第7話 主様とインフさん
これが夢ならば、どれほど良かっただろう。
走馬灯と思い込んでいた世界は、一度眠ってからも、ただ漠然と存在していた。
なぜこんなことになったかはわからないし、わかりたくもない。でもどうやら僕はあれから数日もの間、彼女の背に乗り、途方もない距離を飛び続けている。
「も、もういい加減降ろしてー! か、身体が、身体が保たないよー!」
「何をいうのだ我が主。この程度で悲鳴を上げるなど情けない。それでもこの龍王の主ですか?」
「あ、主になった覚えなんかないし、き、キミと一緒に行くと言った覚えはーー」
言い終わらぬうちに急速旋回した彼女は、分厚い雲の中に姿を隠しながら巨大な翼を羽ばたかせ、今度はスススと小さくなり、可愛らしい女の子に変身した。
「ということで、そろそろ闇雲に飛び回ることにも飽きましたので、目的地に到着しますよ。さすがのわらわも、あの姿のままでは敵を生んでしまうからの。ここからは主とともに歩いて参ろうではないか」
「あ、歩いてっていうか、ここ、まだ空の上、空の上なんですけどッ!?」
僕にギュッと抱きついた彼女は、スリスリ頬を押し付けながら、「愛の逃避行、いいや低空飛行ですわね」などと意味不明なことを言っている。しかしこのまま落下などしようものなら、今度こそ死んでしまう!
「お、お、落ちる、落ちる!?!?」
「何を言っているのです。ここからがウタ、……いいえ、主様の真骨頂ではありませんか。このまま落下し、外界の地も滅ぼしてしまいましょう♪」
「そ、そんなこといいから、ど、ど、ど、どうにかして!? ぼ、僕は、僕は飛べないんだよぉ!」
「またそのような御冗談を。ではどのようにしてわらわを討ち取ったのですか?」
「い、い、い、いいからスピードを落として!!」
不服そうにふわりと浮き上がったインフは、一転して嬉しそうに僕に抱きつき頬に何度もキスをした。どういう状況だと彼女を引き剥がそうとするが、岩のような腕力で抱きかかえられ、まるで動きそうもない。それどころか……
「い、痛い、痛い、死ぬ、死ぬっ!」
「まぁまぁ痛いほどわらわが好きってことですね。嬉しいです!」
「言ってない、そんなこと言ってない! あと、クビ、クビ決まってる!」
抱えられたまま、ゆっくりと深く鬱蒼とした森の真ん中に降り立った僕らは、見るからに人気のない森林地帯の中央に放り出された、いわば森の餌状態。
どうしてこんな場所にと質問する暇もなく、いつの間にか全身黒のフリルが付いているゴシックスカートを身にまとったインフは、僕を右へ左へ激しく振り回しながら言った。
「ようやくヒュムどもが住み着くエリアまでやってまいりましたね。さすがに本来の姿で近付けば面倒なことになりますので、ここからは歩いて参りましょう。あ、でも主様はヒュムであったとしても、他の下等な者どもとは別ですのでご安心を」
「え、ひゅ、ヒュムって、ヒューマンのことだよね!? この世界には僕以外にも人がいるの!?」
「当然おりますよ。しかし奴らの価値など主様とは雲泥の差。存在すべき理由はなく、我ら種族の餌になるための存在でしかありませんわ」
「え、餌って、それはどういう……」
「まぁそれは一旦置いておくとして、ひとまず近くの集落へ行ってみましょう。そしてこの世の終焉を宣言してさしあげるのです!」
彼女が何を言っているかはまるで意味がわからないけど、僕はただ人に会いたいという一心で、彼女の後を追いかけた。
青々と茂る森を進む中で、僕はすぐ異変に気付いた。近くにいた動物や異様な形の生き物たちが、皆落ち着きなく逃げていってしまうのだ。バサバサと何かが存在している音だけはしているものの、全ての生き物が僕らを避けているような……
「ね、ねぇ、生き物が僕らを避けているみたいなんですけど……」
「それはわらわの威圧スキルのせいかと。そんなことより、そろそろ森を抜けますよ。ここを出ればすぐにヒュムどもの集落が見えてくるはず。もう少しですね」
「く、詳しいんですね、はは……」
「…………理由をお聞きになりたいですか?」
「え、いや、……やめとく」
「懸命なご判断で」
獰猛な肉食獣の眼で僕を見つめる彼女の牙が不気味に光った。先程聞いた『餌』という言葉から想像するに、彼女たちにとって、僕らはそういう存在なのだろう……
「き、キミも……、その、……人を食べるの?」
「いいえ、アレはわらわの口にあいません。ただ……、同族にはそういう輩もおります、という意味ですわ」
ひとまず食われる事態は回避できたと安堵するも、彼女はすぐ話題を切り上げ、見えてきた森の境目へと走っていってしまった。
僕の名を呼び手招きするおかしな黒龍を遠目に見つめながら、僕はずっと震えたまんまの指先で頬を掴み、つねってみた。
やっぱり痛い。
身体も川に落ちたときのままだし、ボロボロになってしまった部屋着が妙にリアルで、今さらこれが夢なんて信じられなくなってる。
早く早くと呼ぶ彼女についても、中身は巨大な黒龍で、なぜか同年代の美少女キャラに変身していると誰かに説明したところで、バカらしくて頭がおかしくなりそうだ。
「主様! ほら、ヒュムの集落が見えてきましたよ。早速滅ぼしに行きましょう♪」
見た目と発言のギャップがエグい。
これが仮想現実なら、それも楽しめたかもしれない。しかし、もしこれが現実だとしたら、こんなに恐ろしいことはない。
「下手なことを言えば殺されかねないし、いつ丸飲みされたっておかしくないよ。今は黙ってついていくしか……」
「主様、どうしたというのです。ほら、さっさと行きますよ♪」
僕の手を取り、にこやかに駆けていく彼女の姿は、どこからどうみてもただの可愛い女の子。
なんなんですか、この状況。
心がちっとも落ち着かない!
小さな丘の上に立つ僕らは、平原の中央に作られた小さな集落を見下ろした。
田畑や家畜の小屋らしき田園の風景と、申し訳程度にある民家は、僕の知っている田舎の風景そのものだった。しかし集落の周りは小さな柵で閉じられており、外部から侵入する何かを警戒しているのが明らかだった。
「やっぱり彼女みたいな外敵から身を守るために……」
チラリと隣にいるインフを見やる。
彼女はそれを予期していたように言葉を付け加えた。
「我ら龍族を相手に、あのような外壁など役に立ちませんわ。あれはそこらのモンスターを対処するために作られたものでしょう」
「も、モンスター……?」
「モンスターはモンスターではありませんか。まさかご存じないとでも?」
僕の発言を冗談と受け取った彼女がフフフと微笑む。しかし僕の心はフフフじゃすみそうにありません。
モンスター。
それは悍ましい姿をした異形の怪物。
ファンタジーや転生モノの小説に出てくるゴブリンやスライムといった敵キャラの総称。そんなものが目の前に現れようものなら、僕はまた気を失って倒れるかもしれない。
でもドラゴンである彼女にそれをぶつけても意味はない。何より彼女の存在自体が、彼女の言葉を100%肯定してしまっているのですから……
「それにしても、何やら村が騒がしいですわね。煙も上がっていますし、モンスターにでも襲われているのでしょうか?」
彼女の言葉にハッとさせられた僕は、改めて村の中心を見つめた。確かに言うとおり、中央の広場付近からモクモクと煙が上がり、微かに人々の声が聞こえていた。
「え、だったら助けなきゃ。い、インフ、さん、いや、インフで良かったよね!? お願い、村のみんなを助けるから手伝って!」
しかし彼女は僕の慌てぶりよりも、初めて名前を呼ばれたことに感動し、「主様が初めて私めの名を」とウットリしていた。感慨深そうに自分の世界に入り浸っている彼女のことを諦めた僕は、モンスターに対抗する手段もないことを忘れて、無意識のうちに村へと走り出していた。