ドッペルゲンガー
瞼を開くと、そこには見慣れた白い天井があった。
僕の部屋。何千回眺めたかわからない天井。木目を数えて気を紛らわせることすらできない、無機質な天井だ。
僕は白い毛布にくるまって、自分のベッドに横になっていた。のりのきいた真っ白いシーツ。窓の外にはちらちらと雪が舞っている。外はどんよりと曇っていて、ほんの僅かな光しか入ってこない。
白い時計の針は四時半を指していた。冬場の朝の四時半ならまだ外は真っ暗なはずだから、今はきっと午後の四時半なのだろう。一年の中で最も日が短いこの時期は、一般的な終業時間、つまり午後五時ともなると、空はだいぶ暗くなっている。今はちょうど急速に日が暮れていくタイミング、逢魔が時というわけだ。
既に向かいのマンションの窓からは何箇所か明かりが漏れていた。僕の部屋は賃貸マンションの四階。ごくありふれた2LDK。
寝汗で湿ったシャツがべったりと皮膚に貼り付いて、寝起きの気分は最悪だった。何か悪い夢を見ていたような気がするのだけれど、夢の記憶は目覚めた瞬間から急速に消失してゆく。
絶望、虚無、希死念慮。意識の片隅にそれらの小さな残骸を残して、悪夢は跡形もなく消え去った。
ベッドから出ると、寝汗で濡れた体から熱が急激に奪われてゆく。一応部屋にエアコンはあるのだが、あいにく動いていなかった。きっと寝るときに消したのだろう。そのため、部屋の空気はすっかり冷え込んでいた。AIのシンギュラリティが議論される世の中になったというのに、エアコンというやつはまったくもって気が利かない。
寝起きの悪い僕は、起床してから頭が動き始めるまでに少々時間がかかる。今だって、眠る前に何をしていたのか全く思い出せないでいるのだ。まあ、思い出したところで、きっとろくなことをしていないんだろうけれど。
十年前のパソコンのように重い頭を振り払い、僕はまず服を着替えることにした。白い洋服箪笥には丁寧に折り畳まれた白いシャツとスウェットがたくさん詰め込まれている。僕はその中から適当に上下ひとつずつを取り出して、のっそりと時間をかけて着替えを済ませた。
この部屋にあるものは全てが真っ白だ。白い壁、白い天井、蛍光灯が白いのは当たり前として、白いベッド、白い枕、白いテーブル、白いエアコン、白い時計、白いタンス、白い本棚……とにかく、何もかも。余談だが、下着も白しかない。だから、もしこの部屋でカレーうどんやミートソーススパゲッティを食べようとすると、かなりのプレッシャーを感じることになるだろう。幸いなことに、今までそういう機会はなかったけれど。
こんな話を聞くと、何故これほどまでに白いものばかり集められたのか、という疑問が湧くだろう。実を言うと、僕にもよくわからない。この部屋にあるものは全て、妻の美雪が選んだものだからだ。
もちろん僕自身、白は好きな色でもあるし、それを受け入れるのだけれど、ここまで何もかも真っ白になってしまうとさすがに薄気味の悪さを感じてしまう。ずっと前にこういう新興宗教が社会問題にならなかったっけ。しかし、かかあ天下の我が家で、財布の紐を握られた弱い立場。家事の一切を押し付けてしまっているという負い目もあり、美雪の意向に逆らうことなどできないのであった。今のところはまだ妙な宗教にいれこんでいるような様子はないけれど、客観的に見れば彼女だって一般的な専業主婦なのだ。注意するに越したことはない。
ああ、こんなことを会社でうっかり口にしようものなら、女性差別だとか言われてしまうんだろうなあ。気をつけねば。
閑話休題。今はまず、この汗だくの服を何とかしなければならない。僕は汗に濡れたシャツとスウェットを持って部屋を出た。これを洗濯してもらわなければ。家庭内ニートである僕は、どこに洗濯物を置いたらいいのかすらわからないのだ。きっと何度も説明されてはいるんだろうけれど、家に帰ってくると途端にこんな簡単なことすら覚えられなくなってしまう。覚える気がないと思われてもしようがないし、実際にそうなのかもしれない。しかし、これも『甘え』という愛情表現の一種だということで正当化できないだろうか。だめかな?
廊下に出ると、リビングの方からテレビの音が漏れ聞こえてきた。英語の音声だ。レンタルした映画のDVDかもしれない。いや、最近はテレビに直接繋いでストリーミングで映画が見られるようなものもあるらしい。どちらにしろ、あまり映画を見ない僕には無縁な代物だ。
僕はリビングに向かって声を掛けた。
「お~い、美雪。ちょっと寝汗かいちゃったんだけどさ、洗濯物はどこに置いたらいいのかな?」
しかし、返事はない。映画の音で聞こえなかったのかもしれない。僕はもう少し声を張り上げた。
「お〜〜〜〜〜い、美雪! 洗濯物! どこに置けばいいんだ!」
それでも返事はなかった。いくらテレビの音量が高かったり映画に熱中していたとしても、今の声が聞こえないわけはない。
僕は咄嗟に、何か美雪を怒らせるようなことがあっただろうか、と思考を巡らせた。彼女はケンカの際に激昂しヒステリックになるようなタイプではなく、徹底的に無視を決め込むことが多い。つまり、僕が何らかの理由で彼女を怒らせてしまったために、シカトされているのではないかと考えたのだ。
でも、怒らせる理由って何だろう。すぐには思い付かなかった。今日はどこかに出掛ける約束をしていたっけ……いや、特には決まっていなかったはず。今日は何かの記念日? ……いや、結婚記念日は夏だし、誕生日でもない。休みの日に家事も手伝わずにぐうたら昼寝していることだろうか? そう言われたら反論の余地はないのだが、一応俺だって一週間働きづめで疲れが溜まってるんだから、昼寝ぐらいで怒られたらたまったもんじゃない。
ああ、いや、そうか、映画を見ながら眠りこんでしまっているという可能性があるのか。
起こすのは気の毒だけど、洗濯物を放置しておくとそのうちどやされるのが目に見えている。やれやれ、と思いながら、僕はリビングに向かった。
「ねえ、美雪……」
リビングに足を踏み入れ、美雪の姿を目にしたところで、僕は驚愕した。
彼女は起きていた。リビングのソファに二人並んで映画を見ていたのだ。
僕と一緒に。
美雪は、隣に座っている僕の肩に寄りかかっていた。
わけがわからない。
目をこすっても、頬をつねっても、目の前の光景は変わらなかった。そこには確かに僕がいたのだ。
短く切り揃えた髪、一重で目付きのきつい悪人顔、白い上下の衣服。どこからどう見ても僕だった。毎日鏡で見ている顔を見間違えるわけがない。
もしかして、これはドッペルゲンガーというやつだろうか。しかし、ドッペルゲンガーってこんなに普通に触ったり寄りかかったりできるものなのか?
頭の中を無数の疑問符が乱れ飛んでいる。
いや、今はまず、僕の存在に気付いてもらわなければ。そしてこの偽物をなんとかしなければならない。僕は美雪の隣にいる僕の偽物に全力で殴りかかった。
「こんの野郎!」
だが、確かに顔面を捉えたはずの渾身の右ストレートは、偽物に触れることすらできずにするりとかわされてしまった。
おかしい。避けられた様子もないのに……いや、きっと勢いをつけすぎて外してしまったんだ。僕は慎重に狙いをつけて、もう一度顔面に右ストレートを叩き込んだ。
スカッ
……あれっ。
おかしい。さすがに今のはクリーンヒットしているはずだ。偽物が身を捩って避けたわけでもない。目の前にいる僕を無視して、ずっとスクリーンに視線を注いでいる。美雪も、まるで僕のことが視界に入っていないかのようだった。こんなにすぐそばにいて、気付かないはずがないのに。
ちょうど映画が終わったところらしく、テレビからは英語のゆったりしたバラードが流れてきた。今はエンドロールだろうか。そんなことはどうでもいい。
「美雪……おい……」
僕は美雪の目の前に立った。それでも、彼女の視線は僕の体をすり抜けて、テレビへと向けられている。彼女は言った。
「懐かしいね。覚えてる? これ、初めてデートに行った時に見た映画だよ」
僕の偽物が答える。
「もちろん。一生懸命調べたからね、初めてのデートにはどんなデートコースを選ぶべきかって。友達にも結構相談したよ。映画はどんな内容のものがいいかってことまで」
「ええ、そうだったの?」
「そうだよ。女の子とのデートなんて初めてだったから」
嘘をつくな。知らないぞ、そんなこと。僕の記憶ではない。僕の顔で嘘をつくな。僕と美雪の初デートは……。
必死で記憶を辿ってみたが、頭の中に靄がかかったようで、知り合った当時のことが思い出せない。
「おい、美雪! そこにいるのは偽物だ、僕はここにいる!」
僕は美雪の目を覚まさせるため、肩に手をかけ、揺すろうとした。が、どれだけ強く揺すろうとしても、彼女の体は微動だにしない。
やっぱり何かがおかしい。じっと手を見る。何の変哲もない僕の手のひら。
僕はもう一度美雪へと手を伸ばし、今度はその滑らかな頬に触れようとした。
指先に全ての神経を集めて。
彼女の柔らかい肌の感触を思い出しながら、そっと……。
僕の全存在をかけた指先は、彼女の表皮に触れることなく、その頬にめり込んでいった。
「うわあああああああああ!」
僕は絶叫した。それでも美雪は眉一つ動かさない。彼女の瞳に映り込んでいたエンドロールが途切れ、画面が暗転する。その瞳の中に僕の姿はなかった。
恐る恐る振り返って、暗転したテレビのスクリーンを見る。
白いシャツと白いスウェットを身に纏い、中腰になって美雪の頬へ手を伸ばす僕の間抜けな後ろ姿があった。
しかし、肝心の顔の部分が、ブラックホールのように黒く塗り潰されている。
僕は自分の首に触れてみた。掌に触れる生温かい感触。
首は生えている。
そのまま手を上へ。
自分の頭があるはずの……。
皮膚の感触が途切れる。
僕の指先は虚しく空を泳いだ。
僕には頭がなかった。
「ああああああああ!」
その黒い空洞に吸い込まれるように、僕の意識は奈落の底へと落ちていった。




