第十六話 ゼンヨウ病院①
真っ白な空だった。イチハナは何度か、ゆっくりと瞬きをする。
「…………」
緩やかに、意識がはっきりしてくる。よくよく目を凝らしてみれば、水玉模様が描かれた桜色の天井だった。壁も床も、同一の装いだ。大小の円はどれも淡い色合いで、包み込むような温もりを感じる。
病院のベッドに、イチハナは寝かされていた。タマが連れてきてくれたのだろう――ぼんやりと、そう推測した。
ギシ、と物音がする。傍の椅子に腰かけていた女が、立ち上がって覗き込む。
「……あっ、目、覚めました? よ、よかった……!」
その若い看護師は心から安堵したように笑み、足早に部屋を後にした。
「…………」
病室には、三つのベッドが設置されている。隣には、シーバが眠っていた。彼の奥の窓からは、虹色の空が見える。なにも考えず、イチハナがその風景を目に映していると、扉が勢いよく開いた。
「イッチャン! 大丈夫!?」
つんのめるように入ってきたタマが、すぐさまイチハナへ寄る。女の医師と先程の看護師も続き、ベッドを囲んだ。
「起きた! 目ぇ覚めたんだな! なあ、イッチャン!」
「はいはい、どいてどいて」
騒ぎ立てるタマを押しやって、医師は淡々とした手つきでイチハナを触診する。
「うん、大丈夫みたいね」
彼女はあっさりそう告げ、姿勢を戻した。一瞬で終わった診察に、タマは口を尖らせる。
「先生、ほんとにちゃんと診た? 採血とかレントゲンとか、ちゃんとした?」
「ん? ちゃんと診たわよ」
「ほんとかなー。今チョチョッと脈測っただけじゃん。そんなの俺にも出来るって」
「うちみたいな小さい病院は最新設備整ってなくて、電気が復旧するまでマトモな検査してあげられないの。でも出来る限りの処置はしたから、安心して」
医師はタマからイチハナへと視線を移し、微笑む。
「どこか違和感がある所は? 視界はチカチカする?」
イチハナはなにか引っかかって、彼女の顔をしばらく眺めた。枕の上で少しだけ首を振ってみせると、医師は頷く。
「脈拍も安定してる。もう動いても平気よ」
彼女とは対照的に、タマはまだ心配そうだ。眉を下げ、イチハナを見下ろしている。
「なんでイッチャンも……シーバも、こんなにひどい怪我……。誰にやられたんだよ……」
「なに言ってんのよ。あんたが連れてきたんじゃない。〝ゼータ〟って奴にやられたからって」
「え……? あ……そうだっけ……。そう、だったかも……」
困惑した様子のタマを、医師と看護師が黙って見つめる。やがて医師は溜息を吐き、窓の外へ視線を伸ばした。
「……やんなっちゃうよね。国が分かれてただでさえバタバタしてんのに、妙なのがうろついてるなんてさ。ほんと……」
イチハナは彼女の呟きに、はっとした。こうしている間にも、世の中は荒廃していく。治安を維持するという自らの使命を思い出し、掛布団を剥いだ。
「巡視に行く」
上体を起こそうとしたイチハナを、タマが抑止する。
「だーめだって! まだ意識戻ったばっかなんだから! とりあえず休めよ。年長者はああ言ったけど、やっぱそんなすぐ動かねーほうがいいって!」
「年長者って、私の事? 言っとくけど、私は三十代前半だからね? 年寄り扱いしないでよね」
その言葉にタマが笑うと、医師も笑った。
「電子機器は全部使えないから、なんかあったらあんたが直接呼びに来て」
「うん」
「じゃ、よろしくね」
医師はひらひらと手を振り、看護師と共に部屋を出ていった。
屋上では、桜色をした二枚のシーツがはたはたと風に揺れていた。空はじんわりと、赤味を濃くしていく。その色を背負った雲が、緩やかに泳いでいる。
一番高いはずの場所に立って周りを見渡してみると、この場所がそれ程高くなかったのだ、とイチハナは思い知らされた。新しい高層の建物が並ぶ一方で、その隙間に埋まるようにしてある、古く低い小さな建物。この病院は後者だ。外観のせいか、極彩色の街の中、淡い色だけに彩られたここは遊離しているように感じる。
「……なあ、そろそろ部屋に戻ろうぜ」
フェンス際へ立ったままのイチハナに、後ろのタマは肌寒そうに肩をすぼめつつ言う。
「お前だけ戻ればいいだろう」
「それは、なんかやだ。なあ、戻ろうって。風邪でも引いたら怒られるぜ。あの先生、ちょー強いよ。俺の園にいた姉ちゃんみたい。イッチャンも、あのカルテ挟んだバインダーで殴られるよ?」
イチハナはそれを無視し、なおも動かない。フェンスを掴み、遠くを眺める。
「あの時〝ゼータ〟は確かに俺とタマを見た。でもなぜ、斬りかからなかったんだ……。まるで、見えていないように……」
室内に戻ろうとしないイチハナへ、タマは諦めたように息を一つする。彼も隣に並んだ。
「〝ゼータ〟ってさ、殺人鬼だったよな? あれ……前に機械とか、言ってなかったっけ」
「…………」
「そんな奴、早く捕まえなきゃいけないんだろうけど……。街の皆も大切だけどさ、イッチャンとシーバの命も、おんなじように大事なんだ。あんま無茶しないでくれよ。いなくなっていい奴なんて、いねーんだから」
「…………」
背後の扉が、錆びた音を上げる。見てみれば、看護師が立っていた。
「お邪魔してすみません。もう少ししたら、お部屋にお食事を準備しますね」
笑顔で頷くタマに、彼女はやや眉を下げる。
「あの、その前に……先生が呼んでいます。診察室へ来てくださいませんか」
「え、俺? イッチャンじゃなくて?」
「ええ」
「なんで俺? あの先生テキトーに話し相手呼びつけてないよな?」
タマが遠慮なしにそう言うと、看護師はくすくすと笑った。
「実を言うと、ニヤビ先生は数日前にこちらへいらしたばかりなので、私もよくは知りません。でも、とても知識の広い方ですよ。こんな隔離された場所で、私もずっと一人でしたから、いて下さるだけでも本当に心強いんです。きっとなにかお考えがあって、呼んでいるのでしょう」
納得いかないふうにタマは首を傾げながらも、看護師の横を過ぎて階段を下りていった。
「あの、出来ればイチハナさんも、病室に戻って横になってください。安静にして悪い事は、ないと思いますから……」
「……」
「先生と私が、精一杯看病します……。どうか……神様と、天使様のご加護を……」
彼女は深刻な面持ちで俯き、下ろした状態の両手指を組んだ。それは微かに震えていた。
一人戻った病室は、先程からなにも変化がない。シーバも横たわったままだ。イチハナは、壁に掛けられた上着を見やる。ホルスターも銃もある事を確認し、内ポケットから携帯電話を取り出した。
シーバのほうを向く形で、自分の寝ていたベッドへ腰を下ろした。画面を操作し、アプリケーションを起動する。地図を現在地に合わせると、一つだけ赤い印がある。それに触れ、シーバの犯罪歴を読んだ。どの一件をとっても、眉をひそめるようなものばかりだ。末尾には、区役所での銃刀所持が追加されている。
「いなくなって、いい奴なんて……、か」
先程のタマの言葉を反復する。様々な感情が、体の中心に渦を作るようだ。イチハナは複雑な思いで、シーバの横顔を見つめた。
扉のスライドする音がした。浮かない表情で、タマが進み入る。
「シーバ、どう?」
「変わらない。……お前のほうは、なにかあったのか」
「や、別に。何個か質問されただけ」
彼はイチハナの近くまで来ると、壁へもたれた。
「……イッチャンは、どうする?」
「なにが」
「シーバが……もし、このまま……目ぇ覚まさなかったら……」
「……」
「いっつも喧嘩してるけどさ。イッチャンだって、悲しいよな?」
タマの視線が、まっすぐにこちらへ向けられる。イチハナはそれを一瞥しただけで、顔をそらした。
「……シーバの事だ。そのうち目を覚ます」
「そう……だよな……」
ノック音がして、二人はそちらを見やる。看護師が会釈をした。
「お食事、運びますね」
彼女は廊下に停めた薄黄色のカートから、イチハナとタマのベッドテーブルへ丁寧にトレイを運んだ。最近の配給量からすると、充分過ぎる程の食事だ。イチハナは目を細めた。
「あなた達や、他の患者のぶんはどうなる?」
「……大丈夫です。患者さんは、ご自分の事だけ心配なさって」
にこやかに、彼女はそう言った。
夜になった。病室や廊下の下部にある非常灯で、どうにか物体を確認出来る明るさは保たれている。出入口に近いベッドでは、タマがすうすうと寝息を立てる。イチハナは仰向けのまま、暗闇の奥を見つめていた。
「…………」
隣のシーバもタマと同じく、瞼を閉じて呼吸している。イチハナは彼を見ないまま、口を開いた。
「……いつから起きていた?」
シーバが、ゆっくりと目を開ける。
「……僕は、助けてもらったとは思っていないからな。お前が勝手に手を出したんだ」
彼もまた、ただ仄暗い天井を見つめた。闇の中で、その二つの瞳がガラス玉のように光っていた。
【続】




