ep.1
「……神崎くんのことが好きです。私と、付き合ってください」
目の前の彼女──中原雫さんは、震えた小さい声でそう言った。
十七年間生きてきて、僕は初めて告白というものをされた。
『放課後、校舎裏に来てください』
下駄箱に入っていたその手紙を見た時、真っ先に頭に浮かんだのは「告白」という二文字だった。
誰かのいたずらかもしれない。呼び出された先で笑いものにされる可能性だってある。それでも、行かないという選択肢は差し出された誠実さを踏みにじるようで取れなかった。
「急にごめん。神崎くんのこと、ずっと前から、気になってて」
中原さんは、ブレザーの裾を両手でぎゅっと握りしめていた。紺色の生地に深いシワが寄っている。
話したことのない相手からの告白に、僕の足は、地面に縫い止められたようになった。返事を探して口を開くが、声が出てこない。
絵ばかり描いて、人とあまり話さない僕にとって、初対面の相手はそれだけで苦手だ。それが女子なら尚更だった。何か返事をしなければならないと分かっているのに、言葉がぶつかり合ってまとまらない。「ありがとう」という言葉が喉まで来て砕け、「少し待って」も、形にならないまま溶けた。「どうして僕なんか」、という問いが声の出口を塞いでいた。
上を見ると、桜が風に揺れている。枝の隙間から光と花びらがゆっくり落ちてくる。ひとひらの花びらが中原さんの肩を掠めて地面に落ちる。それが土に触れるより先に、また次の欠片が落ちる。僕は目の前の彼女から逃げるように、その無意味な反復を細かく目で追っていた。
「……迷惑、だったかな」
長い沈黙に耐えかねたのか、彼女の声に明らかな不安が滲んだ。違う、迷惑なんかじゃない。でも、正しい嬉しさの返し方も、傷つけない断り方も、僕は持ち合わせていなかった。
答えを急かすように、一際強い風が吹いた。花びらが舞い上がって、視界が薄桃色に霞む。
「ごめん。……付き合えない」
言い終えた瞬間、自分でも分かった。これは正しい言葉じゃなかった、と。
「理由、聞いてもいい?」
『それ』を言ってしまえば、気味悪がられるかもしれない。嘘をつけば、もっと彼女を傷つける。黙れば、それはそれで最低な男になる。逃げ場なんてどこにもなかった。
「その……中原さんのこと、あまり知らないからさ」
「……そっか。そうだよね。いきなり、ごめんね」
中原さんは俯いた。華奢な肩が小さく落ちるのが見えた。言葉越しに彼女を傷つけてしまったことが分かる。
「だから、友達から────」
言い終える前に地面を蹴る乾いた音が響いた。一歩、二歩と足音が遠ざかる。スカートと黒髪が激しく揺れる。呼び止める言葉は肺の奥に張り付いたままで、伸ばしかけた僕の手は空を切ったところで虚しく止まった。
「あ……」
追いかける勇気もなく、ただその場に残されたのは僕と枝の揺れる音だけだった。足元には踏まれて汚れた花びらが無惨に散らばっていた。
♢♢♢
「ねえ、神崎君」
次の日の昼休み、席を立ってすぐに声をかけられた。振り返ると、女子が二人立っていた。一人は腕を組み、もう一人は細長い水筒を握っている。嫌な予感しかしない。
「なんで雫のこと振ったの」
「昨日、ずっと泣いてたんだけど」
数人のクラスメイトの体がこちらに向く。やっぱりそうだ。昨日の出来事がすでに僕の手を離れて「他人の娯楽」や「憤りの材料」に変わっている。
「……ごめん」
喉が石のように固まって、不明瞭な声しか出せない。一歩、一歩と女子たちが距離を詰めてくる。
「いや、聞きたいのは謝罪じゃなくて理由なんだけど」
「なんか言いなよ」
「好きじゃないなら呼び出しなんか行かないでしょ普通」
「……」
僕だって、あんなふうに傷つけたかったわけじゃない。ちゃんと話せれば違ったかもしれないのに。
言い返せずに、頭の中で言葉だけが溢れていく。いつの間にか、辺りのざわめきが止んで教室の空気はこちらを向いていた。僕の言葉を待っているのか、女子たちも何も言おうとしない。重たい沈黙が目の前で張り詰めている。呼吸が浅くなり、脳の奥が熱を持っているように感じた。
「おい、朔。何ボーッとしてんだよ、早く飯行こうぜ」
後ろから場違いな軽い声が差し込んだ。聞き間違えることのない声。幼馴染の杉本奏多だった。両耳で揺れる金のピアス。緩くかけられたパーマの黒髪。第二ボタンまで開けたシャツ。見るからに「素行の悪いヤンキー」といった風貌の彼が目の前に立ちはだかる。先ほどまで息巻いていた女子たちは反射的に一歩身を引いた。
「マジで腹減ったわ。早く行かないと焼きそばパンなくなるって。死活問題だから」
「ちょっと、今それどころじゃ──」
「あー、はいはい。わりぃな、俺らの飯のほうが大事なんで」
奏多は女子の声を上から雑に塗りつぶすように言った。『行くぞ』と有無を言わせない勢いで肩を組んでくる。それが助け舟だと気づいた僕は小さく頷いた。
「は? 逃げんの?」
「最低」
突き刺される言葉を無視して、僕たちは振り返らずに教室を飛び出した。廊下に出ても奏多は肩を組んだまま、僕を半ば引きずるようにして歩を進める。
突き当たった角を曲がり、教室から十分に離れた階段の踊り場まで来たところで、奏多が突然その場に崩れ落ちた。
「あーーー! クッソ怖かったわあの女子ども! んだよあれ。貫禄ありすぎだろ。般若みたいな顔しやがって」
さっきまでの余裕はどこへやら。奏多は大げさに自分の胸を叩き肩を揺らしている。そんな彼を見て、ようやく僕も息を止めていたことに気付いた。苦しい。肺がすっかり空っぽになっていて、吸い込む空気が冷たくて痛い。
「本当にありがとう。奏多がいなかったら、多分八つ裂きにされてた」
「気にすんな。にしても、昨日どうしたんだよ。結構噂なってるけど」
「……」
親友から投げかけられたまっすぐな問いに僕は黙り込んでしまった。これまで、奏多に対して隠し事なんて一度もしたことがなかった。
「話したこともないし、どう接していいかわからなくて。気づいたらひどい断り方してた。……最低だよね」
自分の中の「普通」が少しずつ、狂い始めている気がした。昨日からずっと、校舎裏で聞いたあの声が頭から離れない。奏多は少しだけ黙り込み、それから僕の肩をバシッと軽く叩いた。
「まあ、後でゆっくり聞くわ。今は無理そうな顔してるし」
「ごめん」
「謝んなって。絵描いてる時以外、基本ポンコツなんだから仕方ねーよ」
「……それ、慰めてる?」
「おうよ。親友特製の最高級の慰めだ。ウジウジしてないで早く行くぞ」
彼方はいつものおちゃらけた調子で、先に歩き出す。僕はその背中を追って、ようやく足に力を込めた。




