第四話 漠と明日
「在校生、職員、着席」
時計の声がした。あと一曲歌ったら、ここを出ていくのだ。終盤は、時の進みが速かった。もう少し余韻に浸っていたいと思うのは贅沢だろうか。
「伴奏、小川拓海。指揮、中添侑加。卒業生は、回れ右をしてください」
機械的に、声に従う。人と人の間から、後輩の顔が見える。名前と顔と連動して、日頃のどうでもいいことを思い出した。
思う。俺にとっての思い出は、日常であったと。そして思い出は、消えていく時になって初めて輝いて見えると。今の俺にとってあの頃は、悲しい程美しかった。こんなにも物事を美しいと感じたのは初めてだ。
だが、それさえも、いつかの自分は否定するのだろう。こんなにも綺麗なのに、消えていく運命なのだろう。消えないでほしい。終わらないで。あと、少しだけ―――。
発表会は、終わりを迎えようとしていた。
* * *
この式のどこに意味があったのだろう。そう疑問に思いながら、体育館を後にした。実感があろうがなかろうが、卒業という現実は存在する。もうここに来ることもないだろう、とその現実を突きつけられて、淡い寂寥感を覚えた。
ふと、水の音が聞こえた気がして、窓を見る。外の世界では、俺たちを否定するように雨が降っていた。
* * *
当初の予定だった外での撮影会は中止となり、教室で各々いろんな先生や友達同士で写真を撮り合っている。流れ解散、らしい。人口密度が高すぎて、どこに誰がいるのかなんて分かりやしない。撮りたいと思っていた奴らとは撮れたし、後は薫見つけて帰りたい、というのが俺の本音だった。母親は昼から仕事のため、既にいない。
実を言うと、これからクラスで卒業記念食事会なのだ。食事会、とは大層な響きだが、要は食べに行く。だからさっさと帰って着替えたい、どうせもう一度会うのだから今そんなに盛り上がらなくてもいいのでは。さっきまでの思考とかなり矛盾していると自覚しているが、何がいいのかはその時その時で違う。また意見は変わるかもしれない。というより、変わるだろう。
適当に歩いていると、人ごみの中に薫を見つけた。4人ほどで集まって談笑している。楽しそうだったので声を掛けるのが躊躇われた。
出直そうかと俺が踵を返そうとしたのと、向こうがこちらの存在に気付くのが同時だった。帰らないか、と提案すると、意外にもあっさりと首を縦に振った。少しずつ、人は減り始めていた。
「やっぱり雨、降ったな」
うんざりというように、薫が溜め息を吐いた。そんな友人の姿を見て、気になったことを直接訊いてみる。
「晴れだとお前、花粉症酷いんじゃないのか?」
「ああ、そうだ。大号泣するところだった。感動し過ぎて」
薫がにやりと笑った。皮肉屋なところは健在のようだ。
性別問わず結構な人数が涙腺を緩ませていたが、俺たちはその中には入らなかった。
「無理しないでいいんだぞ、泣きたい時には泣けば」
俺のこの言葉に薫が吹き出した。そして少し思案する素振りを見せて、ポツリと言った。
「実感全くねえしな」
まったく、その通りだと思う。
「さようなら、わが母校よ」
校門を朝とは逆にくぐりながら、薫がおどけて言った。同時にくしゃみもする。器用な奴だ。
「なんか、あっという間だったな」
俺のこの言葉には、薫は反応しなかった。薫なりに想いがあるのだろう。
「これで後は受験かあ……」
「こんな良き日にそんなこと思い出させるなよ」
感傷に浸るモードから一転、薫が突っ込んだ。
俺も薫も、基本的にこの地域の奴は公立が第一希望だ。したがって、前期選抜があるところ意外は4日後の後期選抜で運命が決まる。余談だが、前期がある高校は少ないし、その分倍率も物凄い。
俺の第一志望は南高校。薫は西舘高校だ。漢字を見れば分かると思うが、正反対の場所に位置している。どちらの偏差値が高いのかというと、勿論南…と言いたいところだが、西舘だ。因みに西舘は県下トップの進学校。南は県で上から片手には入るレベルだ。
考えたくもないが、もし俺が南を滑ったら、京峰学園という学校に行く。これは西舘と同じ駅で降りて、そこからもう一本ローカル線に乗り換えることになる。
薫の滑り止めは南篠高校だ。これも漢字でわかるだろうが、南と同じ方面だ。南も南篠も、自転車でギリギリ通える距離だ。
だからもし、どちらかが受かってどちらかが滑ったらまた流れで一緒に通学することになるのだろう。それは御免だった。
「卒業だな」
誰に言うわけでもなく、薫が言った。無言で頷く。
「今更だけどさ、本当色々ありがとう」
俺なりの最高の謝辞。これだけお世話になっておいて、感謝の言葉もないとはあり得ない。これだけ尊敬出来る友人は未だかつていなかった。そしてこれからもいないだろう。そう思っているのは今だけなのだろうと思うと無性に淋しくなった。
「急になんだよ。お前がそんなこと言うなんて、天変地異の前触れか?」
「な訳ないだろ。もう会わないと信じてるから、最後くらい言っておこうと思ってな」
「ああ、そう。本当、会わないといいよなあ……まあ、俺もありがとう」
照れたように薫が言った。
「あ、でもさ。断言するけど、絶対にまた会うぞ」
「不吉なこと言うなよ。まあ、モールとかでは遭遇するだろうけど」
俺の言葉に、薫は満足げな表情をした。
「今から。行かない訳ないだろ?」
「ああっ」
忘れていた。何のために早く帰りたかったんだか。
「忘れんなよ。あ、呼びに行くわ。んじゃ、また後で」
いつの間にか俺の家の前だった。今更になって会話が弾んだ。やれば出来る、というか自然に出来るものなのだと少し驚いた。だが、遅すぎた。心の中でまた薫に謝った。
ああ、後でなと応えて、家の門に手をかけた。もう一度小さく、"ありがとう"と呟く。この時はもう来ないし、この想いももう消えていく。消えないで欲しい。だが、そう願うことは、生まれないで欲しいと同義だ。それに、薄れていくものだからこそ思い出なのだ。だから、今、届かなくとも言っておきたかった。
薫は俺の倍の道を歩いていく。その後ろ姿を見ている今にも思い出はかすれ、消えていく。でも、もしも俺の中からこの想いがなくなっても、今が存在したという過去は、消えない。