアジサイがこの季節をどうにか嫌いにならないようにと精いっぱいにアピールしている。彼らの尽力がなければ、傘が必要になる上に、公共の交通機関が特に込み合うこの時期を嫌悪するのは必至だった。
この時期に喜ぶ農家さんたちには悪いが、太陽の光が恋しくなる陰鬱な季節ははやく去ってほしいと望んでしまう。
通学路を一人、傘を差して歩く黒髪の少女は、今頃バターロールを咥えているのであろう幼馴染の家へと向かっていた。
途中でお気に入りだったスニーカーを水たまりで泥まみれにしてしまったことで、今日の彼女は機嫌が少し傾いてしまっている。
なにかいいことないかなぁ。
あまりに陳腐な願望ではあったが、これ以上、今日という日が悪い一日にならないことだけを霧崎雀は願った。
ものの数分で目的の場所に到着し、いつものようにエレベーターを使ってその彼が待つマンションの一室へと昇っていく。
扉の前に到着し、時間を確認してみるといつもと時計の角度はまったく変わらず午前七時十八分を指していた。
呼び出しのチャイムを鳴らし、そろそろ現れるであろう彼の姿をモニターの中に探してみる。
「おはよう。いつも悪いね」
数秒経って現れた城野天音は、予想通りバターロールを手にまだ眠気の晴れていない顔をしていた。
「おはよう。そう思うんなら早く準備してよね」
「わかった、早めに動いてみるとしよう。それじゃあいつも通り下で待っていてくれ」
「いや、今日は雨降ってるからここで待ってるよ」
モニターの中の彼はそれを了承したようで、手をひらひらと振ると再びモニターは暗転した。
しかし、雀にはここから彼が出てくるまでにあとどれだけの時間を有するのかをすでに把握しているため、彼の言う早めをあまりあてにはしていない。
彼が出てくるまでの数分間を、彼女は読書をして待つことにした。
カバンからタブレット端末を取り出し、保存しておいた小説を起動させる。
事件以降、しばらくの間電子機器に触ることも出来ず、雀は半狂乱になりかけていた。もしも、彼が寄り添って助けてくれていなかったら自分がどうなっていたかは想像に難くない。
あの時受けた恐怖は今もまだ治りかけのかさぶたのようではあるが、しっかりと残っている。
弟のような存在だと思っていた天音の存在がとても頼もしく見え、同時に今まではなかった胸の痛みを感じるようになり、それを自覚して一人で赤面したりすることが増えた。
私が守ってあげる……もう私じゃ頼りないのかな。
十年以上前に天音にかけ、つい最近も彼にこの言葉を投げかけた。
幼かった自分と今の自分に感情のずれがあることは理解している。
ほんの数日しか経っていないというのに、雀は彼の力になれるのかと思い悩んでいた。
何か、目に見えた力が欲しい。
ランク戦という戦前の番付のような戦いはすでに終わっている。雀はCランク、天音はFランクで彼女の方が上位ではあるが、そのランクはもはや役目を果たさないだろう。
彼の実力は咬園のトップである教師陣に一目置かれるほどだ。
おそらく『異能』として認められるだろうと、三宮が珍しく声を大にしていたので、それは単なる称賛ではなく事実なのだろう。
おそらく彼は、どれほど実力に差が生まれようとも、あの時の約束を破るようなことはしないだろう。だが、それに満足していては、自分には彼の隣に立っている価値がないように思える。
あと一か月ちょっとという短い時間ではあるが、あの子と共に雀も強くならなければいけない。
ホルスターの納まる場所に手を当て、今はない相棒の感触を空気で感じる。
「お待たせ。どうした?」
「へ?」
気が付くと、雀は人差し指を前に伸ばして銃の形を作り、前へと突き出していた。
そして、あまりにもタイミングよく彼は扉を開けてしまったのだ。
「な、なんでもないよ!」
慌てて腕を引っ込め、真っ赤になる顔をタブレットで隠す。
ほとんど読んでいなかったそれが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
「そうか、それじゃあ行こうか」
優しさなのか無関心なのか図りかねるが、これが彼なりの優しさなのだろうと思い、タブレット端末をカバンに押し込んだ。
「それと、一つ頼みがあるんだが」
「なに?」
「傘を学校に置いてきてしまったんだ。悪いが、雀の傘に入れて貰ってもいいか?」
「うん、もちろん」
天音の頼みを快く引き受けた雀は、こういうところで抜けている彼のこういう一面が可愛く思えた。
「朝は降ってるけど、帰りには止んでいることも最近多いからね」
「ああ、すでにビニール傘を二本学校に放置している」
「もう、しっかりしないとだめだよ」
「そうだな、気を付けるよ」
いつも通りの和やかな時間が流れる。ここから約五分の最寄り駅まで歩き、電車で十五分、そこから徒歩十分の時間をかけて学園へと向かう。
ん?傘に入る?
理解までにかなりの時間を有したが、彼女はようやく彼がなにを頼んだのかを理解した。
いいこと、もうあった。
ほとんど心臓の音と雨音で会話に集中できなかったが、複雑な気持ちでの雨の日のイベントは終わりを迎えた。
時々周りからの視線を感じ、恥ずかしさと謎の高揚感にパンク寸前だった雀だったがなんとか耐え抜くことができた。
「どうした、なんだかやけに疲れているように見えるが」
「き、気にしないで。雨の日は偏頭痛持ちに辛いだけだから」
途中言葉がたどたどしくなりながらも、彼女の理性は保たれた。
「「Fランクのくせに……」」
しかし、彼女の耳に入った神経を逆撫でされるような悪意で浮かれていた気持ちが一気に消し飛んだ。
慌てて天音の顔を窺ってみると、前のように平然としているわけではなく、多少なりとも不愉快だと感じている暗い表情をしていた。
「しょうがないさ。最低ランクの俺が、突然、特記戦力候補として持ち上がっているんだ。多少は妬みもあるだろう」
彼は怒っているというよりも、悲しんでいる様子だった。
前の一件も関与しているのだろう。自分が傷つけられることは、自分ひとりが我慢すれば済む話ではないことを彼は学んだ。
「うん、気にすることないよ。悪口を言う人は誰よりもその人のことを評価しているって言うしね」
声を荒げたい気持ちを必死で抑え込み、精いっぱいの励ましの言葉かけた。
どうして、最低ランクの烙印を押されてもなお俯くことなく努力し、その結果正当な評価を勝ちとった彼を称賛こそすれ、どうして貶めようとするのか。
しかし、それを口にしてしまっては彼らと同じ、他人の足をひっぱりあう者たちの土俵に上がってしまうことになる。
彼の価値は知っているものだけが正しく理解していればいい。
そう、自分に言い聞かせ、沸き上がってくる感情を抑え込んだ。
「さ、早く教室に行こう。たぶんもう、徹と詩恵はいるはずだから」
「そうだな」
教室へ向かうまでの短い距離の間にも、天音を蔑む、わざとらしく聞こえやすいように話す声が聞こえていた。
彼らがどういう気持ちなのかは絶対に理解することはないだろうが、これで二人は再確認させられた。
一度押されてしまった劣等生の烙印はどれだけ後から名誉で着飾っても消えることはないのだと。




