第一話
校舎裏の森でピンクの鯨が跳ねた。
巨大な鯨が、虹色の飛沫を飛ばし、樹上の遥か上まで。
海も湖も、池すらない森だ。
さすがは特級魔法師に名を連ねる男だ、と生徒は羨望の眼差しを向ける。
けれど、当の魔法師が呟いた。
「誰がこんなとんでもない魔法陣をひいた?」
これは当代きっての魔法使いに、魔法名家に生まれながら魔力を持たず──ただし、魔法理論だけは最強の令嬢がいつのまにかすっかり外堀を埋められる物語。
◇ ◇ ◇
午前の講義を終えた生徒たちが、続々と食堂を訪れる。
学食では基本的に全員同じメニューが供されるが、味が悪くないため学生からの不満は少ない。
今日のメインディッシュは魚のグリルだ。
シフリーナは丁寧に魚の骨を取り除くと、付け合わせの野菜と共にパンに挟んでかぶりつく。
「いい加減見慣れたけれど、パンに挟む必要ある?」
眉間に皺を寄せたロミーナは、もぐもぐと咀嚼するシフリーナに呆れたように、けれどどこか面白がる眼差しでそう言うと、自身は小さく千切ったパンを口に運んだ。
ふたりが在籍しているのは、魔法師を養成する全寮制の学校だ。
元は同級生だったロミーナは順当に進級し、最終学年の三年生。かたやシフリーナは三度目の一年生。二度の落第を経てなお、シフリーナと変わらずに接してくれる彼女は貴重な存在だ。
ストロベリーブロンドのふわふわした髪を耳にかけたロミーナは、質問の答えも待たずに「それにしても」と口を開いた。
「ウーシェダ様……素敵だったなぁ……」
「ウーシェダ様? 誰?」
「もぉ! 今日の特別授業の講師よ! 魔法塔の! 特級魔法師! 養成学校を出てすぐ上級認定された唯一の魔法師って。有名じゃない」
力説するロミーナを前に、シフリーナは小首を傾げた。
魔法は好きだけれど、それを扱う個々の魔法師には特段興味もない。
魔法塔とは小国家ヴァンリンドゥの中央組織にして、世界各国の魔法師が登録する魔法の中央機関だ。
各国の魔法師の育成にも惜しみなく助力しており、年に二回、それぞれ十日ほど、各国の魔法師養成学校に講師として上級魔法師を派遣しており、それはこの国、イルクラン王国も例外ではない。
現場の、しかも上級魔法師から直に教わることのできる特別期間を、生徒たちは毎年心待ちにしている。
「特級? 今年は上級魔法師じゃないの?」
「なんか代理みたい。来るはずだった魔法師の都合がつかなくなったんだって。でもそのお陰でウーシェダ様が来てくれるなんて、最終学年にして幸運の大波がきたかも」
ロミーナはそう言って、うっとりと虚空を見つめた。
魔法の属性は、風・火・水・地・木・光・闇の七属性。上級魔法師は、このうち四属性以上を、特級となれば六属性以上を魔法陣なしに扱うことができる。
特級魔法師。だからあのでき損ないの魔法陣が、思い描いた通りに鯨を飛ばしたのだろう、とシフリーナはひっそり得心する。
朝から学内では、裏の森で大きなピンクの鯨が跳ねた話題で持ちきりだった。
魔法陣を描いたのはシフリーナだ。けれど、原理を無視した空想をかたちにしただけだし、そもそも魔法陣は、学校から支給された用紙以外に描くことを禁じられている。いくらデタラメな内容とはいえ、地面に魔法陣を描いたとバレたら説教と反省文は免れない。
幸い今のところシフリーナがあの魔法陣を描いたと誰にも気づかれてはいないから、このまま素知らぬふりでやり過ごしたいところだ。
それにしても、あんな空想の魔法陣を捕捉して、シフリーナの思う通りの情景を再現して見せた特級魔法師は、どんな人だろうか。
「どんな魔法師なの?」
シフリーナは特級魔法師に会ったことがない。
魔法陣もなしに発動できる魔法は、この学校の教師でもせいぜい二属性止まりだ。それが六属性以上。なんならすべての属性という可能性もある。
そう考えて尋ねると、ロミーナは目を輝かせた。
「それがね、髪がプラチナ色で窓からの光をきらきら弾くの。ひとつに束ねて編んでらしたけど、あれはきっとさらさらでシルクの糸みたいだと思うわ。お顔は少し怖いのだけれど、クールビューティっていうのかしら。海のように蒼い目が凄く素敵で、声もね、とても」
「うん、わかった」
訊きたい情報が出てこなさそうなのを感じて、そっと言葉を挟んだシフリーナは「ミーナから見て、とても魅力的な容姿の方だったんだね」と纏めてやる。ついでに、男性なのも間違いないだろう。
「そう! 神は二物も三物も与えたもうたって感じよ。シフルだって、見たら絶対うっとりしちゃうと思うわ」
「あー、それは楽しみだな」
若干棒読みの返事になったのは許してほしい、とひっそり思う。
そもそもシフリーナはその魔法師の容姿など、まったくもって興味がない。ただ、ロミーナがここまで言うのだから、他の女子生徒たちもさぞや浮かれているだろうことは想像がつく。
「それでね、シフル。特別授業で課題が出されたの」
ロミーナがおずおずと取り出したのは、三枚の紙だ。
一年生のシフリーナが普段目にする基礎的な魔法陣とは違い、複数の要素を干渉させる高度なものだ。
シフリーナは紙面に釘付けになった。
「綺麗……」
春を見せる魔法だ。
白い花片が舞い、心地良い風が吹く様が目に浮かぶ。
うっとりと魔法陣に見入るシフリーナに、ロミーナが「綺麗ってどういうこと?」と不思議そうに目を瞬かせる。
「この魔法陣が。無駄がないから。最小限の労力で……あれ?」
「なに?」
「これ、ここ間違ってる。この記号だと循環が止まっちゃう」
「どこ?」
ロミーナが向かいから乗り出すようにシフリーナの手元を覗き込む。
「ここ。ここで風力の調整をするつもりで描かれたんだと思うんだけど……これだと調整どころか静止してしまうの」
「え? なんで? だって風力の調整なら、風属性を引用して強弱の段階調整を記述するんじゃないの?」
「そうなんだけど。これって春を再現させる視覚作用と体感作用の魔法でしょう? だから、ここに温度効果を足してるんだと思うんだけど、そこをきちんと閉じずに次の記述を始めているから、このままだと風が吹かないと思う。……これってどういう課題なの?」
三年生ならこんなに高度な課題に取り組めるのかと羨ましさを覚えながら尋ねたシフリーナに、ロミーナは難しい顔のまま答えた。
「『三つの魔法陣を見て、思うところを論じよ。また、自身で描き足したいことがあれば、それも可』だって。で、来週の実習でこの魔法陣を起動させるみたい」
「実習かぁ……」
シフリーナは眉を下げた。
魔法陣の仕組みはわかる。描くことだってできる。けれどシフリーナには、それを発動させる魔力がない。進級できないのはそのせいだ。
それならばなぜ魔法師養成学校に入学できたかといえば、彼女の生まれに由来する。
シフル──シフリーナ・アイトリアは、この国有数の魔法名家の娘だ。にも関わらず、いまだシフリーナにはその片鱗もない。
魔力は、普通物心つく頃には発現している。有史以来、最も遅く発現した例は十九歳。それもたったの一例のみ。
養成校の入学資格が十九歳までと線引きされているのも、そこに由来する。
十九歳を過ぎてなお、魔力の発現を夢見るな、ということでもあるのだが、仮にもアイトリア家の娘なら必ず発現するはずだと、シフリーナの父が多額の寄付と共に十七歳の時にシフリーナをこの学校に押し込んだ。
養成校のカリキュラムに、魔力がない者など想定されていない。結果、実技を伴わない科目などひとつもなく、シフリーナは三度目の一年生にして既に十九歳。この次進級できなければ、強制退学となる。
とはいえ、シフリーナは学校に入れてくれた父に感謝していた。魔法が好きだからだ。
学校の図書館には、家とは比べものにならないほどの蔵書があり、様々な魔法体系や理論を学ぶことができる。
ただそれも今年が最後になるかと思うと、授業に出ずに図書館に籠もって本を読み漁っていたいくらいだ。なにしろまだ、蔵書の半分くらいしか読めていないのだから。
「シフル。これってどこを直したらいいの? 温度調整の部分を閉じるだけだと、次に繋がらなくない?」
「そうそう。……描いてもいい?」
「ええ、お願い」
頷いたロミーナは、何もない空間からペンを取り出してシフリーナに差しだした。
ペンを手にしたシフリーナは、じっと紙面を見つめ、頭の中で魔法陣の構成を分解してみる。
ゴールは春風を吹かせることだ。
本当に吹かせるのと、そう感じさせること、二種類のアプローチが考えられるが、これは前者だ。
魔法陣は三つ。一魔法一魔法陣の原則に則って、三人で実践するはずだ。
花片舞う視覚の再現。春の心地良い温度の再現。そして風。
風の魔法にもわざわざ温度を組み込んでいるから、出題者の意図はきっと、風量と温度との同時コントロールだろう。それに加え、温度を司る魔法陣との干渉バランスを計算にいれる必要もある。
シフリーナは温度調整の魔法陣とのバランスを思い描きながら、シンプルに組み直した魔法陣を描き上げた。
「これでできると思うよ」
「ありがとう、シフル!」
助かった、という顔で微笑むロミーナに笑みを返したシフリーナのすぐ近くで「なにができると思う、だよ」と声があがった。
見れば三人の男子生徒たちが、こちらを見てニヤニヤしている。彼らも三年生、かつての同級生たちだ。
シフリーナは無視して残りのパンを口に押し込んだ。
「魔力もないクセに、偉そうに魔法陣描いてる場合か?」
「自分で発動できないから、それが間違ってるってわからないんだもんな」
揶揄う声に顔も向けずにいると、ロミーナの方が困ったように男子たちとシフリーナとを交互に見て、おろおろし始めた。
「どうせ今年で退学だろ? 僕が嫁にでも貰ってやろうか? アイトリア家なら相手がお前でも我慢できるわ」
魔法名家のアイトリア家。その肩書きがあったから、魔力のないシフリーナがこの学校に入学できた。そのせいで無駄な注目を集める羽目にはなったが、それももうこの二年ですっかり慣れた。
「家を継ぐのは兄なので、婿を取る必要はありません。何度もそう申し上げたはずです。……ごめんね、ミーナ、先に行くね」
シフリーナはそう言って立ち上がった。
午後には特級魔法師の特別授業。基礎以外の魔法も見られるといいけれど。
息を吐いたシフリーナは、男子生徒が追ってくる前に、足早に教室へと急いだ。
完結まで書き上げ、予約投稿済みです。
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