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桃海月の夢  作者: るかひ
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『声体』

   2.『声体』


 雲一つない空模様。夏の陽射しが薄いカーテンを透過して美籠の頬を焼く。吹き込む風は湿気をたっぷり含んでいる。美籠(みこ)は窓から下を見おろした。中庭の花壇には、相変わらず桃色の花が咲き乱れている。それは季節を一つ過ぎても変わらない。種ができないんだろうか。そんなわけはないと思うけれど。花粉が飛んでいる感じもないし。

 騒音と呼んで差し支えない金切り音が美籠の部屋を揺さぶる。窓ガラスがびりびり震える。美籠は耳を塞いで叫んだ。

「先輩、ギターの練習するなら自分の部屋でやってください!」

 倍ぐらいの声量で返事がやってきて、

「あそこは俺には狭すぎる!」

 それは先輩が片づけるという言葉を知らないからです。先輩の部屋は芸術品と称して廃材品などのガラクタが積み上げられているのである。その中に、先輩が造ったらしい木彫りの彫刻や油絵の風景画が無造作に紛れていて、それは本当に見事な作品で、美籠はそれがとても勿体ないのだった。そして何と言っても壁の絵だ。部屋をぐるりと囲う海の絵。汽笛や鴎の鳴き声が聞こえてきそうなあの絵。

 けれど、美籠が素直に先輩を称賛できないのは、彼のその破綻した人格がゆえで。

 とにかく変。

 なのである。

 今だってただ弦を掻き鳴らしているだけにしか聞こえないが、先輩にとっては意味のある旋律らしい。どうしてアコギでそんな音、出せるんですか。

「じゃあ外でやってくださいよ・・・・・・!」

 美籠達が入院する医院は広大な敷地を誇っているのである。練習場所はいくらでもあるはず。

 ところが先輩は、「庭師のおじさんに怒られたんだから仕方ないだろう!」

 すでに厄介者扱いされていた。

 㝵(とくの)さんの説教は聞き流すのに。先輩の優劣はわからない。

 美籠の部屋で演奏するほうが近隣の患者さんに迷惑だと思うのだが、この一画は美籠と先輩しか住人がいないのだった。それでもナースセンターは近いのでよく怒られている。

 そういうわけで、部屋の扉がノックされた時、美籠は縮み上がった。また元ヤンの㝵乃さんが鉄パイプ引っ提げて乗り込んでくるのかと思ったのだ。

 けれど予想した罵声は訪れなかった。

 その代わり、甲高い怒鳴り声がきんきん響いて。

「なおみ! うるさいぞこのばか!」

 直毘(なおみ)先輩は弦を操る手を止めて、ギターを美籠に押しつけると扉を開いた。

「うるさいのはお前だチビ蔵。俺のことは殿と呼べと言っているだろう」バカのほうですか?

「僕の名前は(みつる)だ、何だよチビ蔵って、どっから取ってんだよ!」

「見た目だ」

「最低だな!」

 確かに満少年は年齢のわりに背が低い。十歳ぐらいだったと思うが、平均身長の美籠の半分もないのだった。顔立ちも和風である。昭和の匂いがどうたらと先輩は言っていたが、明らかに外国の血を引いている先輩に言わせればみんな日本人顔だろう。

 満君はぎこちなく腕を振り回し、「その曲は嫌いだって何度も言ってるだろ、うざいんだよ!」

「お前が嫌いな曲を弾いてはならない法律があるのか」あったとしても先輩は従わないと思います。

 満君はむきーっと癇癪を起こして先輩に突撃した。が、いかんせん、身長差も体格差も倍以上なので、右手一つで軽くあしらわれている。

 美籠は小さく溜め息をついて、二人の間に割って入った。

「先輩、大人気ないです」

「俺は悪くないぞ」

 どの口が言いますか。「うるさいのは本当です」

 むう、と口を噤む先輩。

 美籠は興奮する満君の背を撫で、どうどうとあやす。「ごめんね」

「ね」満君は頬を真っ赤にして口を尖らせた。「姉ちゃんには、関係ないだろ」大体なあ、と美籠と先輩を交互に指さし、「女の部屋に男がいるなんて不純だ! いけないことなんだぞ!」

「なら」先輩がすっと目を細め、「お前が出ていけ」小さな体躯を廊下に押し出してしまう。

 満君はまた憤激した。埒があかないなあ、もう。

 それにしても、と思う。美籠には適当に弾いてるようにしか聞こえないけど。

 満君の耳は、ちゃんと曲として捉えてるんだ。

「先輩」美籠はしゃがんで満君の頭を撫でながら先輩を見上げた。「何の曲を弾いてたんですか」

「『月光』だ。弾いていたのは主旋律だけだが」先輩は憮然と言う。「知ってるだろう、お前も。弁当弁くらい」

 お腹すいてるんですか?

「ベートーベンだばーか!」満君が叫んだ。

「馬鹿じゃないカバだ」

「カバなんだ・・・・・・」

「お前のことだぞ美籠」

「あなたのことです先輩」

 春からの数ヶ月で美籠の直毘先輩に対する態度は粗雑になった。真面目に相手をしていたら神経が擦り切れるのである。

「被せて弾いていたのは有名な劇団の有名なミュージカルの有名な表題曲だ」

 重ねて弾いていたのか。だから美籠には曲に聞こえなかったのだ。何でもできる人だなあと感心する反面、二曲合わせて弾く意味は謎である。

 一曲ずつやればいいのに。

「嫌がらせか!」満君は泣きそうな顔で抗弁する。「僕に対する当てつけなんだろ、そうなんだろ!」

 先輩は仁王立ちに腕を組んで顎を反らし、「その通りだ」

 少なくとも二十歳前の青年が小学生に取る態度ではないと美籠は思った。

「いい加減にしないとやっつけるぞ!」

「やってみるがいい、俺を倒せるものならな!」

 不毛な取っ組み合いが始まった。だからどうして美籠の部屋でやるのですか。せめて廊下でやってください。どうか壁に穴を開けてくれませんようにと祈りながら、美籠は吐息を零して扉を閉めた。



 暴れ疲れて眠ってしまった満君を小児棟へ送り、先輩が美籠の部屋に戻ってきた。本を読んでいた美籠の前にことりと置かれる大皿。八等分されて等間隔に並ぶのは、蜜のたっぷり詰まった林檎である。

 フォークが二つ、先輩の手に握られている。何だか猟奇的な絵面だった。先輩に鋭利な物を持たせると危ない人に見える。美籠の偏見ではないはず。

更地(さらち)が皮を剥いでくれた」

「剥いてくれたと言ってください・・・・・・」

 先輩は早速、フォークを突き刺し林檎を齧る。美籠も本を置いて一ついただいた。ほどよい酸味と甘味が舌の上にじゅわっと広がる。ほとんど水分の果物はお腹の負担にならないので好きだ。美籠の貴重なエネルギー源である。

 先輩はもう五つ目を平らげていた。半分ずつとかそういう平等精神はこの人にはない。

「先輩、甘い物、結構好きですよね」

「まあ、嫌いじゃない」

 こんな言い方をするけれど、実際、先輩は三時のおやつを欠かさないのだった。クッキーやらチョコレートやら、時に洋菓子までどこからか手に入れてくる。多分、更地さん辺りが買ってきてくれているんだと思う。

 美籠もちょっとずつではあるが、一緒に食べている。

 食べれるように、なってきている。

 皿が空になると、先輩はすぐにガムを口に放り込んだ。口寂しい人なのだろうか。何だか常に口が動いている気がする。

「ねえ先輩」

 美籠はフォークを皿に戻し、訊ねる。

「満君の手、もう動かないんですか」

 彼はピアニストとして将来を嘱望された天才少年だったと聞く。けれど。

「そうだな。治る見込みはあるまい」

 彼の手首から先は動かない。

 そういう病気、なのだそうだ。

「満は」先輩は足を組んだ。「満が病気になったのは、大事なコンクールの直前だったそうだ」

 先輩が弾いていたあの二曲は、その時、演奏する予定だったもの。

 というか普通に名前を呼べるなら本人の前でもそうしてあげればいいのに。

 それに加え。

 先輩はあえて、トラウマの曲を聞かせて満君の心の傷を抉るような真似をしているのだ。

「どうして意地悪するんですか」

「意地悪」先輩は鼻で笑った「逆だ間抜け」

 逆。好意、ということか。「意味わかんないです」

「あいつがなぜここにいると思う」

 先輩は床から美籠に視線を移した。その瞳には写真でしか見たことがないような澄んだ海がある。一切の穢れを持たない美しい色が。

「夢があるからだ。捨てきれてないんだよ、あいつは。もう諦めたふうなことをぬかして、本当は、まだピアノを弾きたいと思ってる」

「でも――」美籠は言いかけて口を噤んだ。

 もう治らない。満君の手は。

 美籠の途切れた言葉を悟って、先輩は言う。「関係ない。叶う叶わないは。叶わないからこそ夢だとは言わないが、叶った夢はもう夢でなくなるのは確かだな。過去形になってしまった瞬間、やはり輝きは薄れる。大事に大事に抱えていたとしてもな」

 夢があるから、ここにいる。

 先輩のその言葉が、いやに胸に残った。

「・・・・・・大変なんですね、夢を持ち続けるのって」

「そうだな」先輩は頷いた。「とても難しいことだ、本当に」



 次の日の深夜。

 今日は新月ということで、恒例の幽霊探しに出かけた美籠と直毘先輩は、抜き足差し足でラウンジに赴いたところ、寂しげな影に出会った。寧音乃(ねねの)ちゃん。最近の彼女はほとんど毎晩、部屋を抜け出してこのソファの上で膝を抱えているという。もし会ったら声をかけてあげてと更地さんに言われたのだった。幽霊探し計画は、最早、筒抜けである。

 先輩は虫捕り網の柄で床を叩き、寧音乃ちゃんの顔を覗き込んだ。「どうだ、調子は」

 やや間を置いて、寧音乃ちゃんは先輩を見上げた。視線が交差する。先輩はふむふむと頷いて、「そうか、今日も歌っているのか」

 美籠は寧音乃ちゃんの隣に腰を下ろした。長い髪を梳いてやりながら訊ねる。「誰が歌ってるの」

 寧音乃ちゃんが美籠を見た。まっすぐな目だった。何にも臆することのない瞳だった。

 たおやかな腕が持ち上がり、自分の喉を掴む。

 わたし、と。

 声が聞こえた気がした。

 そんなはずはない。だって寧音乃ちゃんは、彼女は。

 声が出ないのだ。

 事故で声を失ったのだ。

 それでも彼女は、かつての自分の歌を――捨てきれない夢を追い求めて。

「・・・・・・歌手に、なりたいんだよね」

 美籠が優しく問いかけると、寧音乃ちゃんは耳をひくりとしならせた。体中に巻いた包帯の端がほどけていたので、美籠はそっと結んでやる。

「ずっと聴こえるの? その歌」

 寧音乃ちゃんは顎を引く。

「そっか・・・・・・そうなんだね・・・・・・」

 強い。

 視界がぐらぐらと揺れるような錯覚に陥った。なんて強いのだろう。寧音乃ちゃんも、満君も、こんなに小さいのに、美籠の半分程度しか生きていないのに。素直で、純粋で。

 美籠は。

 自分はなんて、臆病だったのだろう。

 捨ててしまった。

 大切な、大切な、もの。かけがえのない、美籠だけのもの。

 美籠はぐっと歯を食いしばり立ち上がった。

「先輩!」

 詰め寄るようにすると先輩はぎょっと身を引いた。「な、何だ急に、悪霊にでも憑りつかれたか」

「やりましょう」

 固めた拳をその薄い胸板に押し当てる。

「満君と寧音乃ちゃんの夢を、叶えるんです!」




 翌日の緊急会議は美籠の部屋で開かれた。メンバーは美籠、先輩、更地さん、㝵乃さんの四人。丸椅子を円く並べて額を突き合わせる。先輩は例によってガムを噛んだだらしない猫背、㝵乃さんはいつも通り片手に鉄パイプ、更地さんは柔らかそうな胸を肘で挟み、これって、何だろう、傍から見たら何の集まりに見えるんだろう。その場合、ここにいる美籠はどんな役割に映るんだろう。さしずめパシリか雑用だと思った。

 議題は勿論。

「院内ミュジーカルを開催する!」

 先輩が突然、立ち上がり、拳を振り上げて叫んだ。

「患者の患者による患者のためのミュージカルを決行する!」

 言いだした美籠が言うのもなんだが。

 そんなノリではないと思う。

 更地さんと㝵乃さんの反応は薄い。㝵乃さんに至っては組んだ足の先がぶれもしない。いつその鉄パイプが血を見せるかわからない空気が張りつめている。

 美籠は冷や汗を掻きながらフォローに回った。「あ、あの、つまりですね、みんなで何かイベントやったら、楽しいんじゃないかなーという・・・・・・」

「動ける奴は全て駆りだせ! 曲と台本は俺に任せろ。㝵乃はキャスティングを頼む、適役にな、暇で捻くれた患者どもを説得するのだ。水奈と美籠は小道具作り、こっちは俺も手助けに入る」

「ああん?」㝵乃さんが鉄パイプで床を叩いた。美籠はひっと肩を竦める。ああ、床が、美籠の部屋の床が、砕けている。

 㝵乃さんは真っ赤な唇を舐め、「監督はあたしにやらせろやぁ・・・・・・!」

 やる気だ。

 しかもかなり。

「馬鹿を言うな!」しかし先輩はこれに対抗した。余計なことをしないでほしいと美籠は焦る。難攻不落の城塞をあっさりと陥落せしめたのだから、もうそれだけで上々だというのに。「監督は俺に決まっているだろう!」

「ざけんな糞餓鬼、てめぇに人を纏めるなんざできるわきゃねぇだろぉがよ」

 どちらにも無理だと思います。

「舐めるなよ、これでも俺は蟻の行列を意のままに操ることができるんだからな! 巣穴を塞いでやればちょちょいのちょいだ!」

 それはただの攪乱です。

「ぐ・・・・・・」㝵乃さんは口ごもった。先輩の攻撃は思いのほか、効いている。

 更地さんがはーいと手を上げた。「質問いいですか」

 何だ、と同時に振り向く先輩と㝵乃さん。この二人、案外、気が合うのではなかろうか。

「私も出演できますかね」

「キャラ次第だ」

「私、こう見えて演技派なんですよ! 悪女からロリっ娘まで何でもこなせます! どんな要求にも答える自信があります・・・・・・!」

 男性陣に誤解させそうな言い方はやめてください!

 美籠は頭を抱えた。企画の段階で成功の一文字も見えてこない。奈落の底にまっしぐらである。

 満君と寧音乃ちゃんのためなのだ。二人をがっかりさせるわけにはいかない。

 夢は、叶えるためにあるのだから。

「だったら!」

 美籠は声を張り上げた。ガンを飛ばし合う先輩と㝵乃さんが驚いてこっちを見る。心臓の鼓動に任せて美籠は言った。

「私が監督します」

 先輩と㝵乃さんは顔を見合わせ、やがてふっと互いに息を抜いた。㝵乃さんは警戒態勢を解き、先輩はすとんと椅子に座る。

「まあ、美籠がやりたいっつーなら、なあ、譲るっきゃねーよなぁ」

「うむ、致し方あるまい・・・・・・」

「え」

 何だか。

 気を遣わせてしまったようだった。


          * * *


 心地よいアルペジオが耳朶を打つ。必死に働かせている頭がぼんやりとしてしまいそうだ。うるさくても静かでも問題があるなんてさすが直毘先輩である。

 彼は今、編曲中なのだった。劇に使う曲もそうだが、今は多分、最後の大仕掛けの仕込みをしているのだと思う。ちらりと窺った横顔はとても真剣で、譜面に音符を書き入れては弦を弾き、視線は机とギターの間から絶対にぶれない。芸術家、なんて偉そうに言っていたけど、事実そうなのだろう。絵も、楽器も、何でもこなす。何でも楽しめる。何でも真剣に打ち込める。それはもう一種の才能だ。

 だから変なのかなぁ、この人。

 普通じゃできないもんね。

「おい」

 先輩が顔を上げた。じっと見つめていた美籠は狼狽してしまう。薄氷の瞳とがっちり視線が噛み合って、逃れようがない。

「は、はい」

「煮詰まってるのか」先輩は体をこっちに向け、適当に弾き始めた。そうしながら会話する。「頭を貸してやろうか」

「あ、だ、大丈夫です」

 美籠は劇の脚本を手掛けているところだ。こちらはそれほど苦ではない。数冊の童話の絵本を持っていって、寧音乃ちゃんに選んでもらったのだ。一番好きな物語。

 灰かぶり。

 寧音乃ちゃんが選んだ本は、長い苦難を耐えきった少女が幸せを手にする御伽話。

 これを元に、都合のいいように物語を改変し作り込んでいくわけである。

「シンデレラね・・・・・・」演奏は悩ましげな曲調に変わった。「いかに前半の悲壮感を煽るかが決め手だな」

「でもあんまりシビアな空気にしてしまうと、小さい子も見るのに問題じゃないですか」

「馬鹿言え。現実を知らない子供が大人になるとろくなことにならんぞ」ここはあれだ、と先輩が鉛筆で美籠の用紙に何やら書き込んでいく。「児童向けの絵本で伏せられているどろどろした出来事も入れるべきだな。ここで継母を殺し、義姉妹はガラスの靴に合わせて踵を削って・・・・・・」

「わああ、やめてくださいよ!」

 せっかくきらきらした可愛らしい話にできあがっていた構想が、ただの一筆で昼ドラになってしまった。

 大体な、と先輩は机を叩く。「ガラスの靴なんて危なっかしい物、ダンスパーティに参加する令嬢に履かせるものじゃないだろう。ここですでにイジメが発生しているのだ、魔女の嫉妬が具現化した結果に違いない。イジメ、いくない」

 そんなこと言われても。

「でも確かに、ガラスの靴じゃ足が冷えちゃいますよね・・・・・・」

「継ぎ接ぎで寒さに凍え続けた灰かぶりになんたる仕打ちだ」

「魔女って実は嫌な人だったんですか・・・・・・」

「違いない。そうなるとキャスティングが難しいな・・・・・・」

 先輩がやったらどうですかね。

 あなた以上の適任はいないと思います。

 いかんいかん、と美籠は頭を振った。先輩のペースに絡め取られている。心底、彼に監督を任せなくて良かったと思った。㝵乃さんもやりたがっていたけれど、彼女に書かせたらダンスホールが血の海になりそうなので、やはり却下である。

「いいんです。御伽話なんだから、夢いっぱいで」

 先輩はふんと鼻を鳴らし、「そうだな。夢いっぱいだ」

 柔らかい声だった。美籠は少しどぎまぎしてしまう。夢か。夢。たくさんの、夢。そこに詰まる希望には、少なからず美籠の理想も入っているのだろうか。あらかじめ定められた物語の筋書きだけでなく。

 それは、ちょっと、いやかなり、恥ずかしいのでは。

 語っていいものでもない。自分の夢を捨てた美籠が、他人の夢を、なんて。

 そうか、と思った。

「シンデレラも、夢を見たんですね」

 そうだな。先輩は短く頷き、ぽろんと弦を弾く。

「叶えたんですね」

「乙女の妄想力というのはすごいらしいぞ。水奈が言っていた」一気に夢がなくなる発言である。

 美籠はお腹の上に手を当てて、一つ深呼吸をした。「私、頑張ります」

「おう」

 二人は各々の作業に戻った。

 それからそんなに時間は経っていなかったように思う。

 順調に奏でられていた穏やかな旋律にひびが入った。

 奇妙な不協和音を奏でた指を細かく震わせて、先輩が硬直している。

 その顔は愕然としていて、でもどこか諦めたふうで、しょうがないとわかっていても、泣いてしまう、悲しくなってしまう、そんな表情が。

「どう、しました」

 訊ねる美籠には答えず、先輩は顎から滴る汗を誤魔化すように立ち上がり、

 左手で棒掴みにしたギターを振り上げ、

 ふんっ、と掛け声一つ。

 ギターが床に叩きつけられた。

 美籠は唖然として言葉も出ない。

 先輩は額に滲んだ汗を爽やかにシャツの袖で拭い、粉々に砕けた楽器の前に仁王立ちして、「手が滑った」

「わーっ」

 美籠はギターの残骸に駆け寄る。床が、美籠の部屋の床が、また一つ穴を。

「何なんですか急に!」

「いやな、俺の中に吹き荒れるイデオロギーが爆発したんだ」

「はい?」

「プリンの壁がゲシュタルト崩壊だな」

 まず辞書を引いてください。

「どうするんですか、ギター壊れちゃいましたよ」

「レマにまた買ってもらう」

「レマって・・・・・・」誰ですか。

 先輩は首を捻った。「お前も会ったことあるだろう。医院長だ医院長、ここの」

「ああ」

 海色の目の人だ。やっぱり外国の方だったんだ。そう思ったのだが、

「あいつはハーフだ。ラテン系の血がどうとか言ってた気がするぞ」

「そうなんですか」

 血が混ざると美形が生まれるというけれど、なるほど本当らしい。そういえば、と美籠は先輩の顔を下から見上げて思う。いつもは伸びっぱなしの髪の毛に隠れてよく見えないけれど、先輩もそれなりに整った顔立ちをしている。というより。

「先輩って、ちょっと医院長先生に似てますよね」

 先輩は何も言わなかった。空気が尖った気がする。最近、やっとわかってきたのだが、先輩は本当に機嫌を悪くすると口を利かなくなる。

 不安そうにする美籠を見て先輩は苛立たしげに溜め息を吐き、壊れたギターを爪先でつつきながら言った。

「あいつが俺に似てるんだ、馬鹿たれ」



 先輩もどこかへ行ってしまったし、部屋でずっと頭を抱えているのも息が詰まるので、美籠は散歩がてら中庭に出ることにした。照りつける太陽から隠れるように木陰を歩く。蒸し暑いけれど風は爽やかだ。熱射病にだけは気をつけて、少し歩いて戻ろう。何かいい案も浮かぶかもしれない。

 劇。うまくいくだろうか。この医院は変わった人が多いから、思い通りにはいかないだろうことは覚悟している。それでもきっと、楽しいものになる。それだけは確信している。皆が笑顔になってくれたら最高だ。これからも。

 これからも夢を持ち続けていけるように。

 桃色の花を辿り広場に出る。今日も子供達が走り回っている。担当の看護士さん達はまるで幼稚園の先生状態で、困ったように笑っていた。表には出さないけれど、一見、元気そうなこの子供達も、重い病気を抱えているのだ。本来なら病室を出ることも適わないだろうに、ここではそれをしない。死にたきゃ死ね。その言葉はいつまでも胸に残っている。自由。好きにしろ。好きに。

 好きに、生きろ。

 美籠は足を止めた。満君。木の根元でしゃがんでいる。何をしているんだろう。気分でも悪いのだろうか。美籠は小走りで駆け寄った。満君、と名前を呼ぶと、小さな頭が持ち上がる。

 奇妙な形で固まった指の両手の平に包まれた小鳥。

 血だ。怪我をしている。羽が、多分、折れてしまって。胸は膨らんでいるし、生きてはいるようだけれど。

「大変」美籠は膝を曲げた。「手当てしないと」

「無理だよ」満君は言った。ぞっとする声音だった。「無理だよ、もう」

「無理・・・・・・」

 そんなことないと美籠は首を振る。けれど満君は頑として受け入れなかった。もう飛べない。飛べなきゃ、死んじゃう。もう無理だよ。そう言う。駄目、駄目なんだ、もう飛べないんだよ。そう繰り返す。

「駄目じゃないよ!」大きな声だった。出した美籠自身が驚いてしまうぐらい。美籠は下唇を噛み、満君の二の腕を左手で引っ張る。「来て」

 少し歩いたところで満君が抵抗した。「な、何だよ、どこ行くんだよ」

「先輩のところ」

「なおみ。やだよ、あいつんとこ行ったって何にもならないよ」

「なるよ、なるの!」美籠は意固地にそう突っ張った。どうしてこんなにむきになっているのか、自分でもよくわからない。ただ酷くもやもやしていた。胸の辺りが。掻き毟ってしまいたい。鎖骨の間を何かが塞いでいる。黒くて重いわだかまりが。絡み合った毛糸のような。

「嫌だ、僕はいかない!」

「いいから行くのー!」

 こうなったら小鳥だけでも奪ってしまおうと美籠は右手を伸ばす。満君は庇うように背を向ける。日陰から出てしまったので直射日光が肌を焼き、何だかくらくらしてきた。満君のほうも辛そうだ。汗をいっぱいかいて。何だか馬鹿みたいだなぁ。何やってるのかなぁ、自分は。

 膠着状態に入ったそんな時。

「呼んだか」

 どこからか声がした。直毘先輩だ。でも姿は見えない。満君が猫のように威嚇して周囲を睨む。

「先輩、ど、どこですか」

 ざ、と葉が落ちてきた。縁がぎざぎざした緑の葉っぱ。

 すぐ目の前に逆さまの顔が現れて。

「ひぃっ」

 美籠と満君は身を寄せ縮み上がった。びくつく二人を先輩は何でもなさそうに、

「暑くないのか、そんなに引っついて」

「ななな何してるんですか!」

 先輩は舗装された道に連なる木立の一本から、枝に足を引っ掛けて逆さにぶら下がっているのだった。つくづく落ち着かない人だと思う。

 ぷーっと風船ガムが膨らみ、弾ける。

「絵を描いていた。曲のイメージをだな、抽象画に仕上げると作曲が順調に進む」

 そう言う先輩の手には確かにB5サイズのスケッチブックが握られている。伸びっぱなしの髪の毛がひっくり返って、綺麗な瞳がよく見えた。もういいから下りてきてください。危なっかしいです。

 先輩は一度、上体を起こし枝に乗ると、そのまま飛び下りてきた。

「お前達は何をしているんだ」

「あ、そ、そうだ、先輩」

 美籠は満君の背を押した。満君は観念したのか、渋々といった感じで腕を掲げてみせた。

 おお、と先輩。「焼き鳥にでもするのか。火を起こすなら手伝って――」

「違う!」美籠と満君は声を合わせて遮った。

「怪我してるんです、手当てできませんか」

 美籠の懇願に、しかし先輩は腰に手を当てて首を傾ける。「なぜ、俺なんだ」

「え?」

「どうして俺に頼る」

「あ・・・・・・」言葉が続かなかった。そういえばそうだ。ここは病院で、看護師さんもお医者さんもいて、さすがに獣医はいないけれど、小鳥の羽の応急処置くらいならしてもらえるだろう。それなのに。真っ先に先輩が浮かんできた。どうも、どうも美籠は。

「先輩なら、何でもできると思って」

 先輩はやや意表を突かれた顔をして、魔法使いじゃあるまいに、と笑った。腕を組んで、いつもの不遜な調子で言う。「まあ可能ではあるが」

「ほ、ほんとに」満君が瞳を輝かせる。「ほんとに、治せるの」

「大船に乗ったつもりでいろ。救命ボートは山ほど積んである」

 転覆する気まんまんだった。

 三人はとりあえず美籠の部屋に移動した。テーブルに清潔な布を敷いて、先輩がどこからか取り出した木の枝を小鳥の羽に合わせて削る。小鳥は随分と弱っていた。先輩が折れた羽に触れても、足を突っ張らせるだけでろくな抵抗もしなかった。だが先輩を戸惑わせるにはそれで十分だったようだ。枝を添えて包帯を巻こうとした手が引っ込む。羽毛に爪が触れそうになるたびに迷う指先。

「先輩」

 不思議に思って美籠が呼ぶと、先輩は無言で美籠の鼻先に包帯と枝を突きつけた。

「・・・・・・あとは、お前がやれ」

「うぇ」初めて銀杏を食べた時のような声が出た。「そ、そんな」

「指示はしてやる。いいからやれ」

 問答無用で席を譲られた。美籠は深く呼吸をして、きっと眉根に力を込める。先輩の言葉に従って、小鳥の羽に枝を当て、ゆっくりと包帯を巻いていく。ごめんね。痛いかもしれないけど、少しだけ我慢してね。心の中で唱え続けること数分。やっとのことで治療が終わると、美籠は椅子の背にもたれかかった。ほわあ、と気の抜けた息が漏れる。

「ど、どうなんだ、治ったのか」靴を脱いで椅子に立ち、身を乗り出して事態を見守っていた満君が、待ちきれないと声をあげる。

「馬鹿たれ」先輩は一蹴した。「それこそ魔法じゃないんだぞ、そんな一瞬で治るか」

「う、嘘ついたのかよ!」

「そのうちくっつくと言っているんだ」

「そのうちって何だよ、いつだよ、それ!」

 先輩は風船ガムを膨らまし、「そんなに言うなら、その鳥の羽、ガムで貼っつけてやろうか」

「やめてください・・・・・・」小学生と張り合わないで。それじゃ荒療治にもなりません。

 小鳥は満君の手の平に返した。担当の看護士に相談して、怪我が治るまで部屋で世話をするという。満君の頬は紅潮していた。喜んでくれたようで何よりだ。美籠も嬉しくなってしまう。

「飛べるようになったら、姉ちゃんの部屋に連れてくるよ!」

 満君はそう言って駆けていった。

 美籠の胸にちくりと痛みが刺した。もがけばもがくほど棘が傷つけるような痛さだった。

「怪我は治っても」先輩が血を舐めるような声でぼそりと言う。「また飛べるようになるとは、言ってないんだがな」


          * * *


 そして二週間後。

 終わらない仕事、継母と義姉のいびり、積み重なる心労が原因でシンデレラは声を失ってしまう。嗚咽もあげられぬ毎夜。そんなある日、城で舞踏会が開かれるとのお達しがあった。王子の妃を見初めるためのダンスパーティ。継母と三人の義姉は綺麗なドレスで着飾り舞踏会へ赴く。煌びやかな催しに心惹かれるも、自身の継ぎ接ぎの服を見下ろし溜め息をつくシンデレラ。そんな彼女の前に魔法使いが現れる。カボチャの馬車、純白のドレス、ガラスの靴。魔法使いの生みだす幻想はシンデレラを城へと導いた。城に辿りついたシンデレラは、しかし継母と義姉の目を避け城内を彷徨ううちに、一台のピアノに出会う。彼女は幼い頃、暖かな家族を失う前、ピアノを演奏するのが大好きだったのだ。懐かしさに奏でられる記憶の中の旋律。そこに重なる誰かの歌声。低くも澄んだ歌声。戸惑うシンデレラを、現れた王子の動かない指が促す。王子は事故で腕に障害を患っていた。王子の心動かされる滑らかなピアノの音色は失われてしまった。彼は彼女の失った声を。彼女は彼の失った指を。それぞれ互いの欠損を補い、一つの歌をつくりあげる。それは身を切るような愛の歌。魅かれ合った二人の喜びの歌。

 そんな涙なくては語れない物語だった、はず、なのだが。

「くたばれぇぇええぇ魔法使いぃぃぃいぃ・・・・・・!」

「死ぬのは貴様だ継母・・・・・・!」

 交差する鉄パイプと魔法ステッキの応酬。ぽつんと立つ包帯だらけのシンデレラを前に繰り広げられる死闘。水奈義姉は官能的なポーズで観客の、主に男性患者を虜にし、子供達の歓声が舞台の剣戟を煽り、女性陣は井戸端会議に花を咲かす。

 ちなみに王子は不在だ。

 満君が参加を拒否した。

 なんというか、これは、もう。

「キャスティングミス以前の問題だ・・・・・・!」

 美籠は頭を抱えて床に伏せた。握りしめてしわくちゃになった台本のタイトルが滲んで見える。直毘魔法使いと㝵乃継母のバトルは終わりそうにない。隕石が落ちてきたって二人を止められないだろう。医院長先生が静かに歩んできて膝を折り、美籠の肩に手を乗せた。

 魔法使いの電撃(ただの刺突)で立て板が倒れた。隠れていたグランドピアノが漆黒の外形を現す。ピアノがある部屋はこの小ホールしかないとのことで、壇はなかったものの適度な広さもあることから、この部屋を使うことにしたのだった。板で隠し、満を持するまでピアノには待機命令を出していたのだ。

 涙ぐむ美籠の視界にぼんやりとした輪郭が飛び込んだ。美籠は目を擦る。あの小柄な少年は。

 満君がピアノの前で両手を広げ、力いっぱい叫んだ。「お前ら何やってんだよ! 危ないだろ、ピアノが傷ついたらどうするんだよ!」

 だが一瞬でも気を逸らしたほうが負ける戦いに興じる二人には届かない。それどころかますます激化する一方だ。やめろ、聞こえないのかよ、やめろってば。満君が次第に泣きそうになる。その奥では、寧音乃ちゃんが所在なげに立ち尽くしている。包帯の隙間から覗く瞳は悲しそうで。美籠の錯覚ではないだろう、きっと。

 美籠は肩を震わせた。

 こんなつもりじゃなかった。美籠はただ、満君と寧音乃ちゃんの夢を応援したかったのだ。どんなに辛い状況でも希望を持ち続ける姿勢が美籠には眩しくて、羨ましくて、だから、頑張ってって、一言伝えたかった。先輩には夢を叶えましょうなんて大見得切ったけど、こんな子供騙しが本当に彼らの夢を叶えることになるなんて思い上がっていなかった。少しでも、心が楽になるように。これからも抱いていけるように。

 夢を叶える手伝いをしろと言われた。

 だから美籠は発案を踏み切ったわけじゃない。

 夢を叶える手伝いをしたいと、自分で、思ったのだ。

 でもこれじゃあ、悲しませてしまっただけだ。迷惑をかけてしまっただけ。

 しわしわの台本を涙が濡らした。もう堪えきれない。こんなことなら初めから何もしなければよかった。楽しくなりそうだなんて、自分は愚かしいほど楽観だった。床に滴がいくつも落ちる。唇を歯で挟む。

 すっと、医院長先生が立ち上がった。

 彼は白衣のポケットに手を突っ込んで、凌ぎを削る先輩と㝵乃さんの激闘へ歩み寄り、

「直毘」

「ん・・・・・・?」

 振り返った先輩の頬を、

 軽い動作で張った。

 ぱん、と渇いた音が滾る熱に終止符を打つ。

 直毘先輩も㝵乃さんも唖然として、ネジの切れた人形のように動かなくなった。子供達の嬌声も女性の談笑も男性の歓声もやんだ。しん、と、水を打ったように静まり返るホール内。

「直毘」医院長先生はもう一度、先輩の名前を呼んだ。そうして、厳しい口調で言った。「ふざけすぎだ」

 いい加減にしなさい。

 まるで、父親が子供を叱るような。

「・・・・・・他人のくせに」先輩は大きく見開いた目をすぐに憎々しげに歪め、「赤の他人のくせに保護者面するのか」

 そのまま殴りかかるんじゃないかと思うほどの剣幕だった。粟立つ肌。美籠は初めて先輩を恐いと思った。

 先輩が医院長先生に突き刺す視線は、憎悪のそれだ。

 憎しみの。

 医院長先生は息を吐いた。溜め息になりきれなかったような浅い吐息だった。

「見なさい」

 そう言って医院長先生が指さしたのは美籠自身で。美籠は慌てて顔を覆う。目の縁を零れた涙を懸命に服の袖で拭うが、それでもすぐには泣き虫の気配は去らない。

 先輩ははっとして、悔しそうに俯いた。

「ちゃんと謝りなさい」

 優しい声。美籠は腕の間から様子を窺う。医院長先生の背中は、広くて、高くて、そしてあたたかくて。

 さすがの直毘先輩も、折れた。

 サンダルが片方脱げた足で美籠の傍にかがみ、「・・・・・・すまん」

 美籠は必死に頭を振る。

 先輩の指先が美籠の目尻に触れかけ、結局、何もしないまま離れた。

 疑問に思う余裕もなかった。

 寧音乃ちゃんが。

 先輩、と美籠は小さく呼ぶ。美籠の視線を辿り、先輩もそちらに目を遣る。

 寧音乃ちゃんが満君の手の平を包むように優しく握っていた。満君は緊張からか身動きを取らない。

 満君から手を離し、寧音乃ちゃんは一歩、身を引いて、指先の包帯をほどき始めた。

 酷い火傷の痕が露わになる。

 手から肘、二の腕、肩まで、いやきっと、その傷痕は全身の肌を侵しているのだろう。両手の包帯をほどき終わると、驚く満君の前で、寧音乃ちゃんは次いで首の結び目に手を遣った。そのまま、顔――。

 頬の左半分が爛れていた。

 溶岩が冷水で固まったように凹凸の激しい皮膚が。

「お前・・・・・・それ・・・・・・」言いかけた満君の唇を人差し指が塞ぐ。

 寧音乃ちゃんはゆっくりとピアノに近づき、椅子に腰かけた。

 澄んだ旋律が木霊する。

 満君が身を強張らせた。それはかつて彼が果たせなかった、夢への一歩。『月光』と並べてコンクールで演奏する予定だったミュージカル曲。かなり簡易に編曲が施されているが、満君ならばわかるはずだ。そして、歌えるはず。

 眠りに落ちる前、満君はいつも小さな音で自室にこの原曲をかけている、と直毘先輩は言った。

 今日この日のために、先輩は難解な曲を素人でも弾けるようアレンジし、寧音乃ちゃんに毎晩、特訓を施した。

 満君は拳を握りしめ、肩をいからせて踵を返したけれど、それほど進むことはできなかった。小さな歌声が凪のような音の群れに加わる。耳を澄まさなければ聞こえないその声は大きくなることはなかったけれど、しかし確かに、この曲は完成したように思えた。

 夢は遂げられたのだ。

 演奏の合間、寧音乃ちゃんは美籠と先輩を見て、

 小さく微笑んだのだから。


 その翌日。

 寧音乃ちゃんは屋上から飛び下りた。


          * * *


 人が集まっている。血の臭い。生臭い鉄の。青いビニルシートをかけられた死体。シートのつくる凹凸と陰影が確かにそこに横たわる誰かを示している。形がおかしかった。手足の向く方向はばらばらで。あまりに薄くて。

 どうして。

 こんなことに、なってしまったのだろう。


「お前が泣くことはない。これはお前のせいじゃない」

 毛布に潜って小さくなる美籠を宥める先輩の声。美籠は泣いてなんかいない。むしろ笑ってしまいそうだ。そんな言葉。先輩が吐くとは思わなかった。気休めなんて言うような人じゃないと思ってた。それは無神経だとか言ってるんじゃない、この人は何の役にも立たない慰めなんて遣う人じゃないと。

 それなのにどうして、彼は美籠に優しい言葉をくれる。

「言っただろう、夢を持ち続けるのは――夢を見続けるのは、難しいと。とても大変なことだと」

 先輩は言う。

 それが美籠に対する言葉だったのかはわからない。

「寧音乃は夢を叶えて、そして、新しい夢を見れなかった。それだけだ」

「じゃあ」美籠はシーツをぎゅっと握りしめる。「やっぱり、私のせいじゃないですか」

 美籠が余計なことをしなければ。自己満足なお節介を働かなければ。

 彼女の夢は夢のまま。

 終わることはなかったはずなのに。

「それだけは許さない」

 先輩の声が固くなった。

「悔やむも泣くも好きにするがいい。だが」

 毛布越しに感じる。美籠の頭に少しだけ触れた指。だがすぐに離れてしまう。やはりそうか。美籠は思った。先輩は私に触れてくれない。なのに、そんなことを言うんですね。そんな綺麗で砕けてしまいそうなことを。

 笑っただろう、と先輩は言う。

「寧音乃は笑っただろう。それだけは、否定させない。俺は」

 あの笑顔だけは。

 美籠だって。

 美籠だって――。

 こんこん、と控えめに戸が叩かれた。沈黙は多分、先輩が美籠の様子を窺うためのもの。美籠が身じろぎ一つしないでいると、先輩は浅く溜め息を吐いて、腰かけていた寝具の縁から立ちあがった。

 蝶番が軋む音。

 床を踏みやってくる足音。軽くて頼りない靴の音。

「姉ちゃん」

 美籠は毛布を跳ねのけた。上体を起こした衝撃でベッドが揺れる。

 満君が。

 ぎこちなく曲がった指で、美籠の頬を撫でた。

「飛んだよ、あの鳥」

 美籠は目を見開く。

「あの時、姉ちゃんが助けてくれた鳥、ちゃんと飛んだ。飛んでった。窓から。元気そうに。落ちなかったよ」

 ねえ、と満君は微笑み、その頬に涙が伝った。

「僕、頑張るね。あの子の分まで、ずっと」

 いつか飛べるようになるまで。

 美籠は満君の華奢な体を抱きしめた。

 顔を押しつけたパジャマからは洗剤の香りがした。


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