12 メイドは執事に伝えたい
そして迎えた、五月の林間学校当日。
「ではこれより、班ごとに分かれてカレー作りを開始します!」
号令とともに、初日の炊飯実習が始まった。
「悠斗、私料理できないから手伝って」
「……そのような実習なので、お嬢様がたでやらないと」
「えぇーなら見本見せなさいよ? みんなもそう思うでしょ?」
華凛が周囲のクラスメイトたちを巻き込むようにして、炊飯場の一角がにわかに盛り上がり始める。
悠斗は内心で激しい胃痛を覚えながらも、表面上は完璧な使用人としての微笑みを崩さなかった。ここで無様に断れば、かえって目立ってしまい月若家の威信にも関わる。
「……承知いたしました。では、微力ながらお手本を示させていただきます」
慣れた手つきでシャツの袖を捲り上げる。手元に用意された包丁を握り、人参を前に置いた。
炊飯場に、小気味よく、そして信じられないほど高速でリズミカルな音が響き渡った。寸分の狂いもなく、綺麗な半月切りにされていく人参。
「うお、すっげぇ……!」
「早っ!? 本当に何でもできるんだな……」
周囲の生徒たちから次々と感嘆の声が上がる。華凛は「ふふん」と、まるで自分が褒められたかのように満足げに胸を張っていた。
悠斗は手元を動かしながら、ふと、少し離れた他班の様子に目を向けた。
そこには、同じようにクラスメイトに囲まれている日ノ内大和と、その背後に直立不動で控える瑠衣の姿があった。大和は面白そうにこちらを見てニヤニヤと笑い、そして瑠衣は――。
「やっぱり月若はすごいね? 専属にシェフまがいのことをさせるなんて」
「あんたには関係ないでしょ、日ノ内はあっち行ってなさい」
「おや、冷たいね。僕はただ、そこの彼の手際が見事だから褒めただけさ。日ノ内には、使用人にそんな雑用をさせる必要がないから新鮮でね」
大和はフッと余裕のある笑みを浮かべ、わざとらしく肩をすくめてみせる。完璧なまでの「嫌味なエリート」の演技だった。
「雑用とは失礼ね。これは月若の高度な教育の一環よ。与えられて育ってきた日ノ内とは違うのよ」
「ふん、まあいいさ。僕たちの班の方が、君たちのところより何倍も美味しいカレーを作ってみせるからね。行こう、富士見」
「はっ。大和様」
大和が踵を返し、瑠衣がその後ろを影のように追っていった。
「さっきはごめんね華凛、意地悪いって」
「大丈夫! 大和と話せて嬉しかったから」
カレー作りを終わり、悠斗達は密会場所のバンの中にいた。「近くに住む月若関係の会社が挨拶をしたい」と適当なことを言って呼び出したのだ。
窓の外からは他の生徒たちの賑やかな声が遠く聞こえるが、遮光カーテンで完全に目隠しされた車内は、大富豪の令嬢と御曹司が誰の目も気にせず過ごせる唯一の聖域となっていた。
「本当に完璧な悪役だったわよ、大和。クラスのみんな、完全に信じ切ってたわ」
「華凛の返しも鋭かったよ。おかげで周囲に一切の疑念を持たせることなく、こうして時間を確保できた」
大和が愛おしそうに華凛の頭を撫でると、華凛は嬉しそうにその手に頬を寄せている。バックシートで展開されるバカップル……もとい、主たちの甘い世界をバックミラー越しにあえて見ないようにしながら、フロントシートの悠斗と瑠衣は前方を凝視していた。
バンという密閉された狭い空間のせいで、すぐ隣に座る瑠衣の肩の温もりや、ジャージから漂うほのかな新緑の香りが嫌でも意識されてしまう。
「……星原さん」
瑠衣が、主たちに聞こえないような小さな声で呼びかけてきた。
「ん? なに、富士見さん」
「先ほどの炊飯実習での包丁さばき、実に見事でした。やはりすごいですね、あなたは。それに比べ、私は……」
瑠衣は膝の上のバインダーを少しだけ強く抱きしめ、ふっと視線を落とした。いつも完璧な彼女が、料理という慣れない分野で思い通りに動けなかったことを、まだ少し気に病んでいるらしい。いつもの凛とした横顔に宿る微かな翳りを見て、悠斗は優しく首を振った。
「富士見さんのことも、一般科の皆さんが褒めていましたよ?」
「え……?」
思いがけない言葉だったのか、瑠衣が驚いたように黒い瞳を丸めてこちらを見る。悠斗は前方に視線を戻し、気恥ずかしさを隠すように苦笑混じりで言葉を続けた。
「火起こしや料理が不慣れそうな方にさりげなく声をかけたり、先回りして洗い物をしてくれたり、色々なところで気が利くって、あちこちの班の人が言っていました。何も料理と言っても、食材を扱えるのが全てではありませんから。富士見さんのサポートがあったからこそ、みんな楽しくカレーを作れたんです」
「星原さん……ありがとうございます」
隣から、小さく息を呑む気配が伝わってくる。
「ちょっと二人ともー。バックミラー越しでも分かるくらい、そっちもいい雰囲気じゃない?」
後部座席から華凛のニヤニヤとした声が飛んできて、二人は同時に背筋を跳ね上げさせた。
「お嬢様、からかわないでください。私たちは次のレクリエーションに向けた、戦術的意見交換を――」
「そうですよ、華凛様。私たちは日ノ内と月若の連携を深めるための、業務的な……」
「はいはい、業務報告業務報告。でも、日本経済を守るためにも、現場の使用人同士が仲良くしておくのは必要不可欠でしょ?」
大和もクスクスと笑いながら、華凛の肩を抱き寄せる。主たちのあまりのマイペースさに、フロントシートの二人は揃って深くため息をつくしかなかった。
◇
帰り際の自動販売機、夕暮れに染まる富士山の麓で、二人は並んで立っていた。
「……星原さん。林間学校は終わりましたが、来月にはまた別の合同行事が控えています」
「そうだね。またあの二人に振り回されると思うと、今から胃が痛いよ」
悠斗が苦笑しながら言うと、瑠衣はジャージの裾をきゅっと指先で摘み、少しだけ躊躇うように視線を落とした。
「あ、あの……明日もしよろしければ、お出かけしませんか」
「え……なんか、下見あったけ?」
「これは、その……星原さんが以前おっしゃってくださった、私的なものです。私、もっと仲良くなりたいです。星原さんとできれば……以上に……」
消え入りそうな声。だけど、瑠衣は途中で言葉を濁すことなく、真っ直ぐにその黒い瞳で悠斗を見つめてきた。その破壊力は、悠斗の心臓をこれでもかと激しく跳ね上げさせるのに十分すぎた。
「富士見さん……」
悠斗はごくりと喉を鳴らし、熱くなる顔を隠すことも忘れて、小さく、だけどはっきりと微笑んだ。
「……うん。喜んで。せっかくの明日の休みだし、丸一日、二人でお出かけしよう。俺も、富士見さんと――瑠衣ともっと、一緒にいたいから」
「っ……!」
名前で呼ばれた瞬間、瑠衣の大きな瞳がパッと分かりやすく歓喜に揺れた。嬉しさを噛み締めるように、ぎゅっと唇を結んでコクコクと何度も頷いている。
「じゃあ、どこに行くかは」
「渋谷の最初に行った場所にしましょ。今度は富士見瑠衣として同行させてください」
はにかむように、今日一番の輝かしい笑顔を見せる彼女。
これから先も、あの我儘な主たちには徹底的に振り回され続けるのだろう。周囲の目を欺き通し、世界の危機と隣り合わせの隠密サポートに奔走する胃の痛い日々は、きっと高校を卒業するまで終わらない。
だけど隣には、頼りになる日ノ内のメイドが隣で同じ歩幅で歩んでくれる。
それなら大丈夫だろ、きっとこの先の未来も。




