プロローグ • 聖水と薄粥
「帝国中央たるセッサール宮の許可なく砂漠民を救済した者は、情状に応じ、最高で死刑に処す」——フランリーツ帝国『砂漠特別統治法』
砂漠民——それは極めて曖昧な呼称であった。
この果てなき砂の上には、部族ごとに独自の文化と信仰が存在していた。だが、フランリーツ帝国の皇帝フランツ三世が放った鉄蹄の下で、それらはすべて粉砕され、かき混ぜられ、最終的にはたった二種類にしか分類されなくなった。
帝国の「帰化」に応じる砂漠民か、それとも抵抗を試みる「蛮族」か。前者は生き、後者は滅ぶ。
後に「預言者」と呼ばれ、フランリーツ帝国に対して「聖戦」という名の全面反抗を起こすことになるハッサン——その彼も、この時はまだ、帝国の刃によって故郷を失った無数の砂漠民の一人に過ぎなかった。
「はあ……」
年老いた男が、重いため息をついた。
「今年も豊作には程遠い。帝国への貢納分を差し引けば、次の収穫までこの街の民を養えるだけの糧食など、どこにも残らん」
この男の名はハーリド。慈悲深き祭司であり、同時に善良な商人でもあった。
ハッサンは知っていた。ハーリドに足りないのは糧食そのものではない。問題は、それをいかにして住民に配るかであり、かつ、後になって帝国から咎められない「やり方」を見つけることであった。
帝国側は常に、私的な砂漠民救済を厳しく取り締まっている。しかしそれは、「救済」という行為そのものを禁じているというより、砂漠民の人心を懐柔するあらゆる手段を他者に渡さないためであった。帝国の貴族でさえ、それを許されてはいない。
理由は明白であった。かつて大貴族ウェスト家と皇帝スコーリント四世との間に「小さな不和」が生じ、当主リチャード・ウェストと帝国中央が「小さな衝突」を起こした——いわゆる『リチャード・ウェストの大反乱』と呼ばれる貴族の叛乱が勃発したのだ。
その経緯の詳細をハッサンは知らない。だが、彼はこれだけは知っていた。リチャードの部隊の大部分は、勇敢な砂漠の部族戦士たちで構成されていた。リチャードの「同盟者」たちが、主の劣勢を見るや刑罰を軽くしてもらうために瞬時に裏切ったあとも、部族の戦士たちだけは最後の一人まで戦い抜いたのだ。
リチャード本人は九族皆殺しの刑に処されたが、砂漠民の勇猛さと不気味なほどの忠誠心は、帝国中央の肝を冷やした。その恐怖の結果として生まれたのが、あの忌々しい法律なのだ。
ハッサンは思い出していた。自分が砂漠のただ中を彷徨い、今まさに渇死しそうになっていたところを、ハーリドの隊商に救われたあの日のことを。この救命の恩があるからこそ、ハッサンはどうしてもハーリドのために知恵を絞りたかった。
ハーリドが何に苦悩しているのか、ハッサンには痛いほど分かっていた。
彼は民を救いたい。しかし帝国の法がそれを阻む。おまけに口封じさえも極めて難しい。眼前のわずかな利益のために、恩人をあっさり帝国に売る者など、この砂漠にはいくらでもいるからだ。ハーリドも聖人ではない。リスクを無視して救済を続けろとは言えない。
ならば、あの忌々しい法律を「すり抜ける」方法を考え出すししかかなかった。
その時、ハッサンはハーリドのもう一つの顔を思い出した——祭司。
そう、祭司には特権がある。『聖水配給権』だ。これならうまくやれる。帝国の強欲な貴族どもが、肉スープに聖水を注ぎ、「これは聖餐である」と言い張って斎戒の戒律をすり抜けている、あのやり方が応用できるはずだ。
そこへ至った瞬間、ハッサンの脳裏を覆っていた霧が晴れた。その夜のうちに、彼はハーリドの書斎を訪ねた。
「ハッサンか」
慌ただしく書斎に足を踏み入れてきた青年を、ハーリドは見つめ、怪訝そうに尋ねた。
「いったい何事だ。それほどまでに血相を変えて」
「ハーリド閣下」
ハッサンは真っ直ぐに言った。
「閣下の憂いを払い、解決する策がございます」
「ほう?」
ハーリドは興味をそそられたように眉を上げた。
「聞こう。私にどんな憂いがあるというのか、自分でも気づいていなかったのだがね」
ハッサンは強がる老祭司を見つめ、それから左右に素早く視線を走らせた。まるで、周囲に帝国の耳目が潜んでいないかを確かめるように。その張り詰めた仕草を見て、ハーリドは思わず息を呑んだ。
「……そこまで深刻な話か、ハッサン」
「閣下、我が街に認められている『聖水配給権』を、どうお考えですか?」
ハッサンが突如、本題を切り出した。
ハーリドはこの状況でそんな質問が飛び出すとは思わず、しばらく沈黙して考え込んでから答えた。
「帝国の金儲けの道具に過ぎんよ。アイセランの贖宥状よりはいくらかマシという程度だ。なにしろ、聖水と言えど所詮は水だ。砂漠民にとっては極めて重要な生存資源だが……本質はやはり、教会と帝国が財を貪るための道具だ」
ハッサンは卓上に一杯の清水を置き、尋ねた。
「では、これは何ですか」
ハーリドは即座に答えた。
「見ての通り、一杯の清水だ。砂漠では何よりも貴重な資源だな」
ハッサンは清水を脇に退け、今度は冷めきって、わずかに数粒の米が浮かぶだけの重湯が入った器を置いた。
「では、これは何ですか」
ハーリドが答える。
「重湯だ。極めて希薄だが、この街の飢えた民にとっては、辛うじて繋ぎ止められている命綱のようなものだ」
「ハッサン……」
ハーリドは、ハッサンの意図の輪郭を掴みかけ、声を震わせた。
「なるほど、お前の言いたいことは……だが、帝国がそれを許すまい……」
「では、閣下」
ハッサンは聖水の器を手に取り、ハーリドの言葉を遮るようにして、もう一度、力強く尋ねた。
「これは何ですか」
ハーリドは困惑しながらも答えた。
「さっきも言った通りだ。帝国の金儲けの道具、本質はただの清浄な水だ」
「ならば……これを……」
ハッサンは聖水を、民の命綱である重湯の中へと静かに注ぎ込んだ。
「これを加えたなら、これは何になりますか」
「これは……」
ハーリドは、薄粥とも聖水ともつかぬその液体を凝視した。
老祭司の目が、驚愕と歓喜で見開かれる。
「……これは……これは『聖水』だ! おお、ハッサン、お前という男は……!」
「此度、我々が民に配るのは、正当な法に基づき祈りを捧げ了『聖水』です」
ハッサンは静かに、しかし不敵に微笑んだ。
「帝国の法が禁じる、私的な救済などでは断じてありません」
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これからハサンの物語をじっくりと描いてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。




