ある少女の形
私はずっと一人だった。
真っ白い病室で一人、文庫本を片手にただ時間が過ぎるのを待つだけの日々。
何も変わらない。変えられない。
そのだだっ広いだけの空間が私の世界。
その世界には私しかいなくて、それが私のすべてだった。
けれど私は、そんな生活を特に寂しいと思ったことはない。悲しいと思ったこともない。
窓の向こうから聞こえる同年代の子供たちの楽しそうな笑い声も。夏に目の前の海岸から打ち上げられる花火を恋人と二人肩を寄り添って歩く彼女達の姿も。それに嫉妬する人々の感情も。私にはそれらすべてが本の中の話でしかない。
私の世界の中でしか生きてこなかった私には、楽しい気持ちも、嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、そして寂しい気持ちも、何も分からない。
だから無為に時間だけが過ぎていく日々にも退屈だなんて思ったことはなかった。
だからある日突然、父に将来成人式を迎えられないかもしれないと伝えられた時も、私の心は凪いだままだった。
そんなある日。
私の前に、初めて外の世界を見せてくれる人がやってきた。
突然私の世界の扉をノックしたその人は、とても変わった人だった。
いつもニコニコと笑顔を絶やさず、それなのに時々ふと悲しそうな顔をする。
年齢不詳の綺麗なお姉さん、けれど変人。
それが出会った時から別れるまで、私が彼女に抱き続けた印象だ。
小学生の頃。あるとき私はその人と部屋に備え付けられていたテレビで、彼女が持ってきたギリシャ神話『イカロスの翼』を題材にした劇のビデオを見た。正直、なぜ彼女がまだ幼い私にそれを観せたのかは分からない。……まあ、とても変わった人だったので、そんなことをいちいち気にしていては話が進まない。
傲慢なイカロスは自由であることに慢心し、ダイダロスの忠告を聞かずに太陽へと近づくと、やがてその蝋で固められた羽が溶けて地に落ちて死ぬ。
初めて観た劇に私はとても興味を持った。
劇ではダイダロスがイカロスの死に涙している。けれど私たちは知っている。それが演技であることを。嘘であるということを。
本の中の話はフィクションであっても、そのなかのキャラクターたちは嘘ではない。その紙の中には確かに彼らの世界があって、キャラクターたちは泣いたり笑ったりしている。そこに嘘偽りは存在しない。全てが真実だ。
けれど、劇は違う。彼らは確かに悲しそうだし嬉しそうだが、そこに真実は存在しない。彼らの流す涙に本物はないのだ。
しかし、だからこそ私は興味を持った。持たないはずの感情を体現して見せるその様子に、私は強く衝撃を受けた。
……もっとも、それは今思うとの話であって、その時の幼い私がそこまで考えていたかと言われると、おそらくそうではないけれど。
見終わった後、私はただ思ったことを彼女に言った。
「”じゆう”って何? なんでイカロスは”じゆう”になれたことが嬉しかったの?」
「っ……」
思い通りになることは嬉しいこと。
――なんで?
分からない。
私はこれまで、何かが思い通りになったことなんてない。
伸ばした手は何もつかまなかった。伸ばした先には何もなかった。だから私は、伸ばすこともしなかった。伸ばし方も分からなかった。
けれどそれしか知らない私は、それが辛い事だということさえ知らなかった。
「……そうですね。自由というのは、一言で言うと鳥です」
そう言って、彼女は視線を窓の外の大きな銀杏の木へと移した。
「鳥? 鳥っていつもそこの木にとまってる?」
「ええ、その鳥です。彼らはその翼で自分の行きたいところ、見てみたいもの、食べたいもの、なんだってできるでしょう? つまり、自由とはそういうことです」
言った彼女の表情は微笑んでいたが、何故かどこか辛そうにも見えた。
「あっ! だから翼をもらったイカロスは”じゆう”だったんだね! ……それじゃあ、もしわたしにイカロスみたいな翼があって空を自由に飛べたら、この窓からも飛び出して、あの子たちとも仲良くなれる?」
「ええ、きっとなれます。なんなら私が男を篭絡するテクニックを伝授しましょう。あれです、とりあえず肉じゃがは絶対必要ですね。それから――」
「ロウラク? あ、お誕生日?」
「いえ、違います。それはロウソクです。いくらなんでも今からそんなハードプレイを教えるのは流石の私もためらいますが……いえ、流石にあなたにはまだ早すぎたようですね。この前華さんに教えたらみるみる会得していたのですが。あれは将来かなりの食わせ物になりますね」
「? ……ねえ、もし”じゆう”なら夏のはなびも、うみも、本で見た、ゆきっていうのも見られる?」
「ええ、そうですね。ですがそれらに一人で行くのは地獄なので誰か素敵な男の子を連れていきましょう。遠足のおやつと同じくらい必須アイテムですよ。……そういえばこの前お会いした男の子はとても可愛らしかったですね。あれはきっと将来物凄いハンサムになりますよ。何故私はあの時名前と住所を聞かなかったのでしょうか? 不覚です」
「え、えへへ~♪ じゃ、じゃあ、おとうさんやおかあさんとも一緒のおうちに住める? お父さんが言ってた、お姉ちゃんたちとも一緒にいられる?」
「っ、……あなたはお姉ちゃんたちと一緒に暮らしたいのですか?」
「うんっ! いつか家族みんなであのお祭りの花火が見たいの!」
希望を目にそう言って、私は窓の外を指さす。
いつも思っていたことだった。
夏になると、この窓からお祭りの花火が見える。それを見て、検査に来る看護師さんたちは綺麗だねと笑って言う。
……確かに綺麗ではある。けれどいくら綺麗なものでも、いつも一人だと飽きてしまう。
でも自由なら、飽きない人とずっと一緒に観られるんでしょう?
「そうですか……。そうですね。ではその時は皆であの男の子を探しましょう。あなたたちは将来必ず美人さんになりますので、きっと誰かがゲットできるはずです」
「えへへ♪ そっかー、……いいなあ~、”じゆう”。わたしもいつか”じゆう”になれるかなあ」
「ええ、きっとなれます。あなたは私と同じで素敵なレディーですもの。羽があればきっと空だって飛べます」
「ほんと⁉ じゃあその時はアヤさんも一緒?」
「ええ、一緒です。あなたの行きたいところ、私がどこにでも連れて行ってあげます」
「わはあ~~っ‼ 絶対! 絶対行こうね⁉ 約束だよ⁉ どこがいいかな~。遊園地っていうところにも行ってみたいし、本で見たパンダやイルカっていうのも見てみたい。……あ、あと、アイスもお腹いっぱい食べてみたいし、それからいつもここから見えるお祭りにも行ってみたいな。あとは、ええっと………ああもうっ! やってみたいことが多すぎて困っちゃう! 全部行ききれるかな?」
「フフ、ええ。人生は長いのです。やりたいこと全部やっても時間は余っちゃいますよ」
「そうなの? えへへへ……んーとねえ~、それじゃあ……あっ、でもわたし、イカロスみたいに蝋の羽なんか持ってないよ?」
ふと思い至った事実に、顔を曇らせる幼い私。彼女はそんな私に。
「大丈夫。イカロスの翼は父のダイダロスが作るものです。あなたのお父さんの作る翼はダイダロスの作ったもののように太陽に近付いたくらいじゃびくともしません」
「?」
幼い私は彼女がなんのことを言っているのか分からず首を傾げる。
そんな私に彼女は優しく微笑むと、
「大丈夫ですよ。きっと私たちがあなたを自由にしてみせます。その時はあなたのお友達、たくさん紹介してくださいね?」
そう言って私の頭を優しくなでた。
「うんっ! 約束する! わたし、自由になったら必ずお友達たくさん作ってアヤさんに紹介するよ!」
「フフ……ええ。その時を楽しみにしています」
彼女は最後にもう一度私の頭を優しくなでると、「また来ますね」と言って部屋を後にした。
その時彼女の瞳が少し潤んでいるように見えたのはきっと見間違いだろう。
それから数年経った今。彼女はもう二度と私の前に現れることはない。
その命と引き換えに自由を手にした私は、ずっと彼女との約束を果たせないでいる。
命と自由。それら二つを天秤にかけてなお約束を果たそうとするのはきっとイカロス以上の傲慢なのかもしれない。けれど私は、たとえ大罪を犯してでも――。
………やめる。
それ以上言う資格を私は持っていない。それ以上は彼女から受けた多大な恩への冒涜になってしまう。
……だからせめて、私はこの罪を生涯背負って生きていこうと誓ったのだ。




