034 若き日の俺が、靴底と一緒に剥がれ落ちた日
みなさん。
暑いですね。
いや。
もう「暑い」とか、そういう段階じゃない。
あぢぃ~。
毎日、あぢぃ~と言いながら、アイスバー咥えたままで死んでいます。
たぶん今のレイジは、生命活動をしているというより、冷房の風によって辛うじて現世へ固定されている状態です。
外へ出るだけで、体力ゲージが目に見える速度で減っていく。
玄関を出て三分。
もう帰りたい。
信号待ち五分。
もう故郷が恋しい。
いや。
家、まだ見えてるけど。
とりあえず、コンビニへ入ろう。
そんな猛暑が続いていた先週。
娘たちに誘われて、人生で初めて――近所のバッティングセンターへ行ってきました。
――◇――
ゴルフの打ちっぱなしなら、昔はよく行っていました。
でも、バッティングセンターは初めてです。
「パパ、打てるの?」
娘が聞く。
「打てるに決まってんじゃん」
即答。
なぜならレイジさん。
野球部へ入ったことはありませんが、ン十年前、社会人になったばかりの頃、会社の草野球チームに所属していました。
打順は一番。
みんなが一番を嫌がったので、手を挙げました。
そして守備位置は――ピッチャー。
持ち球は速球とカーブ。
以上。
毎回外野まで走るのが面倒だったし、球種も二つあれば十分だと、ピッチャーをやっていました。
若き日のレイジさんも、今と変わらずちゃんと雑な男でした。
しかも以前、娘たちには、マウンドで投げる若かりし頃の写真を見せたことがあります。
まあ。
実際の戦績については、話していません。
そこは歴史的資料の一部が未公開、ということでお願いします。
――◇――
バッティングセンターへ着くと、思った以上に人がいました。
学生。
子どもを連れた家族。
友人同士。
え。
いっぱいやん。
こんな暑い日に、みんな元気だな。
正気か。
いや。
その中へ自分も来ているけど。
少し見渡すと、左奥の端だけ空いていました。
お。
空いてるやん。
レイジさん。
人混みを避けるように、一人でそちらへ向かいます。
この時、なぜそこだけ空いているのか。
少し考えるべきでした。
ですが、空席を見つけると、理由より先に得をした気持ちになる。
それがレイジさんです。
――◇――
料金は、一ゲーム三百円。
二十五球。
二千円のプリペイドカードを買えば、八ゲームできる。
三百円を八回なら二千四百円。
四百円お得。
つまり。
八ゲームやらなければ、得をしたことにはならない。
レイジさん。
当然、二千円のプリペイドカードを購入しました。
この時点では、二百球くらい余裕だと思っていました。
なんせ元ピッチャー。
元一番バッター。
昔取った杵柄。
娘たちが近くの列へ並んでいるのを横目に、一人、空いている左奥の打席へ向かいました。
ネットをくぐる。
バットを持つ。
重っ。
いや。
マジで。
硬式用のバットって、こんなに重かったっけ?
若い頃は、もっと片手で軽く扱えていた気がする。
いや。
バットは変わっていない。
変わったのは、こちら側だ。
だが、この時のレイジは、まだその現実を認めていません。
「まあ、こんなもんか」
みたいな顔で、二、三度素振りをする。
ブォン。
お。
音はいい。
当たれば飛びそう。
そう。
当たれば。
――◇――
カードを差し込む。
機械が動き始める。
レイジさん。
バッターボックスへ入る。
構える。
ピッチングマシンの中で、ボールがセットされた。
一球目。
シュッ――。
ブォン!!
ボールが通過したあとで、バットが空を切る。
……。
え。
速っ。
そして。
低っ。
ボールは、こちらの膝くらいの高さを鋭く通過していった。
いやいや。
一球目だから。
プロだって、最初はタイミングを見る。
――知らんけど。
昔のように。
首を鳴らす。
肩を回す。
二球目。
シュッ――。
ブォン!!
空振り。
速い。
低い。
三球目。
低い。
四球目。
また低い。
五球目。
もう地面から生えてきているように見える。
いや。
こんなの打てるか。
たまには甘い高めへ来いよ。
こいつ、俺の足元を狙って転ばせようとしている。
完全に悪意がある。
――◇――
しかも。
飛んでくるボールが、一つに見えない。
老眼って、
ボールまで分身するんだっけ。
バットを振った頃には、ボールはもう後ろのネットへ突き刺さっている。
バンッ。
バンッ。
バンッ。
機械だけが、正確に俺の失敗を記録していく。
十球目。
ブォン!!
空振り。
まだ一度も当たらない。
……。
少し息を吐いて、後ろを振り返る。
バットケースを持った、日に焼けた中学生くらいの球児が四人。
こちらを見ている。
そして、小声で何か話している。
「一回も当たってなくね?」
いや。
たぶん、そんなことは言っていない。
こっちは今、若き日の記憶と戦っているんだ。
――◇――
十五球を過ぎても、まだ空振り。
二十球を過ぎても、まだ空振り。
途中から、ボールを打つというより、大きな素振りを中学生四人へ披露しているだけになってきました。
ブォン!!
音だけはいい。
飛びそう。
当たれば。
二十四球目。
空振り。
残り、一球。
ここで当てれば、まだ終われる。
一球でも当たれば、昔野球をやっていた男として、最低限の尊厳は守れる。
そうしないと、ちょっと心が折れる。
レイジさん。
バットを握った腕を前に突き出す。
袖を少しまくる。
全神経を集中。
ボールが出る。
来た。
ブォォォン!!
バンッ。
後ろのネットへ。
終了。
……。
二十五球。
全空振り。
完封負け。
いや。
ここだけ、バッティングセンターというより、バッティング素振りセンターになっていた。
ボール、いらんし。
――◇――
バットを置き、ネットの外へ出る。
すると。
いつからいたのか、カミさんが立っていた。
「一球も当たんないじゃん」
……見てたんかい。
よりによって、全部。
「いや、速いんだよ。それに全部低くてさ」
「でも、なんでここでやったの?」
「え?」
カミさんが、機械の上を指差す。
「ここ、百二十キロだけど」
……。
百二十?
え。
マジか。
左奥だけ空いていた理由。
即、判明。
みんな、賢かった。
元ピッチャー。
元一番バッター。
ン十年ぶりの第一打席。
対戦相手。
百二十キロ。
全部低め。
そりゃ無理だわ。
いや。
若い頃でも無理だった可能性が高い。
――◇――
カミさんと娘たちが並んでいる方へ戻る。
そちらは八十キロから百キロ。
なるほど。
人類用。
さっきの場所は、現役野球部球児と、過去の栄光を持つ中年男性を、静かに処理するための場所だったらしい。
娘が聞く。
「当たった?」
「いや。だけど、二回くらいは掠った。チップだな。チップマン」
そこは少し盛った。
「それに全部低めで、腰が……」
すると娘が、機械の横にある赤いボタンをガラス越しに指差した。
「それ、前の人が低めの設定にしたままなんじゃないの?」
……。
赤いボタン。
高め。
真ん中。
低め。
……。
……ある。
普通にある。
そんな設定、あったんかーい。
つまり俺は。
百二十キロ。
硬式。
低め。
中年男性処刑モードで、一人だけ頑張っていたらしい。
いや。
誰かに設定されたわけじゃない。
確認もせず、自分から地獄へ入っていっただけだった。
――◇――
その後。
八十キロへ移動しました。
今度は、さすがに少しは当たる。
だが、俺の頭の中にある映像とは、まったく違う。
頭の中では、全部ホームラン。
白球は高々と舞い上がり、青空の向こうへ飛んでいく。
娘たちからの歓声。
周囲の客も立ち止まる。
「あのおっさん、何者?」
そんな感じ。
現実。
コツン。
ピッチャーゴロ。
カキン。
たまに浅いセンターフライ。
打球が、夢をまったく乗せてくれない。
記憶の中の俺は、もっと強く振れていた。
もっと速く動けた。
もっと遠くへ飛ばせた。
はず。
たぶん。
いや。
本当に?
若い頃の記憶には、なぜか凡打が保存されていない。
残っているのは、鋭い当たりだけ。
長打コースへ打っても、練習嫌いで体力のなかったレイジさんは昔から、
「回れ、回れ!」
という仲間の声を背中で聞きながら、一塁ベースの上でゼェゼェと息を切らしていた。
そんな自分に都合の悪い記憶も、今までうまく薄めて保存していたらしい。
年を取った分、頭の中の自分も少しずつ更新してきたつもりでした。
でも。
まだ、ずいぶんと差があった。
――◇――
帰り際。
高校時代、野球部のマネージャーをしていた長女が言った。
「スイングは、かなり飛びそうだけどね」
お。
さすが長女。
父親を立てる術を知っている。
「――当たればね」
……。
後半、いらなくない?
――◇――
プリペイドカードは、八ゲーム分。
二百球。
買った時は、全部やるつもりでした。
しかし、四ゲーム目くらいから。
バットを振るたびに、左膝が地面へ落ちる。
ブォン。
ガクッ。
ブォン。
ガクッ。
もはやバッティングではない。
膝つき素振り。
息も続かない。
額も背中も汗だく。
腕は重く、足も動かない。
大型扇風機に当たってベンチに座っていると。
「あと四ゲームあるよ」
娘が言う。
無理。
これは、八ゲームできるカードではない。
八ゲーム分の権利を購入できるカードだ。
レイジさん。
残りを娘たちへ渡しました。
若者へ未来を託した、ということにしておいてくれ。
――◇――
すべて終わって、駐車場へ向かう。
その途中、足元に違和感が。
なんか。
ペタペタする。
左足を上げる。
靴を見る。
……。
二万円くらいした、お気に入りのスリッポンスニーカー。
左足の白い靴底が、半分ほどベロンと剥がれてた。
あちゃー。
これ、お気に入りだったのに。
ン十年ぶりに本気でバットを振った結果。
靴の方が、
俺よりも先に引退を決めていたらしい。
昨年アウトレットで買ったばかりの靴も、百二十キロの衝撃には耐えられなかった。
いや。
ボール。
一球も当たってないけど。
――◇――
【今日の教訓】
・空いている場所には、空いている理由がある
・八ゲームできるカードは、八ゲームできることを保証していない
・使い切れないお得は、ただの先払いである
・頭の中の現役と、現実の現役には大きな差がある
・そして――壊れたのは筋肉じゃない。靴底と、自信だった。
頭の中では、今も若い自分が現役なのに。
身体も靴も、本人に無断で、すっかり老朽化していたらしい。
それでも――
当たれば飛ぶ。
まあ……俺の人生、
だいたい全部そんなもんです。
「さて。ダイソー寄って、ゴムボンドでも買って帰るか」
【了】




