最初で最後の自由
「雪人……雪人!」
体を強く揺さぶられる感覚と、僕の名を呼ぶ美雪の声。
奈落の底で散らばっていた意識が急速に収斂していく。無意識の濁りが意識のフィルターに濾過されて、自我がくっきりと像を結び始めた。
瞼を開けると、そこには見慣れた白い天井があった。
ここは僕の部屋。僕のベッド。
そして、
目の前に、美雪の顔。
戸惑ったような表情で僕の顔を覗き込んでいる。
その黒い瞳には、ちゃんと僕が映り込んでいて、それだけで、僕は安堵した。
最高とは言わないけれど、平穏で、ありふれた、それなりに幸福な目覚め。
「美雪……おはよう」
我ながら随分間の抜けた声で寝起きの挨拶を述べると、美雪の表情は途端に和らいだ。これだけで、もう最高の目覚めだと言ってしまっても構わない。
「うなされてたみたいだけど、大丈夫?」
「ああ……うん。ちょっと悪い夢を見ていたみたいだ」
「どんな夢?」
さて、どんな夢だっただろう……。
夢の中にいて、なおかつそれが夢だということに気付いている状態。それを『明晰夢』というらしい。しかし、僕にはそんな器用なことはできなかった。夢を見ている間はそれが世界の全てだと思い込んでいるし、それがどんなに酷い世界であったとしても、自由自在に抜け出すなんて不可能だ。
それでいて、覚醒した瞬間から夢の中の記憶はどんどん消え去っていく。どろどろの無意識の海から浮上する過程で、意識のフィルターから漏れ、流れ落ちてしまうのだろう。まるで上品な香水のように、ほんの微かな余韻だけを残して。
そして、出涸らしになったドリップコーヒーのフィルターに残った搾りかす。それがこの僕だ。
濾された熱い液体がどれほど黒く、どれほど苦く、どれほど渋くて、どれほど香り高いのか。僕は知る術を持たない。それを味わっているのはどんなやつなのか、ずっと気になっている。夢を食べて生きる獏という生き物が実在するとしたら、この部屋に住んでいる獏はきっとぶくぶくと肥え太っていることだろう。
話が逸れてしまったけれど、つまりは、なんとなく嫌な夢だったような予感はするのに、それが具体的にどんなストーリーを持った夢なのかは一切思い出せなかった。いっそのこと、全てが夢だったらいいのに。
「ううん……忘れた」
「そう……」
美雪はわずかに目を細めた。こんな風に、ほんの少し憂いを帯びた顔も、僕はとても好きだ。もしも彼女の精巧な胸像があったとしたら、どんなに高名な芸術家がそれに手を加えたとしても、僕は直ちにそれをエゴだと断じることができるだろう。それぐらい危うく、微妙なバランスで、彼女の比率は保たれていた。
「じゃあ、私、朝ごはんの支度をしてくるね」
美雪はそう言い、白いシャツの襟の乱れを整えて、僕の部屋を出て行った。白いロングスカートが残り香のようにゆらゆらと揺れた。
もう朝なのか。
蟻地獄に飲まれたように重い体をベッドからようやく起こして、窓際に立ち、カーテンを開ける。ガラス越しに眺める空はどんよりと曇り、上白糖のような細雪が舞っていた。ここは3LDKのありふれたマンションの四階。時計を見ると、既に十時を回っていた。かなり遅い朝の部類に入るかもしれないけれど、まだ辛うじて朝と言い張れる時間帯に目覚めたのは、僕にとって珍しいことだった。
体がぶるりと震える。少し寝汗をかいていたみたいだ。朝飯を食べる前に風邪をひいてはたまらない。僕は服を着替えて、再び白いベッドに潜り込んだ。
白い服。白いベッド。白い時計。白いエアコン。白いテーブル。白い本棚。そこに収められている白いブックカバーの本。この部屋は何もかもが白い。
こうしてベッドにうずくまっていると、広大な雪原に一人取り残されたような錯覚に陥ることがある。今朝のように寒い日には特に。
けれども今は、ベッドに残った美雪の温もりが、僕をどうにかこの部屋に繋ぎ止めている。この温かさが、縄のように、鎖のように、僕をここに縛り付けているのだ。
暇をもて余した僕がおもむろに本のページをめくるとき、この真っ白い部屋は僕だけのキャンパスになる。母なる海の深い群青色、夕焼け空の複雑なグラデーション、鬱蒼と繁る森の緑、蠱惑的に微笑む血のように赤い口紅、どんな色でも思いのままだ。この部屋と創造力があれば、僕はどこにでも行ける。本の扉に鍵はかけられない。窓の外に広がる灰色の風景なんかよりずっと鮮やかで美しい風景と、魅力的な人物たち。テレビに流れる薄汚いゴシップとはかけ離れた耽美な懊悩。現実の殺人鬼がこねる理屈は、ミステリの世界に棲む殺人犯が仕掛ける論理と誤認のイリュージョンの前では屁理屈にすらならない。
本の中には無限の世界が広がっている。この窓の向こうにある、ちっぽけでくすんだ世界なんかより。
ずっと自分にそう言い聞かせていた。
でも、僕は疲れてしまった。
小さな窓枠から大空を飛び回る鳥たちを見るたびに思う。
自由になりたい。
この果てしないループから。
あの鳥たちのように。
僕は部屋のドアノブに手をかけた。
鍵は開いていた。
密室の牢獄はあまりにも脆く。
部屋を飛び出し、裸足のまま玄関から外に出ると、肌を刺すような冬の空気が吹き付けてくる。上着を持たずに出てきたことをほんの少し後悔したけれど、久方ぶりに感じた風の心地よさのほうが遥かに勝っていた。
僕はそのまま階段を駆け上がる。
何度か踊り場を通り過ぎた。
屋上へと続く扉には鍵がかかっていたけれど、何度か体当たりして無理矢理こじ開けた。
うっすらと雪が積もった屋上。
頭上に広がる灰色の空。眼下には灰色の街。全ての色を混ぜたら灰色になると聞いたことがある。この空も街も、最初は白いキャンパスだったのだろうか。
ジェンガのように堆く積み上がったビル街を見て僕は、テレビで何度か見た覚えのある、独居老人のゴミ屋敷を連想した。
物には全て歴史がある。最初からゴミだったものなどどこにもない。空のペットボトルにも、発泡スチロールにも、古い雑誌にも、誰かに必要とされた瞬間が確かにあった。あのゴミ屋敷にはそうした小さな歴史が図書館のように詰め込まれていて、一人寂しく朽ちてゆく老人の慰みとして再び意義を見出だされているのだ。あれははたから見ればゴミ屋敷だが、家主にとってはきっと全てに意味がある。
この街だって似たようなものではないか。
価値という集団幻想が、この巨大なゴミ屋敷を形成している。いつかその主体が消え去って、全てが更地に戻されるまで。
意味なんて、本人にしかわからないものだ。
そして、すっかり壊れてしまった僕には、もう生きる意味がない。
どこからかピアノの音色が聴こえる。このマンションの住民だろうか。包み込まれるように優しく、でもどこか物憂げな旋律。これはたしか、ドビュッシーの『Reverie』という曲だったと思う。
きっと全てが悪い夢だったのだ。何もかも。
生まれ変わるなら、やっぱり鳥がいい。
今、この場所から、羽ばたく練習を始めよう。
初めて巣から飛び立つ雛のように、両手を広げて。
僕は屋上の手摺を跨ぐ。
「雪人! 何してるの!? やめて!」
背後から美雪の声。振り返ると、息を切らしながらこちらへやってくる美雪の姿が見えた。ここまで階段を駆け上がってきたのだろう、歩調が少したどたどしい。
僕は言った。
「美雪、今までありがとう」
「雪人、落ち着いて……私が行くまで、そこを動かないでね」
「ねえ、美雪。僕はね、生まれ変わったら人間にだけはなりたくないな。大空を自由に飛び回る鳥になるんだ。そして、必ず美雪に歌を聴かせに来るよ」
「何、無茶なこと言っているの……? 雪人が居なくなったら、私……」
「さようなら、美雪。僕の大事な……」
僕は手摺から手を離し、両手を広げて飛び上がった。
ふわりと体が浮き上がる。もしかしたら、このまま本当にあの大空まで飛んでいけるかもしれない。重力の軛から解き放たれた、最初で最後の自由。
しかしその刹那、僕の体はゆっくりと降下し始める。
やっぱり、だめか……。
ずっと遠くにあったはずの地面が瞬く間に近づいてきた。
頬に当たる風が体温を奪ってゆく。
「雪人ーーー!!」
上から美雪の絶叫が降ってきた。
コンクリートの地面はもうすぐそこだ。
不思議と恐怖は感じなかった。
耳の奥で鳴り続けるドビュッシーの調べに耳をすませ、安らぎの中で、僕は目を閉じる。




