第九章 司祭は犯人を救おうとしていた
白い回廊を進み始めてから、ガルドは三度目に眼帯へ指を当てた。
痛みは引いていないが、強くもなっていない。歩けるなら進める――そう判断したところで、背後でリィナが腰へ手を当てた。
「止まる!」
ガルドは足を止め、振り返る。
「まだ行ける」
「あんたが行けるかじゃなくて」
リィナは周囲を示した。
「全員が帰れるかで決めるって言ったでしょ」
ガルドはなにも言わなかった。
ミラは歩きながら壁面を確認していたものの、記録を取る手は先ほどより遅い。ネアの歩調もアル=ネグラを出た頃より明らかに落ち、イオリもまだ元気そうに見えて、荷物を肩から掛け直す回数が増えている。
疲労を表へ出していないのはノクティスくらいだった。
アストラについては、そもそも数に入れる意味がない。
「周辺防衛系統。休止状態」
先を歩いていたマリーが乳白色の壁面へ視線を向ける。淡い瞳の奥に細い光が走り、続いて左側の開口部へ顔を向けた。
「侵入警戒機構。低活動。一時的休止に適した区域です」
「ほら!」
リィナがガルドを見る。
「……分かった」
「よし」
返事を聞くなり、リィナは荷物を下ろした。
アストラもその隣の壁へ寄る。
「僕も賛成」
「お前は疲れねえだろ」
「君が休むなら、僕も休むよ」
「勝手にしろ」
アストラの顔がぱっと明るくなる。
「やった」
「なんでそれで喜べるの」
リィナは理解を諦めた。
休止域と呼ばれた場所は、白い回廊が少し広がっているだけだった。椅子も卓もなく、野営に使えそうな設備もない。それでも、防衛機構に襲われないという一点だけで今の一行には十分だった。
乳白色の床へ使い込んだ布を広げ、保存食、水袋、小鍋、乾いた薪の代わりとなる携行加熱具を並べる。世界の底へ続く古代施設の中へ、急に傭兵の野営ができあがった。
「これ、温めて大丈夫ですよね?」
イオリが鍋を置きながらマリーを見る。
「当該食料への熱処理は危険性低」
「マリーさんに聞くと、料理が実験みたいになるな……」
「食べられればいいよ」
リィナは保存肉を切り分ける。
「お前の料理基準、低いな」
「地下で味に注文つける人いる?」
「僕は君が作ったものなら――」
ガルドが即座に遮る。
「作らねえ」
少し離れた場所では、ネアが座ったまま食事を受け取ろうとしない。リィナがパンと器を持っていった。
「はい」
「……いい」
「食べないと歩けないよ」
「金ないけど」
「あとでガルドに請求する」
「なんで俺だ」
「責任者っぽいから」
「誰が決めた」
ネアの口元が僅かに緩む。
「じゃあ遠慮なく」
「お前も乗るな」
ネアは受け取った。
保護されているような顔もしなければ、施しを受けた顔にもならない。皆と同じパンを割り、同じ薄いスープを飲む。
リィナも、そこにはなにも言わなかった。
マリーだけが立っている。
イオリが保存肉を噛みながら顔を上げた。
「マリーさん」
「なんですか」
「食べないんですか?」
「栄養摂取は不要です」
「味は?」
「質問意図を要求」
「美味しいとか、不味いとかです」
イオリは自分の肉を少し持ち上げた。
「これ、美味しいですよ」
「“美味しい”は生存に必要ですか」
「必要ではないです」
「では不要です」
会話が終わった。
イオリが保存肉を見下ろす。
「すごい切られ方した……」
「勧めただけなのにね」
リィナが笑う。
マリーはすでに別方向を見ていた。
食事を続けながら、帰還経路、残りの水、ノクティスの拓本、ネアの資料、誰がなにを持つかと話題がいくつか移る。
やがて会話の中心からマリーが外れてしばらく経った頃、ガルドは気づいた。
白銀の少女の視線が、イオリの手元にある保存肉へ向いている。
一度見て、離れる。
少しして、また見る。
ガルドはなにも言わなかった。
「イオリ」
「はい?」
呼ばれた本人が顔を上げる。
「味覚情報の取得を試行します」
イオリの動きが止まり、リィナまで手を止めた。
「……食べます?」
「試行します」
「どうぞ」
小さく切った肉を差し出す。
マリーは指先で受け取り、一度だけ観察してから口へ入れた。
噛む。
全員が少しだけ見る。
「どう?」
耐えきれなくなったリィナが先に聞いた。
「塩分。油脂。糖質」
「そうじゃなくて」
「香気成分――」
「だから、美味しいかどうか」
マリーの咀嚼が止まる。
数秒。
「評価基準が不足しています」
「そっか」
リィナは妙に素直に引いた。
マリーは最後まで肉を食べたが、追加は要求せず、元の位置へ戻った。
しばらくして、イオリの袋に残っている同じ保存肉を一度だけ見る。
ガルドはそれも見ていた。
アストラがガルドの視線を追う。
「なに見てるの」
「別に」
マリー。
保存肉。
少し不満そうな顔をしたが、なにも言わなかった。
食事が終わると、ガルドは立ち上がった。
中央へネアの紙束を置き、その周囲へミラの記録、ノクティスの文書、自分の現場覚書を並べる。
「じゃあ、整理するぞ」
「珍しくちゃんと会議するんだ」
「殴れば解決する話じゃねえ」
ノクティスは並べられた資料へ目を向けたままだ。
「初めからそうだと思います」
リィナがそちらを見る。
「ノクティスに言われた」
「お前も大概だろ」
「必要な時だけです」
「そこ否定しないんだ……」
ネアがオルフェンの研究資料を開く。
前半は文字の大きさも揃い、余白も十分に取られている。ところが後半へ進むにつれ、書き込みや訂正、横線、追記が増え、筆圧まで変わっていた。
「ここ」
ネアが指す。
古代の鎖片。
神と人の接続を示す図。
依代。
神格安定化。
深層施設。
その中で、同じ古い語が何度か繰り返されている。
「後半だけ筆圧が違う」
ミラが紙の端へ指を添えた。
「焦ってたんじゃない」
ガルドが乱れた後半の筆記へ目を向ける。
「内容は」
マリーが資料を見る。
「古代語翻訳誤差を複数確認」
「間違ってた?」
ネアの声が少し硬くなる。
「一部」
「……あの人、それで研究してたの」
ガルドも後半の乱れた筆記を見る。
「だから死ぬ前に止めた可能性もある」
リィナがガルドを見る。
「まだそこは決めない?」
「順番だ」
次にミラが自分の記録を広げる。
「過去数か月、アル=ネグラ由来と思われる古代遺物が複数、地上へ動いてる」
「前に言ってたやつ」
「うん」
正規の古物商も、主要な闇市場も、神殿の正式な買付も通っていない。それでも終着だけはいくつか追えていた。
「最終的にオルフェンの研究へ入った品が複数ある」
「オルフェンが買ってた」
「それだけじゃない」
ミラは別紙を置いた。
名義も、受取場所も、支払い方法も少しずつ違う。一枚だけなら同一人物が使ったとは証明できない。
「別名義でも同系統の品が集められてる。ただ、鎮脈薬の購入記録がある」
リィナが顔を上げた。
「あ」
ガルドも紙を見る。
「レヴァン」
「同一人物の可能性が高い」
「証明は」
「まだ完全じゃない」
「なら可能性だ」
「うん」
そこで止める。
ノクティスが、自分の追ってきた古びた権利書を出した。
高位エルフの一族から依頼され、彼女が探していたものだ。
「私が探していたものです」
「土地の権利書」
「そう思っていました」
ノクティスの指が古い文章を辿る。
都市成立以前の区画所有。
通行。
そして。
「《神人結合区域への通行権》」
リィナが眉を寄せた。
「土地じゃない?」
「土地ではあります。ただ、依頼人が求めていたものは、所有権そのものではなかったのかもしれません」
ミラが古びた権利書へ目を落とす。
「施設へ入るための、古い権利の証明」
「可能性はあります」
「そこは今追わなくていい」
ガルドが切った。
「同感です」
マリーが文書へ視線を向ける。
「“結合”の翻訳精度を修正します」
「なにになりますか」
「現行語に完全一致する語はありません」
「近いのは?」
「接続統合」
その言葉で、全員が僅かに止まった。
ガルドは眼帯へ触れない。
「接続」
「当該施設群は、複数接続種別を扱う構造と推定」
床へ並んだ紙を、ガルドが一枚ずつ位置を変えていく。
「オルフェンは地上で、古い神人接続技術を調べてた」
「うん」
ネアが答える。
「レヴァンは、消えかけた神を安定させるための物を集めてた」
「その可能性が高い」
ミラが続ける。
「この権利書は、その施設が昔から存在してた証拠」
「はい」
ノクティスが頷く。
「マリーは、その施設の言葉を読める」
「概ね肯定」
リィナが全体を見る。
「じゃあ……司祭殺しと、ここ。完全に繋がった?」
「ああ」
今度はガルドも保留しなかった。
「全部、同じ事件だ」
休止域の空気が変わった。
ここから最初の死体へ戻る。
ガルドは神殿で取った現場記録を中央へ置いた。
「殺した奴だ」
リィナの顔から軽さが消える。
「最初から順番に戻す」
ネアの足跡は、血が落ちた後に死体へ向かっている。つまり彼女は殺害後に研究室へ戻った。
杯は二つあり、ネアは飲んでいない。片方は鎮脈茶で、レヴァンが常用していたと見られる鎮脈薬の購入記録へ繋がる。
そして、オルフェンの傷に残った黒銀の痕は、ガルドの装備へ残るレヴァンの攻撃痕と高い一致を示していた。
ミラは中央へ並べられた現場記録を見たままだ。
「心理反応だけじゃ証拠にならない」
「ああ」
オルフェンの名を出した時の反応や、殺害を問われても否定しなかったことは補助にしかならない。
重要なのは、現場に残ったものだった。
ガルドは並んだ記録を見る。
もう成立している。
「殺したのは、レヴァンだ」
静かだった。
誰も驚かなかった。
最初から、そう見えてはいた。
だが、見えることと決めていいことは違う。
ネアが小さく息を吐いた。
「……あの男」
リィナがガルドを見る。
「やっぱり」
「やっと言える。証拠が揃った」
ミラが一度頷いた。
「ただ」
「ああ」
「どうやって殺した?」
そこが残っている。
オルフェンの胸には、深く裂けたように見える傷があった。
それなのに、血は少なすぎた。
ネアが現場図へ目を落とす。
「私が戻った時も、思った」
「普通の傷なら、もっと出る」
ガルドがマリーを見る。
「あの黒銀線。解析できるか」
「現物が存在しません」
「記録は」
ミラが現場スケッチを出した。
傷縁と黒銀線の位置。
そこへ、ガルドの装備に残った痕を加える。
「精度低下を許容した比較解析を実施」
「言い方が毎回怖いな」
リィナが呟く。
数秒後、マリーが顔を上げた。
「同系統神威痕跡と推定」
「攻撃特性は?」
ミラが聞く。
「物質破壊を第一作用とする挙動ではありません」
「剣なのに?」
「外見形状と作用原理は別です」
「続けろ」
ガルドに促され、マリーが壁面へ簡略図を出す。
「推定作用順序を提示します」
壁面へ簡略図が浮かんだ。
最初に示されたのは、肉体の傷ではなかった。
対象内部。
生命活動を成立させている、一本の接続。
「対象内部の特定接続構造を識別」
図の一点へ、神威を示す光が直接触れる。
「神威を当該接続へ直接伝達」
一本が切れた。
「接続を破断」
その直後、図の中の循環表示が急速に落ちていく。
「生命活動、および循環機能が急速に停止」
そして最後に。
切れた一点を中心として、肉体側へ裂け目が広がった。
「接続破断に伴い、関連する物質構造へ二次損傷」
リィナが顔を上げる。
「……待って」
現場記録へ視線を落とす。
「じゃあ、あの傷が先じゃない?」
「肯定」
マリーの声は変わらない。
「胸部裂傷による失血が主要死因ではありません」
ネアも現場図を見る。
「でも、傷は本当にあった」
「肯定。皮膚および筋組織の損傷は実在します。ただし、生命活動停止より後、またはほぼ同時に生じた二次作用である可能性が高い」
ガルドはなにも言わず、現場図を見た。
神殿の床。
倒れたオルフェン。
大きく裂けた司祭服。
その下に開いていた、深い傷。
それなのに。
血が少なかった。
そして傷の中には、一本だけ残っていた。
黒銀。
あの時は、傷の中に線が残ったように見えた。
違う。
黒銀の一本を中心に、肉が裂けていた。
線は、傷のあとではなかった。
傷の方が、あとだった。
「だから……」
リィナも同じ記録を見ている。
「あんなに裂けてるのに、血が少なかった」
「循環機能が先行して停止した場合、外見上の損傷規模に対し、能動的出血量は著しく減少します」
ガルドは壁面の簡略図へ視線を戻す。
切れているのは、肉ではない。
その内側。
生きている状態を成立させていたもの。
「……人を斬ったんじゃない」
「え?」
「繋がってるものを斬った」
「厳密には、“生命活動を成立させる接続系の一部”です」
「長い」
「精度を優先しました」
ミラが記録から顔を上げる。
「接続は選べる?」
全員の視線がマリーへ向いた。
「攻撃者が対象接続を識別可能であれば」
ガルドの顔が僅かに変わる。
リィナも気づいた。
あの広間でガルドが見ていたのは、レヴァン本人でも、エリュネでもない。
二人の間に見えた線だった。
アストラがガルドへ目を向ける。
「ガルド」
「なんだ」
「まだ、今すぐ決めなくていいよ」
「考えるくらい勝手だろ」
「うん。君がそう考えるなら、それでいいよ」
声は軽い。
顔は笑っていない。
リィナが口を開きかける。
ガルドが片手で制した。
「まだだ」
選べるかもしれない。
今分かるのは、それだけだった。
「安全性、再現性、対象識別精度。いずれも不足」
マリーが淡々と告げる。
「分かってる」
今は答えではない。
ガルドは資料を閉じた。
「犯人と、殺し方は分かった」
リィナが口を開く。
「残るのは――」
ネアが聞き取り記録へ目を落とす。
「なんで殺したか」
休止域の空気が変わる。
ここまでは死体の話だった。
ここからは、生きていた者たちの話になる。
「これ」
ネアが紙束から一枚抜いた。
オルフェンの筆記とは違う。
聞き取り記録。
「研究対象聞き取り」
ミラが読む。
「レヴァン」
ガルド。
そして。
「エリュネ」
記録に残っていたレヴァンの故郷は、もうない。家族も死に、かつての仲間も長い時間の中でほとんど残っていなかった。
「……人間なのに、長く生きてるんだよね」
リィナが聞く。
「ああ」
理由までは掘らない。
今必要なのは、時間だけだった。
若い頃のレヴァンを知る人間は、もうほとんどいない。
一方のエリュネも、大きな神ではなかった。
かつては小さな土地と祭り、神殿があり、旅人や農民がその名を呼んでいた。だが人が移り、土地の意味が変わり、信仰が大きな枠へ統合されるにつれて神殿は消え、名前を呼ぶ者も減っていった。
最後には、ほとんど残らなかった。
「じゃあ」
リィナが記録を見る。
「レヴァンにとってエリュネは」
ガルドが聞き取り記録を見る。
「昔の自分を知ってる最後の奴」
ミラも次の記録へ目を移す。
「エリュネにとっても」
「レヴァンが最後の証人」
紙を一枚めくる。
《対象レヴァンは、神格エリュネが百十一年前の祭礼で歌詞を間違えた事実を記憶》
リィナが目を上げた。
「そんなのまで書いたの?」
「司祭、研究になると思ったらなんでも書くから」
ネアが少し呆れた顔をする。
次。
《神格エリュネは、対象レヴァンが若年時に雷を恐れていたと証言》
ガルドの眉が寄る。
「消してやれよ」
リィナが横目でガルドを見る。
「ガルドも似た記録いっぱいありそう」
「あるよ。君が忘れてても、僕は覚えてる」
アストラが即答した。
「黙れ」
短い笑いが起きる。
それだけだった。
紙の向こうにいる二人は、笑い話では終われない。
ネアが資料を閉じかけて、手を止めた。
「だから一つになりたい?」
マリーの淡い瞳がネアへ向く。
「“一つ”の定義を要求します」
「それを今調べてる」
ガルドが返した。
マリーが施設情報を開く。
「“統合”結果を提示します」
空中へ二つの個体表示が浮かんだ。
レヴァン。
エリュネ。
人格構造が再構成され、記憶、肉体情報、神格情報が順に統合されていく。
最後に残った表示は、もう二人ではなかった。
一つ。
「つまり」
リィナが見つめる。
「両個体とも原形を維持しません」
ネアの顔が変わった。
「……二人とも消える?」
「“消える”を人格連続性喪失と定義する場合、可能性が高い」
「それ、二人が助かるって言える?」
「“助かる”の定義を要求します」
「今じゃない!」
リィナの声が少し上がり、すぐに静かになる。
ガルドは、一つになった表示を見た。
「あの二人には」
「?」
「そう見えるんだろ」
「なにが」
「一個になれば、相手を失わなくて済む」
「でも、自分もいなくなる」
「“自分”と“相手”の区別自体なくす」
誰もすぐには返さなかった。
リィナは一つになった表示から目を離さない。
「……寂しすぎるでしょ」
それ以上、誰も説明しなかった。
アストラも、ガルドを見ただけでなにも言わない。
ネアが次の記録をめくる。
「じゃあ」
オルフェンの名前を指す。
「なんであいつが、ここまで関わってたの」
研究初期の筆記は整っていた。
消えかけるエリュネ。
神格の安定。
依代への移送。
神鎖の維持。
救済方法の検討。
ネアが初期の研究記録を見る。
「最初から騙してたわけじゃない?」
ミラも同じ頁へ視線を落とす。
「記録上は」
ガルドがその先の記述を見る。
「救えると思ってた」
「……あいつが?」
「ああ」
ネアは納得しない。
それでいい。
ページをめくれば、別の顔も出てくる。
古代技術への興奮。
新発見への期待。
研究者としての熱。
成果を残したいという欲。
「やっぱり研究したかっただけじゃん」
「それもある」
「私も運び屋にして」
「ああ」
ガルドは否定しない。
「利用した」
ネアの目が、一度だけガルドへ向いた。
後で良いことをしたからといって、最初にしたことまで良いことにはならない。
研究初期、オルフェンはこの施設を、消えかける神格を人間側へ安定して移す技術だと考えていた。
エリュネをレヴァンへ。
あるいは、二人の接続を永続化する。
その程度のものとして。
だが古い権利書、鎖片、接続器、翻訳が揃うにつれて、筆記は乱れ始める。
《これは救済ではない》
《双方の連続性を保証できない》
《完成個体を“レヴァン”または“エリュネ”と認定する根拠なし》
リィナは黙って読んだ。
マリーが乱れた研究記録へ視線を走らせる。
「記述は妥当です」
「二人とも助からん」
「人格連続性を基準とする場合」
「十分だ」
ネアは、自分が最後に運んだ鎖片の記録を見る。
「それで」
声が低い。
「私に逃げろって?」
ミラが研究記録の末尾へ目を落とす。
「最後の部材で、オルフェンは装置の正確な機能を確定した可能性がある」
ノクティスも同じ記録へ視線を向ける。
「同時に、自分が殺される可能性も考えたのでしょう」
ネアの指が紙を強く押さえる。
あの夜、なぜオルフェンが突然資料を持たせ、逃げろと言ったのか。
そこまでは今ある記録から辿れる。
そして最後の夜。
会話の一言一句までは分からない。
ただし、判明した事実から流れはかなり絞れる。
ネアが研究資料を抱えて研究室を出た後、オルフェンのもとをレヴァンが訪れた。
二つの杯と鎮脈茶が、それを示している。
オルフェンは、最後に得た部材と解読結果から、この装置が二人を救うものではないと知った。
さらに、都市基盤と封鎖域へ干渉する危険まで判明した。
ネアが末尾の記録を見たまま、表情を硬くする。
「あの人、最後は装置を壊そうとした」
ミラが短く頷く。
「その可能性が高い」
ガルドは一枚の記録を指で叩いた。
「そこでレヴァンが止めた」
腕を掴んだのか。
鎖片へ手を伸ばしたのか。
なにが引き金だったかまでは残っていない。
だが、計画的に胸を斬った殺害ではないことは、傷の成り立ちそのものが示している。
リィナが傷の成り立ちを示す記録を見る。
「反射だった」
ガルドが短く頷く。
「可能性は高い」
マリーの視線が解析結果へ戻る。
「レヴァンの神威が、オルフェンの接続を識別して切った」
「接続破断後、生命活動が急停止。続いて二次損傷が発生したと推定」
だから、オルフェンは大量の血を流すより先に倒れた。
その後、レヴァンとエリュネは研究室を離れ、ネアが戻る。
すでに落ちていた血の上へ踏み込み、倒れたオルフェンへ駆け寄ったことで、彼女の髪、香油、衣服の繊維が現場へ残った。
神殿が最初に見た現場は、その後のものだった。
そこまで繋がった。
誰もすぐには喋らなかった。
「……最悪」
リィナが言う。
「ああ」
ガルドも短く返す。
「私を使ったくせに」
ネアが紙を見る。
「最後だけ格好つけたんだ」
「そういう奴だったんだろ」
ガルドの返事はそれだけだった。
許せとも、許すなとも言わない。
ミラは紙束をさらに遡っていた。
「研究開始以前の記録がある」
「なんだ」
「成立証路団の正式照会」
照会番号。
立会人。
エルディン=ヴァレイン。
「……またあいつ」
リィナの声へ警戒が混じる。
「読む」
依頼者はレヴァン。
問いは一つ。
《消滅しつつある神格を存続させる方法はあるか》
「エリュネ」
「ああ」
「成立証路団が当時確認した、存続可能性の照会」
ミラが最初の項目を読む。
《照会時の第一案》
信仰圏の回復。
神殿、祭礼、信徒、祈りを再び整え、エリュネという神格を社会へ定着させる。
「普通に考えたら、これじゃない?」
リィナが紙を見る。
「神を残すだけならね」
アストラが答えた。
「でも時間がかかる」
ガルドも記録へ目を落とす。
「エリュネは、もう消え始めてた」
ミラが次を読む。
《照会時の第二案》
新しい依代への移送。
身体。
器。
土地。
神具。
ただし適合や失敗の危険があり、現在の接続がそのまま維持される保証はない。
ネアが顔を上げる。
「レヴァンとは離れるかもしれない?」
「今の接続が残る保証はない」
ガルドの返答は短かった。
そして。
《照会時の第三案》
古代神人接続施設を利用。
記録に残る説明は、それまでより短い。
《神格と神鎖双方を恒常状態へ移行可能》
リィナが黙った。
ミラも、すぐには次を読まない。
三つの案は並んでいる。
だが、レヴァンの側から見れば、同じ重さではなかった。
第一案は、間に合う保証がない。
第二案は、エリュネとの今の接続を失うかもしれない。
第三案だけが、少なくとも文面の上では――今あるものを失わずに済むように読める。
ミラが文書末尾へ視線を落とした。
《確認可能な選択肢は以上》
《決定者:レヴァン》
《選択:第三案》
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……そりゃ、選ぶでしょ」
リィナの声が低い。
「エリュネを失いたくないなら」
「そう見えるな」
ガルドは記録を見たまま答える。
「エルディン」
リィナの声へ、今度は警戒が混じった。
「この三番目がなんなのか、知ってたの?」
「年代照合を実施」
マリーが、現在得られた古代情報、オルフェンが後に解読した記録、当時の成立証路団文書を比較する。
「照会当時の記録のみでは、完全統合結果の詳細特定は困難」
「じゃあ、エルディンは知らなかった?」
「全部はな」
ガルドが答える。
「でも」
「なに?」
ガルドの指が、第三案の記述で止まる。
「レヴァンが、これを選びやすいことまでは分かったかもしれん」
ネアが見る。
「なんで」
「第一は待つ。第二は離れるかもしれない」
指先が、第三案へ戻る。
「これだけが、“今のまま残せる”ように見える」
リィナの眉が寄った。
「じゃあ、最初から三番を選ばせるために――」
「まだ言うな」
ガルドが止めた。
リィナが口を閉じる。
「成立証路団は三つ出した」
ガルドは文書から目を離さない。
「選んだのはレヴァンだ」
責任は移さない。
レヴァンが選んだ。
オルフェンを殺したのも、レヴァンだ。
そこは変わらない。
ミラがガルドを見る。
「でも、選びやすい三択だった可能性はある」
「ああ」
「エルディンが、それを意図した証拠は?」
ガルドは一度止まった。
「ない」
「じゃあ?」
「会ったら聞く」
リィナが少しだけ息を吐いた。
「そこで止まれるんだ」
「止まらなきゃ、神殿と同じだ」
アストラは、ずっと黙って記録を見ていた。
「嫌いだな、その男」
「会ったことあるのか」
「ないよ」
「ならなんで」
アストラが少しだけ笑う。
「君以外の人間を、面白そうに見る奴は好きじゃない」
「理由が偏ってる」
ミラが言う。
「知ってるよ」
「張り合うな」
ガルドは照会記録を閉じた。
「これで、司祭殺しは分かった」
「じゃあ戻って――」
リィナの声を、低い音が切った。
――ゴン。
白い施設全体が、床から壁、空気まで一度に深く揺れた。
全員が止まる。
僅かに遅れて、マリーが顔を上げた。
「高密度神人接続反応を検出」
「場所」
「先ほど検出した現行神鎖反応地点」
リィナの表情が変わる。
「レヴァン……」
壁面へ赤い表示が浮かんだ。
《接続統合工程――開始》
誰も意味を尋ねなかった。
その意味を、たった今知ったばかりだった。
遠くで巨大な神威が脈打ち、不安定な圧が施設の奥から白い回廊へ伝わってくる。照明が一瞬だけ暗くなった。
アストラの笑顔が消える。
「始めた」
「どれくらい」
「進行率算出中」
その頃、地上のカリ=エルでは、いつも通り昼の商いが続いていた。
値切る声。
荷車。
巡礼者。
子供たち。
その頭上で、誰も触れていない鐘が鳴った。
ゴォン。
市場の人々が顔を上げる。
続いて別の方向から、もう一つ。
ゴォン。
神殿。
門。
巡礼路。
古い鐘から新しい鐘まで、都市のあちこちで順番もなく鳴り始めた。
「なんだ!?」
神官が鐘楼へ走る。
綱には誰も触れていない。
止めようとしても、鐘は鳴り続ける。
境務の一室で書類を読んでいたセイルも顔を上げた。
遠くから聞こえる鐘。
一つではない。
手にしていた胃薬を口へ入れる直前で止める。
数秒。
「……まずいですね」
それだけだった。
別の場所。
成立証路団。
エルディン=ヴァレインは窓の外へ視線を向けた。
鐘の音。
机の上には、白い記録用紙がある。
そこへ手を置く。
だが、まだなにも書かなかった。
地下。
リィナが立ち上がる。
「どうする!?」
「止める」
「二人を?」
「装置を」
即答だった。
ネアも立つ。
「あの司祭が止めようとしたやつ」
「ああ」
「じゃあ行く」
リィナがネアを見る。
「ネア」
「ここまで来て帰ると思う?」
もう、誰かに決められてついてきた顔ではない。
「最短経路を提示します」
マリーが壁面へ地図を出す。
「頼む」
「了解」
赤い一点の上へ、さらに表示が重なる。
《接続統合率――03%》
すぐに数字が上がる。
《04%》
《05%》
《06%》
「進んでる!」
ガルドが剣を取った。
「走れ!」
一行が一斉に動き、白い休止域を飛び出す。
さらに深い場所。
巨大な装置の中で、神威が渦を巻いていた。
その中心で。
レヴァンとエリュネ。
二つの影が、一瞬だけ重なった。
(追記)観測日誌 ― 灰門第七共同住居棟・共有棚
夜。
全員の足音が消えたあと、共有棚の前に立つ。
布は一枚足りない。
昼に使われた形跡がある。
でも、汚れてはいない。
だから、洗わなくていい。
乾燥薬草の量を確認する。
減っている。
たぶん、鍋に使われた。
苦くなるほどではない。
計算どおり。
札を見る。
使ったら戻す
壊したら謝る
よくわからなかったら置く
……わかりやすい。
でも、戻せないものもある。
謝れないこともある。
だから、置くだけにする。
棚の奥に、薬草を少し足す。
湿気が来ない位置。
短剣の鞘の向きを、もう一度直す。
夜に手を伸ばしても、怪我をしないように。
この棚は、たぶん気づかれない。
でも、使われる。
それでいい。
人数は、数えない。
数えると、ずれるから。
今日も、壁は壊れていない。
棚も、誰のものでもない。
住居棟は、静かに成立している。




