わふわふ
「おぉーこりゃあ眼福眼福。イーィ眺めだねぇ。やっぱ肉眼に限る。なあ、俺様もそこに混ぜてくれよ」
イチノメに男の声が落ちる。それは『犬人間』の声ではない。ともすれば魔王城にいる誰の声でもなくて、アキの知らない声だった。
三人の視線が声の方に集まる。
「あらあら」
「あれはっ!?」
「……っぶさ!!」
目を瞠り、怒りの孕んだ叫びが喉を通り過ぎる。名前を呼ばれたぶさは嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振っている。けれどもアキに近づかない。なぜならぶさは捕まっているのだから。
「まぁーま、そう怒るなって。可愛いお顔が台無しだぞ」
パチンと片目をつぶり茶目っ気たっぷりに答える。その男はアロハシャツのような奇抜な模様の服を気崩していた。体格に見合わないダボッとした服はところどころ破れており汚れも付いている。見た目から不格好不健康不潔さが滲み出ている。『パリピ爺』は両手でぶさをしっかりがっちり捕まえて離さない。
「ぶさを離せ」
すぐにプールから出て『パリピ爺』の元に近寄る。その手は強く握られ、目は鋭くにらめつけている。
「おいおいおーい、なにか勘違いしちゃいねぇか? 俺様ぁ何も取って食おうとしちゃあいねぇのさ。親切心で届けに来ただけさ」
「御託はいい」
「キャッ、聞いちゃいねぇ。いやーアッハッハ! これァどーしたもんかぁね」
聞く耳を持たないアキは一歩一歩確実に近づいていく。怒りで彼女の魔力が膨れ上がっているのを感じている『パリピ爺』は、それでも態度を改めはしない。面白がるように目は三日月形に歪ませ口の端を上げている。それが癪に触ったアキは怒りが増幅する。
ジリジリと距離が狭まっていく。一触即発の空気に『犬人間』が固唾を呑む。その時――
ばっっしゃーーーん!!
盛大な水飛沫をあげながら闘いのゴングのような大きな音が鳴り響く。これは『和女郎』がスライダーを滑り切った時の音だ。状況に似合わない楽しげな声を上げている。
その音を合図にアキが一気に走り出す。『パリピ爺』の元に一直線に向かう。拳を振りかぶる予備動作。なおも余裕そうに笑みを浮かべる『パリピ爺』に拳を一発――
「おいたはいけませんよ。その手を離しなさいな」
入れる前に静かな声が落ちる。いつの間にか『パリピ爺』の前にいた『田舎婆』は彼に向かって包丁を突き立てる。肉薄する刃に大人しく従い、ぶさを離した。
「ぶさっ!」
「わふ!」
駆け寄りその小さな体を抱き締める。怒りも忘れてぶさを取り戻したことに喜びを感じる。その姿にホッとした表情を見せながらも庇うようにアキの前に『犬人間』が立ち前を見据える。
ピリついた空気に何事か察した『和女郎』は静かにアキの傍に寄った。周りを窺って他に仲間がいないか警戒している。
「いやぁ物騒だねぇ、怖い怖い。さっ、ご所望通りに解放したぜ。いつまで包丁を向けるつもりだ?」
「あらあらどうしましょう。困りましたわ。脅さずともすぐに刺しても良かったのに、失念していたわ。ここまで訛っていたとは、年は取りたくないものですね」
いつもと変わらぬ声で言った『田舎婆』は躊躇いもなく包丁で切りつける。常のプルプルと震えていた時とは違い、素早く的確な動きだ。こんなに疾く動く彼女に驚きが隠せない。
「いやいやちょっとぉ!? 何本気で殺そうとしてんの。俺様だよ俺様。この超絶可愛い愛嬌を見よ。この心安らぐ美声を聞け。この曇りなき眼を忘れたとは言わせないぜ」
声を掛けながらも怒涛の猛追を危なげなく躱す。なんだか詐欺電話の様な文面が聞こえたが実際の形勢は反対で、攻めは婆側だった。
「んまっ、久しぶりの挨拶にしては随分ではありませんか。あなたこそお忘れですか? 今の魔王が誰で、彼女がどういった存在であるか。知らないわけがございませんよね」
「あれれー? ナニナニもしかしてオコ? オコなの? 興奮しちゃダメじゃーん。もぉー自分を労りなさい」
良くもまあ流暢に喋れるものだ。声だけ聞けば軽いやり取りにしか聞こえないが実際の二人を見れば絶賛殺し合い中だ。言動が合っていない。
「ほらほらぁ落ち着いてー、深呼吸してー。せーのっ、ヒッヒッフー」
「ッ!?」
変な呼吸の呼びかけの後、強い突風が吹き付けた。髪が煽られ、水に濡れた体が凍える。ぶるりと震える体。暖を求めるようにぶさを抱える手に力がこもる。
アキの傍にいる二人も震えている。顔は真っ青に、唇は青紫に染まっている。けれども少し尋常じゃない震え方だ。寒さではなくて、まるで恐怖に駆られているような。
「なあ……」
「これは一体どういうことかな」
心配して掛けようとした声が遮られる。ビュウビュウと風斬り音が聞こえるほどに強い風の中で、その声は決して大きくはないのに鮮明に耳に入ってくる。その声は聞き馴染みのある声で、いつも聞いている声なのにどうしてか知らない人の声のように聞こえる。
「どういうことか説明、してくれるよね」
強風を引き連れた『襟巻小僧』が何よりも『パリピ爺』に視線が固定している。運命の相手にも大切な部下にだって目をくれない。その顔に表情はなく、その口に笑みはなく、その目に光はない。深い深い闇の黒。深淵を映したような黒。絵の具を全色混ぜ合わせたような黒。そんな空虚な瞳をしていた。
ゴウゴウと吹き荒れる風。小さな体では吹き飛ばされそうな嵐の中をゆっくり確実に歩みを進める。冷たく凍えるような風は冷気を伴う。
「ぉいおいゲキオコじゃあねぇの」
「ボクは感想が聞きたいんじゃないんだ。理由を聞いているんだ」
「いやだから! 俺は何もしていないって! そこの犬が森で迷子になっていたのを拾ったから、親切で心優しい俺様はっ」
「へーぇ、親切で、心優しい、ね。それは知らなかったよ。親切心でボクを殴ることが優しいに該当するんだ。それならボクもお前に倣って優しく接するよ。喜ばしいことだろう」
『襟巻小僧』が激怒である。一言一言がぶっとい針でぶっ刺すような重太いトゲがある。対する『パリピ爺』は口角を引きつかせ、たらりと垂れた冷や汗は強風によって無きものにされる。
「へっ……くちっ!」
「大丈夫か」
「ず、ずびばぜん゛」
体が水に濡れているせいで余計に風が冷たく感じる。くしゃみした『犬人間』が鼻を垂らしながら体を丸める。彼女の体を温めるように『和女郎』が抱きつき、さらに暖を取るようにアキにもくっつく。
「くっ……魔王様! 怒るのはいいが、風は止めてくれーっ!!」
『和女郎』が声を張り上げるが届かない。風に遮られているからか怒りで我を忘れているからか、その両方か。とにかく今言えることは超寒いとだけだ。生理的に体が震える。歯はガチガチとぶつかり鳴り、指先の感覚はもうない。肌は白く色を無くし、風が温度を奪い去っていく。視界がかすみ、息が苦しい。意識を保っているのがやっとだった。グラグラと風に吹かれるように体が傾く。
「やれやれ、仕方ありませんね」
気の抜けた溜息混じりの声。その声の後に嵐のような風が止んだ。
「呆れてつい手が出てしまいましたよ。魔王様、怒りで我を忘れる前に周りを見なさい。あなたが優先すべきは誰ですか?」
「――……っ、ぅえ? あっ、あぁ、きゃあああぁぁぁぁぁ!!!!」
『パリピ爺』の近くにいた『田舎婆』がいつの間にか『襟巻小僧』の前にいた。二人の間は一瞬で移動するにはまだ距離が離れている。けれどもそこにいるのは幻でなければ本物の『田舎婆』だ。手刀を構え、件の魔王の頭は心做しか少しヘコんでいるように見える。
そして視線を誘導されて『襟巻小僧』は団子のように寄り固まっている三人に向けられる。次の瞬間、魂の悲鳴が轟く。
「ごめ、ッ、ごめんなさい!! あああわわっさむ、寒いよね?! すすぐに体を温めっ、まほ、魔法っ!」
「はいはい落ち着きなされ。慌てたところで何一つ上手く行きませんよ。冷静に対処しましょう。まずは魔王城に転移してお風呂でゆっくり芯から温まって……」
「きゃああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!」
三人の元に近寄った『襟巻小僧』が見るからに慌てている。グルグルと目を回しているような慌てっぷりだ。これもまた初めて見る姿だ。
そこに頼りになる『田舎婆』が落ち着かせる。肩に手を置いていつも通りのゆったりとした声で話しかける。それに影響されて落ち着きを取り戻し始めたところで再びイチノメに悲鳴が轟いた。しかし今度のは『襟巻小僧』ではない。さらには悲鳴と言っても歓喜の悲鳴だった。
「こ、ここここここはあああぁあああ……楽・園!!」
さっきまで『襟巻小僧』がいた場所には見るも懐かしい姿があった。悲鳴をあげたのはここ最近暫く部屋に籠っていた『はね女』だった。口に手を当てて目を輝かせている。
「なんという幸せ空間なのかしらっ! 可憐な姿で身を寄せ合う三人の乙女。お互いがお互いを庇い合い助け合い、手を取り合って困難に立ち向かうのだわ。醜悪な男の手に落ちた乙女を救い出すために立ち向かう一人の勇者。ああん、滾るっ! ……てあら? っ、ちょっとちょっとぉ!! ダメよ、ダメじゃないっ! 体を冷やすなんて言語同断。冷えはお肌の天敵なのよ! んもぅ、こんなに体を冷やして……魔王様、今すぐあたしたちを魔王城に送って! この際あたしが丹念に体を磨いてあげるんだから!」
「あっうん……よろしくね」
『はね女』の勢いに押された『襟巻小僧』は完全に平常心を取り戻した。正気に戻った彼は転移魔法を発動させてアキたち四人を魔王城に転送する。その直前にぶさがアキの手からすり抜けて転移を逃れる。
「っ、ぶ……」
驚いて手を伸ばしたアキの努力虚しく、ぶさを置いて転移してしまった。
「イ、イッヌ様……?」
「わん!」
「えっ……」
もう一度転移魔法を使おうとした『襟巻小僧』を止めるようにぶさは彼の右腕に噛み付いた。ガジガジと本気噛みだ。
「いーだだだだっ」
それに痛みを訴えたのは噛み付かれている『襟巻小僧』……ではなく離れた場所にいる『パリピ爺』だった。さっきまで『田舎婆』と居た場所よりさらに離れた場所にいた彼は右手を押さえている。どさくさに紛れて逃げようとしていたようだ。
「イッヅァッ……おいその犬を離させろ。てかなんでお前は痛みを感じていないんだ。おかしいだろ!?」
「イッヌ様がボクを噛んでる。幸せ……」
「ダーァッ悦ぶな! そういやそうだったなぁお前はそういう奴だったよチクショー」
喚き出した『パリピ爺』は踵返し自分から『襟巻小僧』に近づく。距離を詰めてぶさに向かって手を伸ばす。
「イッヌ様に触らないで」
触れる前に体を逸らしてぶさを庇うように隠す。その間も絶えずぶさは『襟巻小僧』の右腕をカミカミしている。ジンジンと痛む右手に顔を顰める『パリピ爺』とは反対に絶賛噛まれ中の『襟巻小僧』は喜悦の表情を浮かべている。マゾかよ。鼻の下を伸ばし、口はだらしなく弛み、頬を上気させる少年の顔は色々マズイ感じになっている。
「まあまあ御二方。久しぶりの再開ですもの、腰を下ろして話してもいいじゃありませんか」
パチンと手を叩く『田舎婆』。険悪な空気をぶった切るようなのんびりさだ。そんな彼女の手は何も握ってなかった。
「アレ? 包丁はどったの?」
「どこってあなたの頭に刺してありますよ?」
「へ……マジだァー!?!? えぇ、いつの間にやったの!? ……全然気づかなかった」
「ほほほ」
悪戯が成功した子供のような笑顔を作る『田舎婆』。口に手を当てて笑んでいるが質問に答える気はないようだ。
「笑い事じゃないぞ! でもでもぉ、可愛いから許しちゃう。俺様ってやっさしぃー。惚れちゃう? ね、ね、惚れた?」
「……」
「イヤンっ、無言!」
軽いやり取りを交わす二人を横目に『襟巻小僧』は自分の右腕に噛み付くぶさを微笑ましく眺めている。頭をそっと撫でるとくりりと丸い瞳と目が合って「わん!」と元気よく鳴いた。そして大口開けてガブリと再び噛み付く。次の瞬間、『パリピ爺』の苦痛の叫びが森に木霊した。




