第21話「譲れない戦い」④
「……甘い、回復薬?」
夕凪は、私の持つ器をじっと見つめていた。
布団の中から出てきた顔には、まだ熱の赤みが残っている。それでも、先ほどまでの「絶対に飲まない」という勢いはなくなっていた。
「そう。味は私が確かめた。苦味も、あの独特のにおいもないぞ」
「……本当に?」
「本当に」
「あとから苦くなったり、しませんか?」
「それも確かめた。しばらく待っても苦くならなかった」
夕凪の目が、器と私の顔を行ったり来たりする。
疑いたくなるのも無理はない。さっきまで散々、苦い回復薬の話をしていたのだから。
「無理に飲まなくていいから、まずは味を見てみるか?」
「……はい。ちょっとだけ」
ようやく布団の中から手が伸びた。
朝凪が背中に枕を当て直し、篠が小さな匙を持ってくる。
私は薬液を一滴だけすくい、夕凪へ差し出した。
「はい、どうぞ」
「…………」
夕凪は匙を見つめたまま動かない。
「夕凪?」
「……心の準備をしています」
「そんな大層なものなのか、これ」
「お姉ちゃん、手を握ってて」
「分かった」
朝凪が当然のように妹の手を取った。
そこまで怖いのか。私が最初にあの回復薬を飲んだ時のことを思い出すと、笑ってばかりもいられないけど。
「じゃあ……いただきます」
夕凪が恐る恐る匙を口に運ぶ。
私と篠は思わず身を乗り出した。
朝凪は妹の手を握ったまま、その表情を見守っている。
「…………」
夕凪の眉が、ぴくりと動いた。
「どう?」
「……甘いです」
「おっ!」
「でも、まだ分かりません」
厳しい。
夕凪は口を閉じ、何かを確かめるようにじっと待った。
私も待つ。篠も待つ。
妙な沈黙が部屋を満たす。
「……まだ、甘いです」
「うん」
「後から苦くならない……」
「うん!」
夕凪がぱっと顔を上げた。
「霧江さん! これ、おいしいです!」
「よっしゃあ!」
両拳を突き上げかけて、慌てて止めた。
病人の部屋だ。大声を出す場所じゃない。
……もう出しちゃったけど。
「ふふっ。よかったですね、霧江さん」
「うん。よかった……」
篠が笑う。
朝凪も、夕凪の顔を見て小さく息を吐いた。
「……もう、怖くない?」
「うん。お姉ちゃん、これなら飲めるよ」
「よかった」
朝凪の返事はいつもどおり短かったが、妹の手を握る力が少し緩んだのが見えた。
「じゃあ、残りも飲んでみる?」
「はい!」
夕凪は両手で器を受け取った。
一度に流し込まず、少しずつ。途中で目を丸くし、最後には口元を緩めながら、きちんと飲み干した。
「ごちそうさまでした!」
「薬にその挨拶する人、初めて見たぞ」
「だって、おいしかったですから」
空になった器を差し出す夕凪は、心なしか誇らしげだった。
さっきまで布団から一歩も出ようとしなかったのに。
「勝った……」
「また何かと戦ってたんですか?」
「苦味と、時間と、私自身に」
「最後の一つは何ですか」
「造作師の意地」
篠が呆れたように笑った。
まあ、結果がよければ全部よしだ。
その時、玄関の戸が開く音がした。
「ただいま戻りましたわー」
聞き慣れた声。
私と篠は思わず顔を見合わせた。
「……雲居?」
「帰ってきましたね」
窓の外を見れば、日が傾き始めていた。
よりにもよって、夕凪が飲み終えた直後とは。
……これ、勝負には勝ったってことでいいよな?
「夕凪。今日はもう何もしないで寝てろよ。薬を飲んだからって、すぐ治るわけじゃないんだから」
「はい。……でも、夕ご飯の支度が」
「私たちがやる」
朝凪が妹の布団を肩まで掛け直した。
「寝てて」
「……はい」
また即答。
私が言った時との違いは、もう考えないことにしよう。
「お水もここに置いておきますね。あとで様子を見に来ますから」
「ありがとうございます、篠さん」
夕凪は枕へ頭を戻し、ほっとしたように笑った。
「霧江さん」
「ん?」
「私のために、ありがとうございます」
「いいって。作ってて楽しかったし」
「……ふふ。霧江さんらしいですね」
今はゆっくり休んでもらおう。
私と篠は、起こさないように部屋を出た。
居間からは、雲居が荷物を下ろす音が聞こえてくる。
「雲居!」
「あら、霧江。どうなさいましたの、そのお顔」
「聞いてくれ! 私、勝った!」
「……何に?」
雲居は山猫商会の包みを抱えたまま、露骨に困惑した顔をした。
篠が横から事情を説明する。
夕凪が風邪をひいたこと。苦い回復薬を拒んだこと。雲居が帰ってくるまで待つと言い張ったこと。
そして私が、勝手に夕方を期限にして甘い回復薬を作り始めたこと。
「それで、今しがた夕凪ちゃんが飲んでくれたんです」
「なるほど……」
雲居が頷く。
それから、少し不思議そうに首を傾げた。
「ですが、霧江。ひとつよろしいかしら?」
「何?」
「わたくし、回復は苦手ですの。稲羽のときに話しましたでしょう?」
「…………」
言われた途端、頭の中で何かが引っかかった。
キビに襲われた稲羽を助けに行った時のこと。
雲居は確かに、自分は回復が得意ではないと話していた。
「……あ」
「……あ」
隣で篠も同じ声を出した。
「そうだった……」
「そうでしたね……」
二人で顔を見合わせる。
夕凪は「雲居さんに治してもらう」と言っていた。
私たちは、それなら夕方までに薬を完成させようと大騒ぎした。
だが、肝心の雲居の回復術は、最初からあまり当てにできなかったわけだ。
「……じゃあ、私が急いでたのって」
「ご自分で勝手に決めた期限ですわね」
「ですよねー!」
思わず天井を仰いだ。
誰も私を急かしてなどいなかった。完全な一人相撲である。
「でも、霧江さん。夕凪ちゃんが薬を飲めるようになったのは本当ですよ」
「……それは、うん」
篠の言葉に、少しだけ救われた気がした。
結果は無駄じゃない。たぶん。
「それに、回復だけではありませんの」
雲居が、抱えていた包みを台へ置いた。
「巫女としての術は、総じて苦手ですわ。ですから、巫女としては落ちこぼれですの」
いつもの、何でもないことを言うような口調だった。
けれど、最後だけ少し笑い方が違った。
自分を笑うことに、慣れてしまっているような。
「……雲居」
「何ですの?」
いつもの澄ました顔に戻っている。
私は言葉を探した。
あの時、雲居は稲羽を置いて逃げたわけじゃない。助けを呼ぶために戻ってきた。
だから、全部が不得意だなんて思わないでほしい。
……でも、それだけで本人の悔しさが消えるわけでもないんだろう。
「いや。何でもない」
「変な霧江ですこと」
雲居は小さく肩をすくめた。
妙に軽いその仕草が、少しだけ気になった。
「ところで」
雲居が空の器を指さした。
……話を変えたな。けれど、無理に聞き出すことでもない。
「その甘い回復薬とやら、本当に普通の回復薬と同じ効き目がありますの?」
「ちゃんと回復薬として完成してるよ。苦味を取り除いても薬効が残る製作法だから、そこは大丈夫」
「苦味は?」
「なし。あの癒し草の青臭いにおいもなし。夕凪が『おいしい』って全部飲んだ」
雲居の目が、すっと細くなる。
……あ。この顔。
「それ、作るのに特別な材料が必要でして?」
「いや。癒し草と水と蜂蜜。作り方はちょっと変わってるけど、普通の造作師でもできると思う」
「量を増やすことも?」
「三笠さんたちに手順を教えれば、いけるんじゃないかな」
雲居はゆっくりと口元を上げた。
「……霧江」
「はい」
「それは、売れますわ」
「やっぱり言うと思った!」
朝凪が、夕凪の部屋から顔を出した。
「静かにして。夕凪、寝た」
「すみません!」
私と雲居が揃って頭を下げる。
篠は口元を押さえて笑っていた。
*
夕方の台所は、いつもより少しだけ慌ただしかった。
篠が野菜を切り、私は鍋の火加減を見ている。朝凪は妹の様子を確かめながら、水と食器を運んでくれた。
雲居も山猫商会から持ち帰ったものを片づけると、何やら夕飯の手伝いを始めた。
「雲居、帳面は後でいいの?」
「今夜は後回しですわ。それより、こちらはどのくらい刻めばよろしいの?」
「えーと、夕凪ならもう少し細かくするかな」
「……わたくしたち、あの子に頼りすぎではなくて?」
「本当にそう思う」
思わず笑ってしまった。
朝から気にかかっていたことが、また胸に戻ってくる。
家事を分担しているつもりで、結局は夕凪が仕上げてくれていた。
「明日、三笠さんにも相談してみるかな」
「何を?」
「洗い物でも洗濯でも、少しは楽になる道具。今のままだと夕凪にばっかり負担がかかるから」
「……よろしいですわね。売り物にもなりそうですし」
「すぐそっちに行くなあ」
でも、雲居の表情は明るかった。
さっきの言葉が気にならないわけじゃない。
それでも、今は一緒に夕飯を作っている。
そのことを、ありがたいと思った。
夕凪はまだ眠っている。
明日の朝も、無理に起きてこなくていい。
包丁の音なら、私たちでも鳴らせるのだから。
……まあ、夕凪と同じくらいおいしく作れるかどうかは、また別の話だけど。




