第59話 理想は叶わない
―― ハイ、主様!
不意に聞こえてきた声の主は、突如目の前に現れ、指先をほんの僅かに動かすほどの一閃で、ケルベロスを張り倒した。
その威力は文字通り凄まじく、巨大なハンマーを凝縮し、1キロ先から落としたような音で頬に突き刺さり、魔獣の口中の肉ごと抉り取って貫通した。
「ギャギュリュッッ!!??」
顔の下半分を一瞬のうちに破壊され、何が起こったかもわからないケルベロスが、ひっくり返りのたうち回っている。僕は事態が理解できず、膝をついたまま、ただ呆然とその光景を見つめていた。
「ど、どないなってんねん、これ」
ポンさんの疑問の直後、狭い空間の中央を漂っていた霧が晴れ、小影が浮かび上がった。そこには満面の笑みを隠しもせず、さらに魔力量を増したバケモノが佇んでいた。
「…………アイ、……これが愛なのですね、主様!」
思わず「え?」と呟く僕のことを知ってか知らずか、嬉しそうに人さし指を立てた彼女は、指先でハートを形作り、それをフッと吹いてみせた。すると照射された魔力の塊がケルベロスの横腹を抉り、対面の壁ごと鋭角に撃ち抜いた。
「な、なんやあれ、どないな威力やねん!?」
激しく苦しむケルベロスにスキップ混じりで近付いた影は、怒り狂う残り二つの頭をサンドバッグでも叩くように目にも止まらぬ速さで右から左からと強打した。パンパンという乾いた音が響くより先に削られていく頭は、気付いた時には原型がなく、既に肉片と成り果てた頭の欠片がグチャリと地面を汚していた。
「汚い犬コロのわりに、良い仕事をしましたね。褒めてつかわしますよ」
震えて怯えるケルベロスの半分だけ残った顔を撫で、彼女は愛おしいものを愛でるように微笑みかけ、巨大な魔力の指でブドウでも握るようにパスンとそれを押し潰した。吹き出た魔獣の血を指先で舐め取った彼女は、エクスタシーに塗れた卑猥な顔で僕を見つめながら、「ウフフ」と笑った。
「い、インフ……? どうして」
「どうしてって、主様。これこそ主様の愛ではございませんか!」
「あ、あい?」
ふふふと嬉しそうなインフをよそに、密室の扉がガコンと音を鳴らして開かれ、新たな通路が現れた。しかしそれどころではない僕は、すぐにインフを抱きしめ、「良かった」と安堵する。
「あ、主様!? そのような、このようなところで大胆すぎます! ですが、これも愛なのですね」
うっとりしている彼女の様子に心底馬鹿らしそうなポンさんが「アホくさ」と吐き捨てる。
よくわからないけど、インフに変わった様子はない。それどころか見た目はまったく変化なく、反対に僕の血で汚れてしまっている気さえする。
「でもどうして……。インフはさっきケルベロスに食べられて……」
ハッと何かを思い出したような彼女は、目線をそらし、「ハハハ」と誤魔化すような仕草をみせた。ムッと額にシワを寄せた僕は、「インフ……?」と改めて質問した。
「た、食べられた、食べられましたわ。で、ですが偶然にも食べられずに済んだというか、食べられなかったというか、そもそも食べられていないというか……」
「……食べられてない?」
観念したようにシュンと肩を落とした彼女は、隠し事する子供のように上目遣いに口を尖らせ、「その……、申し訳ございません」と謝ってから、事の顛末を語った。
「じゃあなに、最初からケルベロスの攻撃を避けて反撃しようとしてたんだけど、僕が怒ってキミの名前を呼びながら戦ってたから、その姿に見惚れてずっと眺めてたってこと?」
全てを告白し謝罪したインフに呆れながらも、僕はそれよりも彼女が生きていてくれたことが嬉しくて、膝から力が抜けて座り込んでしまった。
「主様!? 大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。……でももう金輪際こんなことしないでね、お願いだから」
僕の手を取り、「ごめんなさい」と詫びるインフ。
だけどそんなことより、彼女が生きていてくれて本当に良かった。
「……で、ラブラブしてるとこ悪いんやけど、話を戻してええか?」
蚊帳の外にされたポンさんが地図をバンバン叩くついでに、僕の額をパチンと叩いた。イデっと血が垂れる頭を拭った僕は、「あはは」と誤魔化しながら一連の勝手すぎる暴走を詫びた。
「おのれらナンボほど勝手やねん。片や暴走して指示無視無視の無視やし、片や自分の世界にどっぷりでモンスターそっちのけやし、俺だけヒヤヒヤの超絶びっくらパラダイスで全部台無しや。この絶望感どないしてくれんねん!?」
相当切羽詰まっていたのか、まだわなわな震えながら憤怒しているポンさん。
僕はなんだか愛おしくなってしまい、頭を撫でながら「ごめんごめん」と謝罪した。
「撫でんなボケ! それよりおのれの異常不運のせいで、またおかしなルートに入ってしもたやないか。これ見てみぃ!」
インフに回復魔法をかけてもらいながら、ポンさんに渡された地図に目を通す。
本来なら上層のボス部屋を突破し、正規ルートで下層まで降りるつもりが、地図にない落とし穴にハマったことで、未踏の、かつよくわからない中層域に入り込んでしまった、……らしい。
「地図でいうと、このぽっかり空欄になってる地下7階層あたりにおるんとちゃうかな。それにしたって、何が悲しくていきなりそんな落ちんねん。おのれは疫病神か!」
「そう言われても……。あ、でもこれ随分ショートカットできたってことでしょ? 結果オーライだよね」
「結果オーライ? ケルベロスに襲われてゴリゴリに死にかけたくせに? おのれドMの異常者なん?」
呆れ果てて言葉を失ったポンさんの目が死人色に染まるなか、僕はポジティブに短縮できた行路を指でなぞりながら「よし」と呟く。確かに色々問題はあったけど、後悔を引きずったところで意味はない。反省はするけど、無駄に悩み続けたところで先には進んでいけない!
「血は止まったし、なんとなく回復した気がするよ。ありがとねインフ!」
「い、いえ、ですが主様……、本当に大丈夫なのですか?」
「大丈夫。こうみえて、昔から打たれ強いんだ。怪我くらいで止まってなんかいられないよ」
インフの手を借りて立ち上がり、汚れてしまった衣服を払った。頭はまだふらふらするし、正直受け入れられないことはまだまだ多いけど、それより今はすべきことがある。
なにより、僕個人の無様さや劣等感など、今に始まったことじゃない。どれだけ無力に敗れても、カラ回って二の足を踏んだとしても、そのたびに立ち上がってきたじゃないか。
本当は全て冷静に分析し、先に活かしたいとは思う。
あちらの世界では、常に冷静に、先を見越し、万全を期すことを心情として生きてきたんだから。
……けど、きっとそれではダメだ。
本来なら時間に時間を費やして石橋を叩いて叩き割っても進まないほど慎重だった僕が、この世界で生き抜いていくためには、より早く、より効率的に、無茶してでも立ち上がっていかなきゃダメなんだ。
「でないと、僕の理想は叶わない。全部ひっくり返すって決めたのに、こんなところで足踏みしてたら、僕の野望はいつまでたっても叶えられない!」
思わず口にしてしまった独り言に、ポンさんとインフが目を丸くしている。
僕は全てを誤魔化すよう二人に背を向け、「急ごっか」と蚊が囁くように言った。




