『足顔』
1.『足顔』
自分の足で立ったのは随分と久しぶりのことのように思えた。散切りの髪が生暖かい風に揺れる。温い吐息のような春の風は、少なくとも自分を歓迎してはいないように感じた。新しい匂い。まだ嗅いだことのない空気感。知らない場所に来ると美籠はいつも物怖じしてしまう。新鮮な驚きと共に重いものも感じ取ってしまうからだ。喜びも、悲しみも、ベクトルは違えど想いの強さでいったらどちらも同じ。肩に圧しかかる何かを払いのけてしまいたい。けれど、腕を持ち上げる体力は、美籠の体に存在していないのだった。気力、ではない。文字通りの体力。
筋肉の壊れた骨と皮しかないこんな細腕では何もできない。歩くのもやっとだ。眩暈がする。横になりたい。深い眠りに。昨夜も満足に寝ることができなかった。どうしても意識が浮上して。落ち窪んだ眼光はぎらぎらと輝きを増すばかりで。
もう疲れた。
疲れている。
解放されたいけれど、死にたいのとは、ちょっと違う。生きるのも、死ぬのも、美籠にとってはどうでもいい。違いはないと思っている。生きながら死んでいる。
死にながら、生きている。
桃色の花弁が凛と鳴いた。巨大な屋敷の前の花畑に咲き誇る花々。気味が悪いほどたくさん。それも同じ花。どれも同じ品種、色、形。作り物みたいに見える。
まるで絵に描いたようだ。
絵画の中に飛び込んでしまったような。
彷彿とされる油絵具のにおいに鼻が惑わされる。胸が悪くなった。違う。絵具のにおいなんかするはずがない。そうだ。私はもう、それらとは縁を切ったのだ。二度と、一生、手にすることはない。
そうだ。
忘れよう。
忘れないと。
いや――忘れたい。
「大丈夫かい」
車の運転席から声がかけられた。助手席に身を乗り出して、外に立つ美籠を窓から心配そうに見上げてくる瞳が一対。南方先生。美籠の主治医だ。主治医だった。
美籠はこれから、この新しい医院に移る。ずっと南方先生の務める病院に入院していた。回復の見込みはなかった。病院にいれば死ぬことはない。けれど、このままではいけない。そう判断した南方先生は、知人の経営するこの個人医院を紹介してくれた。どこにいても同じだったから美籠は了承した。治るとは毛頭、思っていなかった。だけど南方先生は、多分、美籠の十六年の人生で一番良い人だから、彼の配慮を無下にする理由はなかった。
たまに様子を見にくるからね、と南方先生は優しく笑う。
忙しいんだから無理しないでください、と私は応える。
車が正門に向けて去って行った。南方先生は時間がない中、こうしてここまで美籠を送ってくれたのだ。頭も上がらない。ボストンバッグに入った荷物は、年頃の女の子にしてみれば随分、ぶかぶかだったけど、それでも美籠の腕には負担だった。舗装された地面に置いて一呼吸。玄関前で案内の看護師が来るのを待つこと十分。
春の陽気に茫洋とする頭を覚まさせるには十分な破裂音がした。美籠は肩を竦ませて屋敷の玄関口を向いた。
「わああ、待たせてごめんなさい!」
慌ただしく扉を開いて駆けてきたのは、何だか見るからにおっちょこちょいそうな女の人だった。純白の制服は所々がひらひらしていて、どちらかと言えばナースというよりメイドよりである。でもやらしくはない。女の目から見てもとても可愛い。小柄な体型にまた合っている。
「美籠ちゃん、だよね。ああ、ごめんね、外で立ちっぱなし。疲れてるでしょう、あ、これ荷物? 私が持つね!」
看護師さんは美籠の鞄をさっと攫って、ついてきて、と促した。美籠はこくんと頷いた。
医院はホテルと保育園がごっちゃになったような建物だった。とにかく広い。ラウンジがあって、ふかふかそうなソファがいくつも並んでいて、テレビなんかも置いてある。でもデザインはカラフルだったりポップだったりで子供っぽい。それでいて不思議な統一感が醸しだされている。この医院の入院患者は幼児からご高齢の方まで幅広いが、人数はそれほど多くないと聞いた。精々、五十人程度だとか。西洋の館みたいな風体で、敷地もとても広大であり、別棟も三棟あるというのだから、ちょっと勿体ない気がする。病院なんかやめて宿泊施設にしたほうが儲かりそう。
清潔な廊下を歩く美籠は無言。看護師さんが勝手に喋ってくれるからだ。
「医院長はね、見た目はそれはもう野暮ったいけど、とってもいい先生だからね、安心していいよ! 他の看護師さんも、みーんな優しい人ばっかりだし。あー、㝵乃さんはちょっと恐いかな? でもでも、かっこいいの、私のねー、憧れの先輩なんだー」
口ぶりや院内の地図と格闘しているところを見ると、彼女はどうも新人さんらしい。
まだ自己紹介してなかったね、と大仰に詫びて、「私は更地水奈と言います。これからよろしくね!」
惜しげもない満面の笑みを向けられたら美籠も頷くしかない。何となく心が穏やかになった。こういう人は嫌いじゃない。好きの部類に入れてもいい。底なしの明るさというのには救われる。美籠は別に根が暗いわけではないのだ。自分だって、楽しいとか、嬉しいとか、感じたい。今は心が麻痺してしまって、何もわからないけれど。元に戻る保証も予定もないけれど。誰かが楽しいと、自分も楽しい。楽しいような気分になれる。もしかしたら、もう忘れてしまっているだけで、美籠がわかっていないだけで、これが楽しいという感情なのかもしれない。そんな錯覚もする。
でも錯覚は錯覚だ。
なぜなら美籠は捨てたのだから。
自分の命より、大切なものを。
ここだよ。そんな声が聞こえて、それは更地さんのもので。チョコレート板みたいな扉が開いて。
ふわ、と風が舞い込んだ。
医院長、と更地さんが慌てる。「また窓開けっぱなしで寝て! もう、風邪引きますよっ」
窓の下で床に座り込み、机に寄りかかって眠るその人。ぼさぼさの髪。よれよれの白衣。裾の擦り切れたスラックス。でも不潔には感じない、不思議な清涼感がある。
医院長さんは更地さんに揺り起こされ、ふああと欠伸をした。
ばちりと目が合う。
その光彩は海の色をしていた。太陽の光をいっぱいに浴びて、穏やかに凪ぐ海水の。
「ん、む、ああ」医院長さんは首筋をぼりぼり掻いて、「新入りか。そういやそんな話、南方からきてたな・・・・・・」
「きてたなじゃないですよ! 失礼ですよ!」
医院長さんはむっくりと起き上がった。背が高い。トーテムポールみたいだ。見たことないけど。体格もほっそりしていて、お医者さんのほうが倒れてしまいそうな感じ。
医院長さんは美籠を上から下まで無遠慮に眺めた。美籠は両手で肘を持って俯く。何を思われるだろう。何を言われるだろう。不安が渦を巻く頭上から、淡白な声が降る。
「あんた、名前は」
「・・・・・・美籠です」名前も知らないんだ。入院患者のことなのに。
そうか、と医院長さんは頷き、こんなことを言った。
「あんた、夢はあるか」
どきりとした。
心臓が縮んでそのままなくなってしまいそうだった。
夢。
それほど遠くない昔に捨てたもの。
手放したって何も手に入らなかった。それでも。もう二度と、触れることはない。垣間見ることもない。さようならを告げたのだ。さようならを。
美籠は力なく首を横に振った。きっぱりと口で否定できなかったのが自身の弱さの表れだと思った。駄目な子だ。本当に。こんなだから、きっと。こんなじゃなかったら、きっと。
お父さんもお母さんも、まだ、隣に。
「そうか」医院長さんはまた頷いた。そうして美籠の頭に手を置いて、「だったら、手伝え」
唐突な命令だった。何をの部分が抜けている。目的語が。一番重要なのに。
「・・・・・・え?」
「ここは夢を叶える場所だ」
医院長さんは目を細めて言った。
「夢がないなら、叶える手伝いをしろ」
「・・・・・・他の、患者さんの、ですか」
医院長さんは顎を引いた。更地さんを振り返り、「駄目新人。こいつの担当しろ。ついでに色々、教えてやれ」
「駄目とは何ですか! 美籠ちゃんの担当になれるのは嬉しいですが!」
「えっと・・・・・・」
「看護師の仕事だ。この医院での。患者の夢を、現実にする」
美籠は口ごもった。自分にそんな大それた真似ができるはずがない。自分の夢も果たせなかった小娘が、誰かの大切な脆い夢を叶えるなんて。その手伝いをするなんて。
無理です、と言おうとした。被せるように医院長さんは言った。美籠の髪の毛をわしゃわしゃと掻き回しながら、
「点滴は打たん」
今度こそ美籠は二の句が告げなくなった。戸惑いの呻きも漏れなかった。
点滴を打たない。
それはつまり。
「死にたきゃ死ね」
医院長さんはそれだけ言って、美籠の頭を最後に優しく叩き、欠伸をしながら部屋の奥に引っ込んだ。その背中に更地さんが罵声を浴びせていたが、美籠の耳には入ってこなかった。
痩せ細った美籠の体。今にも崩れてしまいそうな骨。
摂食障害、という。美籠の病気。食べ物が喉を通らない、大変な病気。でも別に困ったことはない病気。最初は感じていた空腹も次第にわからなくなった。無理に食べると嘔吐する。だったら、食べなきゃいい。食べたくないなら、食べなければ。
原因はおそらく、いや、言葉を濁すのはやめる。
確実に。
お父さんと、お母さん。それに、夢。そう、自分自身。
守れなかった自分。
何も守れなかった、自分。
肩を抱かれ、美籠ははっと我に返った。すぐ横に更地さんの心配そうな顔がある。ごめんね、とか、大丈夫、とか、気遣われた。そのどれもに美籠は小さく頷くだけだった。
個室に案内する、と先導する更地さんの背中を追い、中庭に入った。
そこかしこに桃色の花が咲いている。玄関口の花畑と同じ種類。この医院にはこの花しかないのだろうか。さっきは気づかなかったけれど、何だか眠たくなるような甘い芳香が漂っている。息を吸い、肺が満たされると、今なら眠れそうな気がした。個室に着いたら、とりあえずベッドに横になってみよう。そう思えた。
ああっ、と美籠の荷物を運ぶ更地さんが大きな声をあげた。「鍵、鍵がない、鍵が、ごめんね、すぐ取ってくる、待っててね!」
超特急で走っていく後ろ姿に美籠は瞬き。慌ただしい人だなぁ。くすりと笑う。
それは広い庭に目を戻した時、美籠は見つけた。
首を傾げながら近づいてみる。
中央に生えた大きな樹。根っこにビニルシートが敷かれ、しっかりと鋲で地面に固定されている。これは何をしているんだろう。剪定、とはまた違うような。
ざ、と靴が砂を擦る音がした。
更地さんがもう戻ってきたのかと、美籠は苦笑して出迎えようとして、失敗した。
頬が引き攣った。
頭上から降りそそぐ柔らかな陽光を怪しく照り返す銀の刃。
鋸。
それも、真っ赤な血で染まって。
美籠は後ずさった。男。美籠より少し年長の、男の人。左手に幅広の鋸をぶら下げている。とても長い。軽く振れば容易く、美籠の筋張った首なんて飛んでしまいそうな。
「新顔か」
彼は低い声で言った。少し喉が鳴る、とても綺麗な声。どんな小さな声で喋っても、壁を貫通して聞こえてきそうな声音。ガムを噛んでいた。くちゃくちゃと唾液の引く音と共に、
「足をよこせ」
変な人だ。
繰り返しになるが。
変だ。
「う、え・・・・・・?」
鋸が大きく振りかぶられた。美籠の足は竦んだ。動けなかった。恐い。でも小さくてぎざぎざの刃は光を反射してきらきら光っていて、その輝きに美籠は魅入られてしまって。
地面が揺れた。
鋸の刃が、乱暴に大樹の幹に食い込んだ。
「へ・・・・・・」美籠は芝生の上にへたり込んだ。膝が震えている。無骨な鋸は赤い飛沫を散らしながら、美籠を無視して樹に突き刺さり、幾辺もの樹皮を削ぎ落とした。男の人は続いて力任せに鋸を引いては押し引いては押し、ビニルシートの上に赤く染まった木屑を降らせてゆく。
美籠は土に跳ねた赤に視線を落とした。
つんと鼻を刺す刺激臭。
絵具だ。
「うむ」男の人は満足げに頷き、すっかり刃の駄目になった鋸を大地に立て、「こんなものだろう」固い口調でそう言った。
美籠にちらと視線を遣り、ビニルシートを丁寧に剥がして木屑が零れないように纏めると、背中を見せて言った。「ついてこい」
芯まで染み渡るその声にまるで魔法をかけられたかのように、美籠は自然とその背中に従った。
細道を抜けると、笑い声がわっと耳に飛び込んできた。
美籠は目をぱちくりさせてしまう。子供達が走り回っている。まだ小学生ぐらい。大きく広げたシートの上に一回り小さな模造紙が置いてあって、子供達はその周りを駆けているのだった。模造紙には二十を超える色が散らばっていた。近づいて眺めてみて、気づく。足だ。足の形。人の顔ほどもある大きな足跡から、卵サイズの小さなものまで。指の長さや土踏まずの形もそれぞれだ。踵の下に名前が書かれていて、落書きなんかがされているのもある。
男の人は、持ってきた木屑をバケツに突っ込んだ。そこには他の色のついた木屑が入っていて、無造作に手で掻き混ぜると、指先で摘まんで一つの足跡に振り撒いた。小さな女の子が嬌声を上げる。虹色の妖精の粉がかかったようになる自分の足跡に、少女はご満悦だ。
美籠は鼻を塞いだ。絵具のにおいで辺りはいっぱいで、吸い込む空気に色がついているような気までしてくる。気持ち悪い。駄目だ。絵具は、駄目。触れたくない、最も触れられたくない心の柔い部分を、刺激する。
大皿に満ちた緑色の絵具に足を入れた少年を、男の人が叱った。「こら、一人一回と言っとろーが!」こだわりがあるらしい。
ということは、この大小様々な足跡は、ここの入院患者の皆のものを集めたものなのだろうか。
足をよこせ。
なるほど。彼は美籠の足型が欲しかったわけだ。奇妙な言い方をするうえに、片手に提げていた鋸の凶暴性も相まって、本気で殺されるかと思った。
「・・・・・・すごい」美籠は思わず呟く。
男の人は少年の顎を腕で押しやりながら美籠に言う。「俺は芸術家だからな」
「はあ」美籠は曖昧に頷いた。
「お前もやれ」
当然のようにそう指図され、美籠は困惑する。「い、嫌」
「何故だ」
「やだ、絵具は」触りたくない。においを嗅ぐだけでも辛いのに。
ふん、と彼は機嫌が悪そうになる。
「だ、だって」美籠は慌てて言い訳をした。「気持ち悪いでしょう、こんな、足」
美籠の痩せこけた足。骨が浮きでて気味が悪い。こんな足跡を残したら、その芸術に歪ができてしまう。
けれど彼は何でもないように首を振る。「いや別に。何とも思わない」
「嘘」
「本当だ」
「ほんと・・・・・・」美籠は俯いて小さく微笑んだ。そうか。気持ち悪くないのなら、良かった。人に不快感を与えたいとは美籠だって思わない。
ところが彼は、安堵する美籠に向かって鋸の先端を突きつけた。「・・・・・・お前はおかしい」
「え?」
「無関心こそ最大の侮辱だ。何とも思わない、つまりお前には全くこれっぽっちも興味がないと言われて安心を覚えるなど、さてはお前、まぞひすとだな」
「ち」美籠は激しく否定した。「違います」
「じゃあ今からMになるがいい」
とんでもないことを言われてしまった。
やっぱり。
この人、変。
「お前、名は」彼は少し顎を反らして訊いてきた。ガムを噛みながらのせいで凄く柄が悪く見える。
「・・・・・・美籠」
「俺は直毘。先輩と呼ぶがいい。その権利をお前には与えよう」
「はあ」
「夢は」
先輩はまっすぐ美籠を見つめてくる。その視線のあまりの強さに、美籠は眩暈を覚えたようになる。
「夢」
「そうだ。お前の夢は」
ややあって、美籠は首を振った。「ありません」
この医院はやけにそこに拘る。夢。そんなもの、持っていても持っていなくても同じだ。なるようにしかならない。夢が叶ったからといって、それが夢だったから現実になったとは限らないのである。
「だから」美籠は俯けていた顔を軽く上げ、上目遣いに言う。「だから、誰かの夢を叶える手伝いをしろと、言われました」
正直、何のことやらさっぱりだ。夢なんて一口に言っても、規模の大きなものからほんの些細なものまで種々多様であり、それは例えば、スポーツ選手になりたいのとバケツプリンが食べたいのとでは、全然、かかる労力も趣も異なるわけで。
ここで言われる夢とは、生涯を賭した願い、で正しいのだろうか。
彼の独特な刹那的である雰囲気が、そんなふうに思わせた。
入院しているからには彼も何かの病気を抱えているのだろう。鬼ごっこに興じる子供達だってきっとそうだ。
ふうむ、と直毘さんは顎に手を当て、首を深く捻った。手についていた絵具で肌が汚れても全く気にした様子はない。
「ならばまずは俺に付き合え」
偉そうだった。
「・・・・・・夢が、あるんですか」
「ああ」
彼はにやりと片頬を上げ、
「幽霊を探している」
待っていろと言われていたのに美籠が移動してしまったから、更地さんには物凄い負担と心配をかけてしまったらしい。泣きながら走ってきた更地さんに連行され、美籠は自室に通された。
落ち着いた空気の部屋だった。廊下や外観の子供っぽい装飾とはまた異なる、品のある感じ。薄いピンクの壁紙が美籠は気に入った。こんなところで、しかも一人部屋なんて、いいのだろうか。入院費は前の病院とさほど変わらないのに。むしろ安いくらいなのに。ベッドもふかふかで、これなら眠れそうな気がしてくる。
「いいお部屋でしょ。美籠ちゃんの好きにコーディネートしていいからね!」
嬉しそうに更地さんは言う。美籠はこくりと頷いた。
「お手洗いは廊下の突きあたりね。お昼は食堂か個室か選べるけど・・・・・・」
「部屋で、食べます」
更地さんはほんの僅か眉毛を下げて、でも無理は言わなかった。「わかった。みんなで食べたくなったらいつでも言ってね」
これには美籠は頷かなかった。だって美籠はちょっと食べただけで吐き気がしてもどしてしまう。みんなの前でそんなことできない。部屋には小さな洗面所が附いていて、安心した。
点滴を打たない。
今更ながらその事実に驚きが首をもたげる。
死にたきゃ死ね。とてもお医者さんの言葉とは思えないけれど、でも。それは冷たい言葉には聞こえなかった。頑張らなくていいと、優しく、言われた気がした。
死んでもいいなら、少し。
もう少しだけ、頑張ってみようかな。
「困ったことがあったらすぐにナースコールしてね、遠慮は絶対しちゃ駄目だからね! 直接センターに来てもいいし! ね?」まるで友達にそうするかのように、更地さんは美籠の手を握る。「力になるから」
美籠は薄く微笑んだ。
更地さんは飛ぶ鳥落とす勢いで仕事に戻っていった。ちょっと戸惑うくらい元気で、でもそこが彼女の魅力でもあり。人懐こい笑顔は小型犬みたいで、美籠は忍び笑う。
このまま寝てしまってもいいけれど、まだ太陽は天高いし、気分も悪くない。良いと言っても過言ではない。
外出は自由だと聞いた。敷地の外から出なければ、どこに行ってもいいと。自由すぎて不安になるほどだ。ここは。
美籠は窓を開けて外を見た。先程の中庭が見える。二階の部屋なので地面は少し遠い。不思議な気分だった。前の病院では自分で窓を開けたりできなかったから。まるで一人暮らしが始まったみたいな気分になる。
死にたきゃ死ね。
そういうことか、と思った。
飛び下りるのも、首を吊るのも、餓死するのも。
自由なんだ。
ここは、本当に。
眼下に現れた人影に美籠の目は吸い寄せられる。直毘さんだ。襟足の長い黒髪がひょこひょこ動いている。手足が長く、外人さんみたいな人だった。よくよく思い出してみると、瞳は薄い青で、顔立ちも整っていた。ハーフかもしれない。医院長さんの深海めいた色合いの目とはまた違う澄んだ蒼色は、快晴の空を写し取ったようだった。無造作に伸びた前髪で隠れてしまうのが勿体ないと思った。
刃の欠けた鋸はもう持っておらず、彼は少しぎこちない動きでへこへこ歩いている。その先に、白い毛玉がすいと移動しているのが見えた。
猫、だろうか。耳を澄ますと微かに鳴き声がする。
彼はしゃがみ込み、話しかけた。無論、猫に、である。「おお、みけこさんではないか。元気そうで何よりだ。狩りの調子はどうだ」そうかそうか、ともっともらしく頷き、「上々か。良いことだ」
真面目な口調。美籠は笑ってしまう。猫に真剣に話しかける青年の図。
その笑い声を聞きつけたのか、はたまた視線を感じ取ったのか。
直毘さんが首をもたげ、美籠の姿を見咎めた。美籠は慌てて部屋に引っ込んだが、時すでに遅し。
「おい!」
ひっ。
「新入り!」
美籠はそのまま部屋の扉まで後ずさった。息を潜めてじっと様子を窺う。新入り、と叫んだきり音沙汰はない。諦めたのか。怒らせてしまっただろうか。無視というか、あからさまに避けてしまった。
美籠は履き違えていた。
彼はどうやら、その程度で諦める器ではなかったらしい。
窓枠から腕が伸びて、がっと部屋に入り込んできた。次いで現れる頭、肩、胴。
「ぎゃーっ!」美籠は全力で悲鳴を上げた。
ずるずると滑るように入ってきた直毘さんは、なんとちゃんと靴を脱いでいた。庭に置いてきたのか。思いのほか、常識人である。
服をぱんぱん手の平で叩き、「ふん、俺を無視するとはいい度胸だ。だがこの天性のロッククライマーにかかれば二階程度の高さなど幼児のつくる砂山に等しい」
「ちゃんと廊下から入ってきてください!」応じたかどうかは疑問だが。
壁を登ってくるなんて。無茶苦茶だ。怪我をしたらどうするのか。
というかこんな人が本当に何かの病気なのだろうか。
物凄く健康そうだ。
直毘さんは噛んでいたガムをぷーっと膨らまし、弾けさせ、また噛み始める。
何しにきたんだろう、この人。
幽霊探し。待ち合わせ時刻は深夜零時。十一時の看護師の巡回が終わった後。美籠は嫌だと言ったのに、部屋まで迎えにくるとまで言われた。
まだ正午も過ぎていないのに。
ふむ、と直毘さんは腕組みして、「食べるか」パーカーのお腹ポケットから銀紙を取り出した。
「いりません」
「遠慮するな」
「してないです」
「・・・・・・そうか」気落ちする直毘さん。
申し訳なく思った美籠は、貰うだけならと、「あ、あの、やっぱり、ください」
「ほう」直毘さんはどやった。
渡された包装紙の中身は空だった。
肩を震わせる美籠を指さして直毘さんは大笑いしている。
何がしたいのか。
さっぱり、わからない。
「・・・・・・あの、直毘さん」美籠は床をのた打ち回る彼を呼んだ。訊ねたいことがあったのだ。
直毘さんは跳ね起きて、「先輩と呼べと言っただろう」
「な、何で先輩ですか」
「お前が後輩だからだ」
純粋な力関係のことなのか。なら素直に従ったほうがいいのだろうか。いやいや、と美籠は首を振る。入院患者に優劣なんてあったらたまらない。
「ついでにもう一つ言うと」直毘さんは演説でもするような大声で、「お前が弱そうだからだ!」
そっちが本命だった。
相手にするのも馬鹿らしくて、美籠は息を一つ吐くと改めて、直毘先輩、と呼びかけた。「幽霊を見つけたいって、言ってましたけど」
先輩が直立不動になる。
「理由とか、訊いてもいいですか」
先輩はしばらく立ち尽くした後、黙って美籠の横をすり抜けた。ふわっと懐かしい香りが鼻孔をくすぐる。すぐに思い至った。油絵の匂い。肌の輪郭が滲んでいくような。記憶の暗い部分をつつくはずのその匂いは、しかし嫌とは感じなかった。なぜだろう。ついさっき、中庭で嗅いだ絵具のにおいは気分を悪くしたのに。先輩から漂うこの香りは。
安心する。
廊下へ続く扉の取っ手を掴み、先輩は肩越しに振り返って言う。「お前、海は好きか」
「ふぇ・・・・・・?」
「そうか、好きか」先輩は自問自答を終えて、「良い物を見せてやる。来い」
白いパーカーが廊下へと消える。
結局、幽霊探しの目的ははぐらかされてしまった。
来い、と言いながら待たない。無理に連れて行こうともしない。最初の出会いもそうだった。後を追わなかったらどうしていたのだろう。無視されて壁を伝ってくるくらいだからそう簡単に諦めはしないと思うけれど。
どうしようか。
美籠は悩むふりをした。何だか少しわくわくしている自分がいる。体は怠くてしんどくて、横になって指一本動かしたくない気分だったけれど、気持ちは、軽い。羽が生えたみたい。
好きかもしれない。
この場所。空気。人。
夢か。そうか。そのせいかもしれない。美籠が失くしてしまった夢に、ここは満ち溢れている。だからどきどきするのだ。きっと。
美籠は静かに廊下に出た。フードの揺れる背中はもう随分、遠くにいた。小走りで追いかける。色ガラスの廊下の窓から差し込む陽光は、薄く色づいた影を床に落としていて、その上を歩くのは酷く神秘的だった。
先輩の部屋は廊下の一番奥にあった。お手洗いの隣。
美籠は部屋の入り口で立ち往生した。
その部屋は海に囲まれていた。
四方の壁に描かれた海原。
とても平面とは思えない。手を伸ばせば突き抜けてしまいそうだ。遠い水平線。吸い込まれる。
綺麗だ。
すごい。
ただただ、感服の一言。
言葉も出ない美籠を置いて、先輩はさっさと部屋に入る。廊下で竦んでいた美籠は恐る恐る室内に足を踏み入れた。床を埋め尽くすキャンバスや画材、石膏、セロハン等、その他諸々の小道具や作品達。所々が陥没した床が、先輩らしいと思った。
「ほれ」丸いクッションが飛んでくる。「それで適当に座れ。椅子は邪魔だから置かないんだ」
先輩の部屋は油絵具の匂いでいっぱいだった。先輩の体や服に染みついているのと同じ香り。
何に使うのかわからない石ころをちょこっと手で除けて、美籠はクッションを置き、腰を下ろした。先輩は絵具だらけの引き出しを開けたり閉めたり、何かを探している。てっきり壁の絵を見せたいのだと思ったのに。海が好きか、と直前に質問されていたから。
そういえば、美籠はまだ答えていない。
「好きですよ」
直毘先輩の手が止まった。
「海。私も」
先輩は何も言わなかった。代わりに、分厚いアルバムを美籠の足の前に開いた。
白い砂浜。滑空する鴎。喧嘩する蟹。笑う人々。
そして、真っ青な海原。
「母の遺した物だ」先輩は美籠の隣に胡坐をかき、ページを捲りながら目を細める。「母は毎日、これらの写真を見て過ごしていたと聞く」
そう言う先輩の横顔はとても寂しげで。儚げで。
今、先輩が語るその人は、もう逢えない人なのだと、悟って。
「母もこの医院にいた」先輩は泡のような声色で続ける。「ここで、生きた」
先輩はほんの数秒黙り込み、文字を一つ一つ丁寧に模写するように言う。「もし、幽霊というものが存在するのなら」
「え・・・・・・?」
「訊ねたいことがあるんだ」
美籠にアルバムを任せて先輩はまた立ち上がる。「母の綴った詩もある。読むか」
美籠は反射的に頷いた。そうしてから、考えた。訊ねたいこと。幽霊を探して。さっきの美籠の問いの答え。人の話を聞いていないわけじゃないんだ。そうか。すごい、と思った。何でもないことなのに。訊ねて、答えてくれる、それだけのことが、すごいと。嬉しいと。
そうだ。
美籠はずっと、人との交流を避けていたから。
こんなに新鮮な喜びを感じられる。
綺麗な字だろ。古びたノートを掲げ、そう自慢げに言う先輩の、無邪気な笑顔が、美籠の心を揺さぶった。
* * *
ぼんやりと、窓の向こうに輝く満月を眺める。
淡く発光する縁をなぞることができたら、青白い光はきっと美籠の指をそっと包み込み、あたたかさで満たしてくれるだろう。
ふう、と息を吐く。視界が回りそうになるのを必死に堪える。
昼も、夜も、食事はほとんど喉を通らなかった。
先輩から解放されて宛がわれた部屋に戻ると、しばらくして更地さんが食事のトレーを運んできた。むっとする湯気。何の味もしなかった。それなのに、においだけは不快で。
死んじゃうのかな。
水だけは何とか摂っているけれど。
このまま、死ぬのかな。
それもいいかもな、と思った。ここで死ぬならそれもいいかもしれない。このあたたかい場所で。あたたかい人達に囲まれて。まだ知り合って一日も経っていないから、美籠のために泣いてくれる人はいないかもしれないけど。それでも更地さんは泣いてくれそうだ。とても優しいから。愛想のない美籠の死にもきっと涙してくれる。
直毘先輩なんかは、美籠のことなんかすぐ忘れてしまうのだろう。何事にも興味津々、でも何事にも無頓着。飽きたらさっぱり自分の領域から斬り捨ててしまう。そんな感じ。
ベッドに横たわり、静かに時計が脈動する音に耳を傾けていた美籠は、遠慮容赦のないノックの音に上体を起こした。慌てて廊下に顔を出すと、闇夜に浮かぶ薄い蒼の目が不機嫌そうに細められていた。
「遅いぞ。ノックは三回し終わる前に出るものだ」
初耳だ。
「知らないのか。法律にもギネスブックにも載っている」
明らかに嘘なのに、あまりにも自信たっぷり言うものだから、美籠は何も言えなかった。看護師の巡回は終わったとはいえ、ナースセンターはすぐそこなのに、この人は物音を立てないようにとかそういう気遣いができないのだろうか。鋸の扱いからも察せられることだが、直毘先輩は物の使い方が雑すぎる。
先輩は右手に虫取り網を握っていた。
「・・・・・・それで何するんですか」
先輩は瞬きを繰り返し、「捕まえるに決まっているだろう」
「幽霊をですか」
「わかりきったことを訊くんだな。限りある脳の使用領域を無駄遣いするな」
もう何も口を挟むまいと固く心に誓う美籠だった。
「行くぞ」
短く言って、また先輩はさっさと歩きだす。背が高くて足が長いのでついていくのが大変だ。歩幅が違いすぎる。それに、早足できる余力は今の美籠にない。小走りで先輩の斜め後ろについた美籠が、すぐに引き離されてしまってやきもきしていると、先輩が振り返った。そして立ち止まった。美籠がその隣に追いついたところで歩みを再開する。
今度はゆっくりだった。
美籠は肩の力を抜いた。
「お前は霊の類を見たことがあるか」
変わらない調子で先輩が訊いてくる。無人の廊下に二人分の足音と吐息が反響する。
「ないです」
「では怪奇現象に遭ったことは」
「ないです」
「・・・・・・使えん奴だな」先輩はやれやれと肩を竦める。幽霊に遭ったり見たりなんて、普通ないと思う。
美籠はむすっとして、「じゃあ先輩はあるんですか」
「ない」
堂々たる面持ちだった。
「お前は馬鹿か。その頭は飾りか。存在証明を目的としているのに、行き遭ったことがあるわけないだろう。愚鈍め」
しかもなじられた。
そこまで言わなくてもいいと思った。
「・・・・・・お荷物だっていうなら、帰ります」
「お前はカバか!」大きな声で先輩は美籠を抑えつける。「荷物は運ばれる物だぞ、お前のように立って歩いて喋るか!」
そういう意味じゃないです。
あなたがカバなんじゃないですか。
美籠の先輩を見る目はもう胡乱だ。
階段の踊り場に差しかかったところで、かつん、と物音がした。美籠は小動物のごとく肩をびくつかせたが、何のことはない、ふらふらと階段を降りてこちらに向かってくる懐中電灯の明かりから察するに、見回りの看護師の誰かだろう。巡回時間は過ぎているのに、何かあったんだろうか。
美籠はほっと胸を撫で下ろして、すぐさま青褪めた。
美籠達は消灯時間を過ぎた深夜の院内を徘徊しているわけで。
むしろこの場合。
「せ、先輩」
「うむ」
固唾を飲む美籠に、先輩はしばし黙考し、
「あの光はあれだな、人魂というやつだな」
絶対。
違う。
「逃げましょう、先輩・・・・・・っ」
「このチャンスを逃してどうする。とっつかまえてだな」
「捕まるのは私達です・・・・・・っ」
パーカーの裾を引っ張ってもびくともしない先輩は、もう放っておくべきかもしれない。見つかったら怒られるだろう。美籠は先輩に付き合っているだけなのに、とばっちりはごめんだ。
幽霊なんているかもわからないもの、見つかるとは思わない。だったらもう、先輩の気のすむまで探してもらうほかないのだ。ずっとこんな調子なんて、そんなのは嫌だ。眠れないとはいえ、動きまわるのも疲れるのだ。
正直に言って、幽霊探索にあまり乗り気でない美籠だった。
だってこの人。
変だもん。
そして先輩は、やっぱり美籠の手に負える人ではなかった。
「斬り捨てごめん!」
美籠の制止を意にも介さず、先輩は壁を照らす懐中電灯の光に向かって虫網を叩きつけた。虫網は志半ばで折れた。
「きゃー!」
可愛らしい悲鳴があがった。巡回の看護師の正体は更地さんだった。どうやら本気で驚いているようだ。遭難中に熊に出くわしてしまったような顔。
続いて先輩は髪を振り乱し更地さんに躍りかかり、
「ちょあーっ!」
「ぐはっ」
鳩尾にカウンターを食らって撃退された。
「ぐ・・・・・・作戦失敗。プランBに移行する・・・・・・」
「まだやるんですか・・・・・・」物憂い溜め息。
這う這うの体で何とか逃げおおせた二人は、ラウンジのソファの陰に身を潜め、体勢を整えていた。更地さんの攻撃はかなり強烈に決まったようだが、それでも諦める気配がない先輩である。
先輩はパーカーのポケットからぐるぐる巻きにされた太い縄を取り出した。そのお腹ポケットは四次元に繋がっていたりするのでしょうか。
腹部の鈍痛による冷や汗を掻きながらも、「ふふん、次の作戦の要はこいつだ」
「幽霊は縛れないと思いますよ」
「この間抜けめが! 縄とは縛るためにあるのではない、足を引っ掛けるためにあるのだ!」
「幽霊は引っ掛からないと思いますよ!」
美籠の忠告なんてどこ吹く風である。先輩はさっそく罠の設置場所を検討し始めた。ふざけているのならまだ愛想も尽きそうなものだが、これで先輩は至極、真面目にやっているつもりらしいので、美籠としてもどう対応したらいいのやら。
風船ガムを膨らまし萎ませること数回。先輩はおもむろに玄関扉のほうへ向かった。美籠も仕方なく立ち上がろうとして、ぐらりと世界が振れた。
「あ、れ・・・・・・」足を縺れさせ、床に転倒する。ついた手がかくんと折れ、肘を打つ。
「どうした」遠くから先輩の声がした。暗いからよく見えないのか、しきりに訊いてくる。「どうしたんだ。大丈夫なのか」
美籠は頭を振った。眩暈は収まっていた。まだ少し、平衡感覚には違和感があるけれど。
「平気です」言って、足を踏みしめる。今度はちゃんと立てた。
大扉の脇に伸びる細長い通路の前に先輩はいた。何やら仕込んでいたようだ。縄が通路の入り口にぴんと張られている。
高い位置から降ってくる声は少し固かった。「本当に平気なのか」
「へっちゃらです」
張りつめた沈黙が下りた。美籠はぐっと息を詰める。
「嘘を吐いているな」
美籠は目を瞑った。
帰れ、と言われるだろうか。調子が悪いこと、ばれてしまった。どうしてだろう。さっきまではあんなに部屋に戻りたくてたまらなかったのに。彼にその一言を言われるのが、恐い。
「――お前」
す、と空気が研ぎ澄まされ、
「お前、悪霊に足を掴まれたんだろう」
がつんと奥歯を殴られたような衝撃だった。
先輩はしゃがみ込み、短パンから伸びる美籠の足を丹念に眺めて、「どこだ、どこを掴まれた、なぜ黙っている、手形はどこだ手形は、膝の裏か、足首か・・・・・・しかしお前、貧相だなあ」
美籠は先輩の顎をサンダルの踵で蹴り上げた。
「いった!」
「もう知りません」
触ってきたりはしなかったからまだいいものを。人の足をじろじろ眺めて失礼な人だ。踵を返した美籠の前に先輩は立ち塞がり、
「待て待て待て、気が短いのは良くないぞ。幽霊というものは気長に待たねば姿を現さんものだ」
「待つぐらい一人でできるでしょ」
「自慢じゃないが、俺は一人じゃ買い物も留守番もできない」
寂しがり屋なんですか?
「とにかく、しばし落ち着け。あとは獲物がかかるのを待つのみだ」
「私は、待ちくたびれたわけじゃありません。先輩は勘違いしてます」
「何っ」先輩は頭を抱えた。「罠を仕掛ける場所が間違っていたというのかっ」
「そうじゃないですー!」
カオスだった。
大体ですね、と美籠は高い位置にある先輩の頭に人差し指を突きつけ、「あんな原始的な罠には誰も引っ掛かりませんよ!」
「そんなことはない!」先輩も大きな声で反論する。「今年に入って十三度成功した!」
「え・・・・・・?」美籠は目を白黒させた。「だって先輩、幽霊に遭ったことはないって」
先輩は顎に手を当て、「残念ながら、標的がかかったことはないんだが」
「じゃ、じゃあ、誰が」
「うむ。大抵は」
先輩は罠を仕掛けた通路に目を遣り、
「㝵乃が、引っ掛かる」
㝵乃さん、というのは、看護師で、更地さんの先輩で、美籠はまだ会ったことがないけれど。
一人で暴走族を壊滅させたという伝説が語り継がれる、
つまり。
元、不良の。
がたん、と物音がして、甲高い悲鳴があがった。先輩が目を輝かせ、美籠は色を失くした。
転がってきた懐中電灯を先輩が拾い、罠を仕掛けた通路の入り口に向けた。
鉄パイプの尖った先端。
床に伏したままマネキンのように動かない肢体。
赤く塗られた爪。
「なぁぁおぉぉみぃぃぃいいいぃぃいぃ・・・・・・」
地獄の底から響く押し殺した声が。
「こんのくそがきゃあああああ!」
㝵乃さんはがばっと起き上がり、端で固定されぴんと張った縄を片手で毟り取り、鉄パイプを床に打ち鳴らした。
「やばいぞ」先輩が全然、動揺していない調子で言う。「これはやばい」
美籠は狼狽した。逃げなきゃ。でもどこに。冷静な思考が鉄パイプの鋭利な光に焼き切られる。右往左往する美籠の腕を誰かが引っ張った。ぎょっとした。先輩だ。それは初めて二人が触れあった瞬間だった。強い力だった。
痛い。
骨が軋む。
「先輩、痛い・・・・・・っ」
先輩ははっとして美籠から手を離した。まるで怯えるように。それまで自信満々で少しの綻びも見せなかった先輩の、表情が俄かに歪んで。
その隙を突かれた。
㝵乃さんは短い金色の巻き毛を振り乱し、ナース帽を踏みつけて一息に先輩と距離を詰めた。「うおおっ」先輩は足を滑らせるようにしゃがんでかわす。美籠は鼻の先を掠めた鉄パイプに身動きが取れない。
「お、落ち着け、㝵乃、暴力は良くない、反対だ、断じて反対っ」
「うるっせえだまれええええ!」
振り下ろされた鉄パイプが先輩の足の間を打った。先輩の必死の命乞いも馬の耳に念仏だ。㝵乃さん、完全にキレている。
そもそも、看護師の巡回に鉄パイプが必要なのかどうか。
美籠には皆目、見当もつかない。
先輩が脱げたサンダルを㝵乃さんに投げつけた。㝵乃さんはそれを鉄パイプを振りかぶって落とした。その僅かな間に立ち上がり、先輩は反対の通路に向かって走りだす。
「あ、ちょ、せんぱ」
「来い!」
今度は美籠の手を取ってはくれなかった。
あの傷ついたような表情。
どうして。
美籠は何を、何をしてしまったんだろう。
とにかく今は、逃げるしかない。
「死に晒せええええええ!」
追いかけてくる恐ろしい声に竦む膝を叱咤しながら、美籠と先輩は全力で夜の廊下を駆けた。
がむしゃらに走っていると思いきや、先輩にはちゃんと考えがあったようで。憤激する叫び声が迫りくる中、資料室と書かれたプレートの下がった扉の横の窓を開けると、先輩は外にひらりと身を躍らせた。一階とはいえ美籠は狼狽した。同じように窓枠を乗り越えようとして、しかし体が持ち上がらない。力が入らない。そのうちに廊下の角に消えていた絶叫がどんどん近くなる。四苦八苦する美籠の脇の下に躊躇いがちに手が差し込まれ、ふわりと足が宙を浮いたかと思うと、すぐに地面に下ろされた。先輩はよろける美籠からすぐに身を離し、素早く、けれど静かに窓を閉めた。
窓の下の壁に貼りついて息を潜める。
やがて雄叫びが通りすぎていった。
美籠はほっと胸を撫で下ろし、詰めていた呼吸を再開する。
美籠の息が整うのを待ち、先輩は茂みを掻き分けて庭へ出た。そのまま院内に戻るのだと思っていた美籠は戸惑う。このままどこかへ行くつもりなのだろうか。
と、先輩は蹲ったままの美籠を振り返り、「ここからなら目立たずに墓地へ行けるんだ」
「墓地」
美籠は先輩の言葉を反芻する。
お墓。
「ま、まだ続けるんですか」
「当たり前だ。俺の悲願は達成されていないわけだからな。とんだ邪魔が入ったものだ」あなたが自ら招いたのでは。
それにな、と先輩は人差し指を立て「墓なくして肝試しは語れん」
目的が。
変わっている。
「やです」美籠はいやいやをするように首を振った。合わせた膝をぎゅっと抱え、小さくなる。「もう動きたくないです」
こんなに走るのは久しぶりだった。病気になってから歩くことも満足にしていなかったために、もう足の筋肉が痙攣している。鼓動が速い。呼吸は落ち着いても神経の昂りは一向に収まる気配がない。お腹の辺りがぐるぐるする。何だろう。虫が蠢いているかのようだ。気持ち悪い。くらくらする。もうやだ。帰りたい。横になりたい。休みたい。
先輩は乱れた髪を掻いて、しばし思案していた。が、結局、黙って美籠の隣に腰を下ろした。
春のまだ肌寒い夜風が、美籠の熱を奪っていく。
目を閉じてどれだけ経っただろう。だいぶ、荒んだ気分が癒されてきた頃、瞼を開くと、先輩がこっちに手を伸ばしているところだった。彼はぎょっとして腕を引っ込めた。何だか気まずそうに唇を噛み、立ち上がる。
「休憩は終了だ」
ただ一言。そうして一人で歩きだす。
来い、と、これまでのように美籠を促すことはしなかった。
美籠は腿を軽く撫でてから、四肢にしっかりと力を込めた。
もうちょっとだけ。
もうちょっとだけ、頑張って。
自分に向かって心の中で唱える。
先輩は地面に敷きつめられた煉瓦を一つ一つ数えるようにゆったりとした歩みだった。美籠が後ろに並んでも、その歩調は変わらなかった。
小さなアーチをくぐり、細道を行く。角を曲がると、わっと視界が広がった。青白い月明かりが照らす広場。遊ぶように散りばめられた墓石。湿った土のにおい。
先輩は入り口から先には踏み込もうとしなかった。美籠はパーカーの陰からそっと墓地を見やる。
「ここには」
風が吹いた。強く、弱く、誘うように、温い風が生者の髪を弄ぶ。
「この地面の下には、遺品が、埋められている」
「遺、品」
屍ではないと。そういうことか。
「遺体は家族の元に引き取られる。身寄りのない者はまた違う墓地へ埋葬される。ここに残るのは、生きた証だけ」
「先輩の」美籠はそっと歩み出て、先輩よりも一歩、先へ進んだ。「先輩のお母さんも、ここにいるんですか」
「ああ」先輩は小さく頷く。
「じゃあ」
美籠は髪を押さえた。なだらかな傾斜のできた小高い丘がどこまでも伸びている光景は、物悲しく、また幻想的だった。
嘆くことはないのだろう。
自分の存在は、いつまでも、ここに刻まれる。
「私も、ここで、眠るんですね」
想いを。
永遠に。
月に守られながら、この場所で。
先輩は、ふんと鼻を鳴らし、「ここにも奴らは現れんようだな。もういい、今日は終いだ。帰るぞ」
「え」美籠は先輩の顎を見上げる。「いいんですか」
「諦めるわけじゃない。今日の捜索は切り上げるだけだ」
次回は七日後の半月に。先輩は美籠の小さな鼻に指を突きつけて言った。
恐る恐るラウンジに戻ると、当たり前のような静けさが停滞していて、さっきの騒ぎがまるで嘘のようだった。美籠は先輩の三歩後ろを歩きながら周囲を見渡す。㝵乃さんの怒声が耳にこびりついて離れない。漲る殺気は本物だった。鉄パイプの強襲を先輩が避けられていなかったら、大変なことになっていたんじゃないだろうか。
ふと、ソファに目を遣った。
腰が抜けそうになった。
誰かいる。首。そう、闇の中に白く発光する人の。
頭。
「あ、ああ、あ、せせせせんぱ」
「ん? 何だどうした、幽霊でも見たような顔して」
まさにその通りです。
美籠の震える指が示す先を先輩は目で追い、「おお。元気か」凄く気さくな挨拶をした。
「今日も歌を聴いていたのか」
先輩はひょこひょことソファに近づいていく。美籠は瞼を擦り目を凝らしてみた。女の子だ、と、思う。はっきりと言えなかったのは、顔面に何重にも包帯が巻かれていたからだ。目以外の肌を覆う染み一つない包帯。首にも、薄い洋服から覗く腕にも、スカートの裾から伸びる足にも。華奢な体格と長い髪から、女の子だろうと思ったのだ。
美籠はふうと息を吐いた。なんだ。ほかの入院患者さんか。先輩と顔見知りのようだし、質量もちゃんと感じる。中身が詰まっている感じがする。その存在はとても儚げで稀薄だけれど、幽霊呼ばわりしたら失礼だ。
先輩がしきりに話しかけるも、女の子はぼんやりとした瞳で先輩を見つめるだけ。
どうしてこんな時間にこんなところにいるのだろう。それにさっき先輩は言った。今日も歌を聴いていたのか。歌。そんなもの聴こえない。耳に痛い静寂がラウンジを支配している。
「こいつは寧音乃。歌手志望なんだ。な? 昼間は部屋に引き籠ってるが、夜になるとたまにここに顔を出す。何回か探索中に会ったことがある」
先輩が言った。
美籠は小さくお辞儀する。「よ、よろしくね」
寧音乃ちゃんは無言で美籠に目線をずらした。歳の頃は十二、三といったところか。小柄で今にも消えていなくなってしまいそうだ。人形めいた無機質な瞳が美籠を捉えて離さない。
やがて、寧音乃ちゃんはかくりと頷いた。
「静かになると歌が聴こえるんだそうだ」先輩は無駄にふんぞり返って言う。「俺にはさっぱり聴こえないんだが、一体、誰が歌ってるんだろうな」
俺も一度は耳にしてみたいものだ。先輩はもっともらしく腕を組む。
幽霊幽霊と言うわりに。美籠は嘆息した。先輩は怪奇現象に対する自覚が薄い。
というか鈍い。
「む」先輩は美籠を睨み、「今、何か失礼なことを考えなかったか」
「いーえ」美籠はつんとそっぽを向く。
まあいい、と先輩は仕切り直し、「寧音乃よ、幽霊を見かけたら知らせるように」
寧音乃ちゃんは文句も言わずにまた頷いた。
先輩はサンダルを引きずって体を反転させる。「では俺達は部屋に帰るとしよう」
「あ、は、はい」
寧音乃ちゃんを一人にするのに抵抗がないわけではなかったが、余計な世話を焼くのも悪い気がして、結局、美籠は口を挟むことはしなかった。寧音乃ちゃんを見て逡巡したあと、大人しく先輩についていく。
先輩は階段の前で立ち止まっていた。
美籠は不思議に思って声をかける。「先輩」
返事はない。
「先輩」
無言。
「先輩ってば」
何だー、と。
後ろから声が聞こえた。
見れば、先輩は窓際に置かれた観葉植物の葉を、何に使うのかは知らないが五枚ほど拝借しているところで。
じゃあ。
今、美籠の前にいるのは、一体。
人影が覆いかぶさってきた。目前に迫る顔。皮膚が。
皮膚が剥がれている。
色づいた生々しい真皮が剥きだしだ。
「いやーっ」美籠はたまらず人影を突き飛ばした。何だ何だと先輩が駆け寄ってくる。
「せんぱー、せんぱー!」混乱する美籠。
「なんだ」先輩はあからさまに肩を落とし、「ただの人体模型ではないか」
ただのって何ですか。
人体模型が何でこんなところに立っているんですか。
「も、もう嫌です!」美籠は階段を駆け上った。心臓が破裂してしまう。喉から出てきそうだ。帰りたい。一刻も早く。部屋に。自分の部屋に。
二階の踊り場に飛び出した時だった。
ひやりと額に何かが貼りついた。
「はわわわわ」美籠は踏鞴を踏み、階段を踏み外しそうになった。背中を誰かに支えられた。
「おい、危な――」
「はわー!」恐慌状態の美籠は手足を振り回す。
「い、痛い、危ない、落ちる」美籠を支えてくれたのは先輩だった。「落ち着け、ただの蒟蒻だ」
だから何で蒟蒻がこんなところに。
ふふふふふ、と。
重く暗い、地を震わせる不気味な笑い声が階段の暗がりから聞こえた。先輩が身を固くする。
この声は。
「や、やだ、何」
「落ち着け」
先輩は繰り返し、おそらく、と付け加え、
「㝵乃だ」
それは。
落ち着けない。
「みぃつけたぞぁ糞餓鬼・・・・・・!」
がらん、と廊下に鉄パイプの叩きつけられる音が響いた。人体模型も蒟蒻も、㝵乃さんが張った罠だったのだ。仕返しというわけか。だけど一つだけ言いたい。
私は関係ないです。
「なおみぃぃぃぁぁああああああ」
「やばい」先輩は後ずさる。「これはまぢやばい」
「せ、せせせせんぱ」
「攻撃力が通常時の十五倍に膨れ上がっている、まさに怒り心頭だ、こんな数値見たことがない」
「何が見えてるんですか!」
きっと㝵乃さんの頭の上には万を超える桁が展開されているに違いない。
「どうやらイベントバトルのようだ、逃走のアイコンが選択不能だ・・・・・・」
「そうですか、私は逃げます!」
先輩を生贄に捧げるのもやぶさかではない。美籠はただ付き合わされただけであり、㝵乃さんを怒らせたのは先輩であり、先輩がどんな目に合わされようと心を痛ませるほどの思い入れも付き合いもまだなく。
美籠はさっと踵を返し、できる限りの速さで走りだした。
ところが。
「待て! 俺を置いていくつもりかっ」
なぜか先輩は追いかけてきて。
「戦うんじゃなかったんですか!」
「戦うアイコンも選択不能だ!」
「状態異常はアイテムで凌いでくださいーっ」
先輩がこちらに来るということは、もれなく㝵乃さんもやって来るわけで。
「きゃーっ、先輩、こっち来ないでー!」
「待てと言っとろうが、一人で助かろうなんて許さんぞ、道連れだ!」
「なあああああおおおおおおおみいいいいいいい」
「いーやー!」
逃げる美籠を追いかける先輩を追跡する㝵乃さんという、何とも傍迷惑この上ない図ができあがってしまったのだった。
いつの間にか自室の扉を通りすぎて、廊下の角を曲がり、階段を下り、また廊下を走りと、壮大な鬼ごっこが始まってしまって、先輩も㝵乃さんも振り切れなくて。気づけば美籠は笑いだしていた。こんなにおかしいのは久しぶりだった。馬鹿みたい。何だかもう、難しいことみんなみんな。おかしくてたまらない。悩んでいたのがとてもつまらないことに思えて。そして。
そして。
がく、と膝から力が抜けて、視界がぐにゃりと歪んで、頭が真っ白になって。
肩に衝撃が走ったのを契機に、美籠の体は動かなくなった。
先輩の声が遠く聞こえる。何だろう。何て言ってるんだろう。不明瞭だけれど、切羽詰まっているのは声色から何となくわかる。何ですか。何て言ってるんですか先輩。聞こえません。何だか、眠たくて。音も、視界も、塞がれて。ぐう、と腹部に違和感。
美籠は朝からほとんど何も口にしていなくて。
お腹すいたなぁ、なんて、随分、間の抜けたことを思った。
柔らかな微風が頬を撫でる。美籠は目を覚ました。天井。見慣れない。当たり前だった。この部屋でこの寝具で眠るのはこれが初めてだ。よそよそしい感じがして当然だ。
半分だけ眼を開いたまま、薄ぼんやりと考える。
何だかすごく長い夜だった気がする。密度の濃い、黒蜜みたいな夜。気怠くて甘ったるくて、けれど刺激的な。
そうだ。
幽霊。昨夜の記憶が甦る。更地さん。㝵乃さん。寧音乃ちゃん。
そして。
先輩。
寝息が聞こえた。
首を傾けるとぼさぼさの頭が見えた。ベッド脇に寄りかかって、危なっかしい姿勢で眠っている。先輩。直毘先輩。どうして、美籠の部屋に。
ああ。美籠は額に手を遣った。倒れたんだ、自分は。ろくに食事も摂らず急な運動をして。馬鹿だ。部屋の隅っこで丸くなっていればいいのに。でも。
楽しかった。
美籠はくすりと笑ってしまう。
感じたことのない興奮を、昨夜、経験したのだ。
美籠はすんと鼻を鳴らした。匂い。いい匂いがする。先輩の髪から漂う、油絵具の自然な匂いと混ざって。とてもおいしそうな。
美籠は上体を起こした。
テーブルの上に置いてあった二つの盆を目にした時、また腹部を違和感が襲った。胃が捩れるような、内臓を掻き乱されるような、不快で、でもとても馴染み深い。
美籠はやっと気づいた。
お腹、減ってるんだ。
ごくりと喉が鳴る。唾液が溢れてくる。美籠は皿に載ったパンに手を伸ばした。触れた。その感触を楽しむ暇もなく口に詰め込んだ。咀嚼するのも煩わしい。欲しい。早く。もっと。もっともっと。いっぱい。
味が。
味が、する。
それは、昨晩、たくさん走ったせいかもしれないし、たくさん驚いたせいかもしれないし。
安心しているからかも、しれない。
絵具のにおい。
先輩の髪と美籠の心に染みついた、その香り。
フォークを使うのももどかしくて、スクランブルエッグを手掴みで口に運んだ。何度も噎せた。それでも食べるのをやめなかった。そのうち気持ち悪くなってきて、咳を我慢できなくなった。
湯気の立つお茶の入ったマグカップが差し出された。
いつの間にか、すぐ近くに油絵の匂いがあって。
咳きこむ美籠の背中にぎりぎり触れない距離に添えられる手が。
美籠は顔を真っ赤にしてパンを皿に戻すと、カップを受け取った。ゆっくりと、吐き気を押し戻すようにお茶を飲む。胸のむかつきは収まらなかったけれど、大丈夫、我慢できないほどではない。そのうち収まるだろう。
やれやれ、と先輩は肩を竦め、「意地汚いな、お前は」
「う・・・・・・」
「だがまあ気にするな」先輩は笑い、「別に誰も見ていないんだからな」
美籠は唇を尖らせた。「・・・・・・先輩がいます」
「そんなもんあれだ、屍だとでも思え」
美籠は言葉に詰まった。
なぜだかそれは、冗談に聞こえなかった。
先輩は無茶ばっかりで、美籠を振り回して、こんなに元気そうに笑っていて。なのに。
酷く遠く感じる。
「先輩」
「ん?」
「先輩は、死んじゃったりしませんよね」
瞼の端が僅かに引き攣ったのを、見逃す美籠ではなかった。
先輩は少し顔を伏せ、「俺はお前が死んだかと思った」
「あ・・・・・・」美籠もまた俯いてしまう。「すみません」
「謝るな。謝るのは俺のほうだ。悪かった。付き合わせて」先輩はたどたどしく言う。「俺は気遣いに欠けるから。自覚はあるんだが。どうも、わからない、勝手が。他人というのは。自分とは違う生き物というのは、どうにも」
美籠は笑ってしまった。
「何がおかしい」
「いえ、ふふ、自覚、あったんだなって」
「お前は俺を馬鹿にしているのか」
「散々、人のこと馬鹿にしたのは誰ですか」
これには先輩も黙ってしまう。おかしい。初対面にすら傲岸な態度を崩さない先輩が、美籠に対してこんなに申し訳なさそうにしているなんて。
本当に長い夜だったように思えた。それこそ、三百六十五日を数時間に凝縮したような。
少しだけわかった気がする。
すごく不器用なのだ、先輩は。筋金入りの鈍感さ。でも繊細。細かい葉脈を葉に描きたしていくかのように微細な感性。
まっすぐな人だ。おかしい。笑ってしまうくらい。
「い、いいからもっと食え」
先輩は美籠の食べかけのパンを突きつけてくる。美籠は首を振った。
「もういいです」
「まだほとんど残ってるじゃないか」
そうなのだった。がっついたつもりでも、小さくしか開けられない口には大した量は入っていなくて。それでもこんなに自分の口で食べたのは久しぶりのことだ。格段の進歩だ。
「おいしかったです」
それに。美籠は言った。
「楽しかったです」
先輩は美籠の残したパンを無言で頬張り、「・・・・・・次は」
次は、もっとのんびりな。




