56──深淵の闇で……
「ない······」
ポツリと呟くような声。次にはそれが焦りを帯び始めた。
「あれっ? な、無いっ! た、たしかこのくらいの所に刺したはずなのに!」
狭い道の入り口で、リヴルが施したアンカー。ダンジョン内でも通信が出来るようにするための中継アンテナだ。
それが無くなっている。少なくとも、設置したと記憶している場所には無かった。
「う、うそ、なんで? あれ、ここじゃなかったんだっけ?」
辺りを見回すリヴル。しかし、見落としなどではない。
それどころか──
「あ、あれ? ここに、こんな道あったっけ?」
ライトの光に照らされた洞窟の不気味な光景。しかし、そんな中にも特徴などを見出だして目印にするのもダイバーに必要な技能だ。
リヴルも、新人ながら基本的な技術は身に付いていたから、要所の特徴的な地形や造形はしっかりと頭に刻んでいた。
だが元来たはずの道には、記憶にないような道や空間が存在していた。
「お、おかしいな。あたし、ちょっと混乱してるのかも」
自分に言い聞かせるように言って息を深く吸うリヴル。
しかし、それは勘違いや記憶違いではない。たしかに元来た道を戻ってきたはずなのだ。
「ラ、ラヴィがとってったのかな······?」
「いや、そうではない」
リヴルの困惑に魔王の抑揚のない声が答える。
「言っただろう。この深淵は生きている。貴様らは知らんようだが、深淵とはそれ自体が生き物のような力を秘めているのだ。それは我々魔族にとって有益で、人間にとっては害となるようなそんな力をな」
そう言い、ルキファスは足下を指差した。
「貴様らはスライムに必死で気づいていなかったようだが、その間にこの深淵の構造は変化した。今我々が居るのは最も複雑に入り組み、最も脱出が困難な中間層だ」
「ちゅう、かん? な、何を言ってるの? ルキファスさん?」
途端にリヴルにはルキファスが恐ろしい存在のように思えた。状況の整理もままならない状況下で意味不明な事を口にする、目の前の相手に恐怖が芽生えた。
「ほう。やっと人間らしい表情をしたな」
対して、ルキファスは冷たく、薄い笑いを浮かべた。
「貴様にもそんな表情があるとはな」
「······今はふざけてる時じゃないわ。とにかく出口を探さないと······」
そう言って歩きかけたリヴルの耳に──
──キャアアアアアァ······──
「!!?」
悲鳴が小さく聞こえた。
「い、今の、は······?」
リヴルの心臓が大きく跳ね上がる。その鼓動は一気に加速し、瞳は動転して震え始め、口から歯の鳴る音がカチカチと鳴った。
「ま、まさか······」
その悲鳴には聞き覚えがあった。いや、聞き間違えるはずもなかった。
この世に生まれてから、ずっと聞いてきた瓜二つの声なのだから。
「どうやらあやつも迷ったようだな」
ルキファスの声はブレなかった。
「ここの深淵は生きている。どのモンスターもさっきのスライムのように古の力に近い状態だろう。もしあんな小娘が遭遇しようものなら──」
「っ!!」
リヴルは既に駆け出していた。ルキファスの話もほとんど入らないまま、闇の巣窟の中を一心不乱に駆けた。
悲鳴のした方へ、何も考えず。後先など気にも留めず。
魔王はそんな少女の背を黙って見送った。
「はっ、はっ、はっ、ラヴィっ!!」
リヴルは頭がどうにかなりそうだった。今にもその場で泣き出して崩れ落ちそうだった。あとどのくらい心が正常に保っていられるだろうか。
眩暈のするような焦燥感に駈られるまま、リヴルは未知の暗闇を走り続けた。
すると、やがて──
「はあっ、はあっ、はあっ! こ、ここは?!」
ライトの光が遠くなる。広い空間に出たのだ。
そこは闇を抱いた異様な空間であった。狭い坑道のような中にぽっかりと出来たドームのような場所。
そして、その中央に蠢く巨大な影。
ライトの光を受けて露になったその影は──
『グルオオオオオオオッッ』
「ひっ!?」
ダンジョン全体を揺らすような凄まじい咆哮にリヴルが思わず耳を押さえる。
しかし、すぐにライトを向け直し、その巨大な影の姿を照らし出す。
「な、な、なによ、これ······」
そこに居たのは巨大な獣の怪物であった。獣、としか言い様がない。
大きさは一般的な民家と同等かそれ以上あり、全身を銀色の体毛に覆われている。
しかし、既存の動物のどれとも形が一致しない。強いて言うのであれば熊に似ていたが、腕は長く、その爪は猛禽類のように鋭く長い。顔は狼に近く、背中には爬虫類的な質感の皮膚をした背びれのような物が付いている。
その巨大な怪物が、唸り声を上げて岩肌を抉るように引っ掻いている。壁に向かって執着したように爪を突き立ているのだ。
そして、その壁には──
「ラヴィ!?」
怪物が襲う壁の下部。そこには小さな横穴が空いており、その中に小さな人工の光が瞬いていた。
その灯火を抱えるようにしている小さな人影。それは恐怖によってうずくまり、震える妹である事にリヴルは瞬時に気がついた。
横穴は行き止まりになっているらしく、ラヴィはそこから動こうとしない。怪物が岩壁を全て掘削し、ラヴィを引き摺り出すのも時間の問題だろう。
「やめて!!」
リヴルは咄嗟にマジックワンドを取り出して怪物の横腹目掛けて魔弾を撃った。
破裂音を瞬かせた攻撃は、怪物の身体に直撃したが、その光が虚しく砕け散った。
「そ、そんなっ······」
瞳の光に影が忍ぶが、リヴルは諦めずに攻撃を続けた。
しかし、結果は虚しいままであった。
まるで効果は無かった。怪物はリヴルに気づいてすらいなかった。
ただ夢中に、ラヴィの逃れた牙城を崩そうと凶暴な爪を突き立てていた。
それでもリヴルは諦めずに攻撃を続けていた。が、怪物の暴れる振動からだろうか。天板がボロボロと音を立てて崩れ始めた。
「っ?! きゃあっ!?」
大きな岩がリヴルのすぐ横に落ちた。それは重い音と衝撃を奏で、石のつぶてを拡散させるように割れた。
鋭利な破片、鈍重な砲弾のような破片。それらが一気にリヴルを襲った。
小さな悲鳴を上げて地面に投げ出されるリヴル。
「うっ、く······あっ!?」
そして、自分の手の中にあった武器が失くなっている事に気がついた。手放さなかったライトを慌てて辺りに這わせると、すぐ横で岩に押し潰された武器の姿を発見した。
「そ、そん、な············」
ズキリと痛みが走った。それは足からであった。
リヴルが光と視線を自身の足に向けると、足は破片にやられたのか酷い怪我を負っていた。皮膚は裂け、肉が剥き出しになり、血肉が地面を汚している。
その光景が、一時的な痛みの麻痺の効果を切らせ始める。痛みと恐怖がリヴルの身体に寒気と共に広がり始める。
「あ······あ、う······」
リヴルは既にどうする事も出来ない事を悟った。
『グルオオオオオオオオッッ』
深淵の闇の中に反響する咆哮。しかし、今はそれはリヴルの心をほとんど動揺させなかった。
今の彼女の心にあるのは、この闇の中の空洞のような物。
そう、それは絶望であった。
「酷い有り様だな。小娘」
そんな絶望の中に、一つの声が舞い降りた。
お疲れ様です。次話に続きます。




