わふ
「わん!(遊んで!)」
「んぅ~」
「わんわん!(遊んで遊んで!)」
ぶさはアキの顔を覗き込む。前足でちょいちょいっと触ったり舐めたり体を押し付けたりする。けれども返ってきたのは唸り声だけだった。
起きない。
眠りから覚めたぶさはアキに遊んでとせがむ。けれども同じく寝ていたアキは未だに夢の中だった。全然起きる気配がない。
仕方がないのでぶさは一匹遊びを始める。そこら辺に落ちているスライムに向かって突進する。ぽよーんと跳ねたスライムが壁に当たって跳ね返る。それがたまたまぶさに当たった。
「きゃんっ!(痛いっ!)」
逃げるようにアキの元に走る。動かない手を押しのけて腕の中に収まる。安心感を得るようにくっつく。
けれどアキが寝返りを打ったことで離れてしまった。キョトンとアキの背中を眺めていたぶさはやがて踵を返すようにアキから離れていく。そして、家の外に出て行った。そこは庭ではなく外だ。本当の本当に家の敷地外だった。
ぶさ、家出する。
森の中をとてとて歩く一匹の犬、名をぶさと言う。本名は……まあいいか。今歩いているのは普段の散歩コースでも魔王城への道でもない。森の中だ。道なき道を行く。気分は探検だ。いつもの道? なにそれ?
残念ながらぶさの賢さに道の記憶は含まれてなかった。好奇心の赴くままに何処かへと歩みを進める。それを人は迷子と言う。おまわりさんが迷子とは救えない。
さあ、迷子犬であるぶさは自分が迷子になっているとは微塵も思っておらず、うっきうっきのルンタッタ♪ と森の中をずんずんと突き進む。
そうして暫く時間が経過した時だった。ドシンと何かにぶつかった。前方不注意だ。だから迷子になるんだとは言っても無意味なことだ。だって犬だもの。
「んぁ? コイツは……」
ぶつかった何かは人の足だった。その足の主も衝突に気づいて視線を下げる。足元に居るぶさを認めて目を見開く。漏れ出た声の後にニヤリと口の端を上げた。身を屈めてぶさを持ち上げる。ぷらーんと大人しく持ち上げられたぶさは目を瞬かせて目の前の人物を見る。
「ちょうどいい。久しぶりに挨拶といこうか。なあ?」
独り言の後に同意を得るようにぶさに話しかける。けれどもぶさは見つめるだけで何の反応もしなかった。ぷらーんぷらーんと掴まれ揺さぶられながらどこかに連れていかれた。
* * *
一方その頃アキはというと――
「ふゎーぁ」
ぶさが家出(?)をしてから大分結構な時間が流れてから、飼い主は目を覚ました。起き上がって眠気眼のままぼーっとしている。昼寝起きなので頭が働いていない。ゆっくり瞼を瞬かせているが脳が起動するにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
緩慢に動いて体を伸ばす。再び欠伸を零して水分の含んだ目を擦る。何気なく見たのはぶさが寝ていた場所だ。しかしそこにはぶさの姿はなかった。
「ぶさー?」
呼びかけても返ってくる鳴き声はなかった。頭を傾げるもすぐに納得がいったように頷く。『襟巻小僧』とハウスにでも行っているのだろうという考えに至ったのだ。それは全くの見当違いであり、当の本犬は絶賛迷子中なのだが。それを知る手段はアキにはない。そして残念ながら『襟巻小僧』に確認する事もしなかった。
なぜならアキにはこの後用事があったのだ。とても珍しいことに約束の予定が入っていた。だからこそ、ラッキーとしか思わなかった。
ちょうど玄関の戸が叩かれる。アキが玄関を開けるとそこに居たのは約束をしていた『犬人間』の姿があった。彼女はアキを見ると安堵したように肩を落とした。
「お、王様……お忙しいですか?」
「悪い。さっきまで寝てた。もう時間だった?」
「い、いえっ。約束の時間にはまだ少し早いのですが、みなさん揃っていますので僭越ながら呼びに参りました」
「そっか、ありがとな」
「お礼を言うのはわたしたちの方です。本日はよろしくお願いします」
未だ慣れない様子の『犬人間』は頬を赤く染めながらアキに頭を下げた。
あれから『犬人間』は殻に篭ることを止めたのだ。着ぐるみは着なくなったし、声も出すようになった。ただまだ抵抗があるのか口ごもったり声が小さかったりする。それと、長きに渡り癖になってしまったのか身振り手振りで伝えようとする時もあった。無意識の行動なようでそれに気づくと恥ずかしそうに顔を真っ赤にする、などということがあった。
二人はイチノメに向かうとそこには待っていたかのように佇んでいた『和女郎』と『田舎婆』の姿があった。二人はアキたちに気づくと手を上げた。
「よぉ王様! 今日はよろしく頼むな」
「ピクニックにと色々用意してきましたよ。軽食にお菓子に紅茶。丹精込めてお作りしました」
さて、本日の約束とは簡単に言えば女子会……ではなく水泳教室だ。『犬人間』と『和女郎』はアキの泳ぎを見て自分もやってみたいと教えを乞うたのが始まりだ。それをどこからか聞き仕入れた『田舎婆』が見学に来ているといった具合だ。なのでピクニックではないのだが、まあ『田舎婆』からしたら大差ないか。
女子会というにはあと一人、『はね女』が足りないのだが彼女はこの事を知らない。なぜなら彼女には遊ぶ時間がないのだ。未だに犬の服三百着が作り終えていない。夜な夜な泣き言を呟きながら衣装部屋に籠っているとか奇声を発しているとか。
ちなみに現在『はね女』の前には餌が二つぶら下げられている。一つは空を飛ぶための道具リュック、もう一つは『犬人間』だった。
これは挨拶回りをしていたときの話だ。『犬人間』の姿を見た『はね女』は彼女に一目惚れしたらしい。理想の女性ど真ん中で一目見て雷が落ちたようだ。それはもう溢れ出るデザインの数々。速攻で何枚かの紙が埋まった。鼻息荒くして『犬人間』に歩み寄る『はね女』。しかしそこで一緒に来ていた『襟巻小僧』が待ったをかけた。肩に手を乗せてにっこり。悲しいお知らせに撃沈した。ということで泣きながら超特急で仕事を終わらせに精進しているのだ。それを邪魔なんてできないだろ?
「それじゃあ始めるか!」
「頑張ってくださいね~」
着替えて準備万端なアキは早速水の中に入る。着替えるといっても服を脱ぐだけだ。未だにアキは下着で泳いでいた。ちなみに『犬人間』と『和女郎』は下着姿でない。さすがに羞恥が勝り、薄手の長袖長ズボンだ。それと着るスライムを着用している。
特訓場所は流水プールだ。ここなら足が付くので安心だ。最初から競泳用プールでは鬼畜の極みだろう。そこまでアキも鬼じゃない。遅れて水の中に入った二人の手には板状のスライムを持っている。これはビート板の代わりだ。
意外にもアキは教え方は丁寧だった……ということは残念ながらなかった。感覚派の教え方と言えば想像に容易いだろう。つまり、擬音だらけの説明だということだ。
「スーってつけてパッと呼吸するんだ。その間も足はバタバタしてろよ」
アキの説明に二人の頭の中には当然の如くたくさんの疑問符が浮かび上がった。しかし二人の適応力は凄まじいもので、見様見真似でビート板を使ってバタ足ができるようになったのだ。しっかり顔を水中につけて、である。元々運動神経が良く、また覚えも早くさらには熱心だったので上達も早かった。完全に自分のものにするのにそう時間はかからなかった。
「まあ凄いわ! 若いって良いですねぇ」
と称賛を称えている『田舎婆』だが彼女は現在水上に居る。もっと詳しく言えば大きな板状スライムの上に座って流水プールをどんぶらこっこ~と流されながらお茶を嗜んでいる。傍らにはお茶請けも用意してある。流水プールは数字のゼロの形をしているので当たり前だがカーブがある。そのためコーヒーカップのように緩やかにだがクルクルと回っているのだが、彼女は気持ち悪くならないのだろうか。
慣れないことをすれば疲労が溜まるのも早い。一度水から出て小休止を挟むことにした。ここで『田舎婆』の用意が功を奏した。美味しい食事を経て体力は回復した。
余談だがアキの食事は全部魔王が作ると最初の頃に料理担当は宣言されていた。けれどもこれはお願いではなくて意志表明だったので別にいっかと平然とアキにも食べさせた。バレなきゃいいし除け者にする方が大人げないと思ったのだ
しっかり休憩を取った二人は今度は着るスライムを脱いで同じ事に挑んだ。けれども救命胴衣があるのとないのとでは随分勝手が変わってくる。自力で浮くことができずにすぐに沈んでしまっている。
「もっと全身の力を抜いてみ。そしたら浮けるから」
「……っかー、難しいなぁ。足を動かしながら力を抜くってどうやんだ?」
「ぶくぶくぶぅ…………ぷはぁっ。い、息が……」
「スーって進んでパッと息吸ってすぐスーって行くんだよ。上じゃなくて前に進むの」
アキも頑張って説明するが一向に上手くいかない。懐かしい。アキも最初の頃は二人のように苦戦していた……か? 疑問に思って幼少期の記憶を引っ張り出す。何分遠い過去のことだ。昔過ぎてすぐには思い出せないし鮮明に覚えてもいないだろう。
初めが何歳かは分からないがおおよそアキが覚えている範囲での水泳の記憶では苦戦したことは一度もない。考えてみればアキはこと運動においては無類の才能を発揮する。基本的に見様見真似で出来るのだ。それも少しやれば簡単に習得できてしまう。だから水泳に限らずスポーツ全般、苦戦したり手こずったことは無い。
そしてそれは喧嘩にも通ずる才能だった。武術の類は軽くかじった程度だ。それでも基礎は身に付いている。体全身を使って無理なく動くこと。そうすれば体に負担はかからない、疲れない、素早く動ける。だからこそアキは一人で大人数を相手取ることができたし全勝無敗の実績を築くこともできた。
話は逸れたがつまるところアキは無難にこなせてしまえる。だからこそ二人がどうして出来ないのかが分からないのだ。これだから天才は困る。アドバイスらしい助言ができずに同じ言葉を繰り返すだけに終わる。
アキがもどかしさを覚えていると大きな音とともにド派手に水飛沫が上がった。その方に視線を向けると『田舎婆』がスライダーを滑り終わった後だった。
「あらあら楽しいわ〜」
朗らかに笑い声をあげる彼女は大きな木の葉に乗ったままアキたちの元に流れ着く。
「そんな一生懸命に頑張らなくとも楽しく遊べばいいじゃないですか」
「楽しく……」
「これ凄く楽しいわ! 魔王様にもっと作ってもらおうかしら」
四人の中で最年長者が一番はしゃいでいた。そのまま水の中にいる三人の横を通り抜けて流れて行った。
通り過ぎていく小さい背中をポカンと見つめる三人。すると喉を鳴らすように笑い声を漏らし、やがて大口を開けて『和女郎』が笑い声をあげる。
「そぉか、そうだなぁ。必死になり過ぎてたわ。王様、悪い。教えを乞いた身だが、山に行ってきていいか?」
言うや否や返事も聞かずにプールから出るとそのまま山に向かって歩いていった。
実を言うと『和女郎』はスライダーに興味があったのだ。しかし、実態が見えないからと足が向かないでいた。魔王様作だから安全は保証されているし、実際アキが楽しそうに遊んでのるも自分の眼で見ている。けれどアキは異なる世界の人間だ。水泳しかりこの世界と常識が異なる部分もある。それもあって躊躇っていた中での『田舎婆』だ。叩かれた石橋なら渡れる、とようやく足を進めることが出来た。
その背を見送っていると『犬人間』が忙しなく動き出す。アキと『和女郎』を交互に視線を送る。自分勝手に行動する『和女郎』と、彼女の行動にアキが怒らないのかを心配しているのだ。アキは去るもの追わずの考え方なのでその心配は杞憂に終わる。けれどそのことを知らない『犬人間』は何とか言い訳しようとする。
「おおおお王様っ! わたし、王様が泳ぐ姿が好きです! 洗練された滑らかで美しい動きに感動しました。また見せていただいてもお願いします!?!」
「お、おう……? 泳げばいいのか?」
考える前に声を発したために精神も言葉も混乱している。もう勢いで言ったから早口になっていた。はっきり聞こえなかったからアキは首を傾げて適当に解釈する。全力で頷いているから正解のようだ。それならとアキは競泳用プールに移動して好きに泳ぎ始める。それを熱心に見つめる『犬人間』。目を輝かせ、頬が上気している。
四者四様の楽しみ方に方向転換する。イチノメには女性のキャッキャウフフと楽しげな声が満ちる。
その地に一つの影が忍び寄る。




