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青の決断

不穏は、風みたいに広がる。


どこか一箇所が燃えたから、終わりじゃない。

燃えた煙が、次の乾いた場所へ移る。


緩衝地帯の外れでは、札の偽造が増えた。

検問の列が、わざと乱される。

更新窓口の前で、声だけが大きくなる。


市中では、配給の横流しが起きた。

起きた瞬間よりも、噂が走る方が速い。

噂が走ると、疑いが増える。

疑いが増えると、誰かが“正しさ”を振り回す。


辺境では、夜の補給路に灯りが増えた。

灯りが増えるほど、影も濃くなる。

影が濃くなると、影に慣れた者が集まる。


そして前線の外側では、停戦を知らないふりをする小競り合いが、消えない。


大きな事件は起きない。

だから余計に、止められない。


火種はまだ小さい。

小さいうちに触れば、指が汚れる。

触らなければ、火は育つ。


――そういう種類の不穏が、各地に蔓延していた。


だから、魔王は決めるしかなかった。


決める、というのは選ぶことだ。

選ぶ、というのは切り捨てることだ。


そして今、切り捨てなければならない名前が一つある。


カルマイン。


口にしない。

口にした瞬間、その名前は“敵”として確定する。


確定させるのは簡単だ。

難しいのは、確定させた後に、自分の手で終わらせることだ。


夜が薄くなる時間帯。

空の色はまだ冷たい。


復興現場の外れで、アズール=ノアは火の近くに立たない。

立たないまま、現場を見渡す。

“王”の癖だ。

だが今は、その癖が現場監督のそれに見えた。


火の向こうで、誰かが桶を洗っている。

釘を拾っている。

札を押している。


戦争の時には無かった音だ。


戦争の時には、命令の声があった。

怒鳴り声があった。

泣き声もあった。


今は、違う。

手順の音がある。

生活の音がある。


それを守るために、魔王はまた剣を抜かなければならない。


巡察が一人、距離を測って近づく。

声を張らない。

張らないことが、この場所の礼儀になっている。


「……報告」


巡察は短く言った。

短い言葉は、飾りを削った分だけ重い。


「市中で札の偽造。二件。

配給所での横流し、未遂。

検問の列の乱れ、三回。

いずれも武器は抜かれず――手順だけが壊されました」


武器が抜かれない。

だから裁けない。

裁けないから、疲れる。


アズールは頷いた。

怒りは混ぜない。

怒りを混ぜれば、報告は言い訳になる。


「辺境は」


「灯りが増えています。

補給路が、呼吸している」


呼吸。

戦争の言い方だ。


アズールは、一瞬だけ目を細めた。

嬉しさじゃない。

理解した目だ。


――昔は、この“呼吸”を読んでいたのがカルマインだった。


前線の土を見て、風を嗅いで、旗の揺れを見て、次の形を言い当てる。

兵に怒鳴らない。

だが、逃げ場も与えない。


その短い命令の積み重ねで、どれだけの魔族が生き残ったか。


アズールは、知っている。

知っているから、余計に苦い。


「……時間をやれば、準備が進むか」


誰に言ったのか分からない小声が落ちた。

だが巡察は聞こえたふりをしない。

それも手順だ。


準備。


その言葉は、刃に似ている。

準備は守りでもあるが、同時に刺すための形でもある。


そして今、準備しているのは――味方だった者だ。


アズールは呼吸を一つだけ落とした。

落とすことで、顔に出すなと命じる。


怒りじゃない。

失望でもない。


喪失に近い。


評議所の仮設室。


評議所は“建物”というより、まだ“仕事場”だった。

板と布と杭で作った仮設の壁。

紙と札と印章の匂いがする。


机の上に、二つの案が置かれている。


中止案。

実施案。


補佐官が、喉を鳴らした。


「危険です。

式典は象徴になります。象徴は狙われます。

今の不穏の濃さでやれば、必ず穴が出る」


正しい。

正しいから、止められない。


アズールは机を見たまま言った。


「穴は、もう出ている」


補佐官の眉が動く。


「出ている穴は、塞げます。

時間をください」


時間。


アズールはその言葉に、ほんの少しだけ息を吐いた。


「時間をやれば、相手も育つ」


育つ。


それは兵も育つ。

街も育つ。

信頼も育つ。


そして――憎しみも育つ。


アズールは顔を上げた。

王の顔ではない。

現場の責任者の顔だ。


「地下で育つ火は消せない。

表に出して、表で消す」


賭けじゃない。

統治判断だ。


補佐官が言葉を探す。


「……犠牲が出る可能性は」


アズールは首を振らない。

肯定もしない。


「ゼロにはできない。

だが、増やさない手順は作れる」


その言葉の後ろに、言わない言葉がある。


“増やさない手順”の中には、殺す手順も含まれる。


捕縛では終わらない可能性がある。

説得では止まらない可能性がある。

止まらないなら、止めるしかない。


それが“魔王”の仕事だ。


それが“魔王”の罪だ。


アズールは紙束を一枚、押さえた。

依頼書の雛形だ。


「警備を依頼する。

軍ではない。手順だ」


手順。


共存派が育ててきた言葉を、魔王が使う。

その一瞬だけ、部屋の空気が静かになる。


静かになるのは、理解が揃ったからじゃない。

“怖さ”が揃ったからだ。


「捕縛優先。殺すな。

誤爆防止の札を配る。

要人の導線は二重にする。

……そして、抜く順番は護衛が決める」


補佐官が頷いた。

ようやく“仕事”の形が見えた頷きだ。


「主戦派は」


補佐官が口にした言葉を、アズールは途中で止めた。

止めたのは否定じゃない。

名を呼ぶのを避けただけだ。


名を呼べば、思い出が出る。

思い出が出れば、刃が鈍る。

刃が鈍れば、守るべきものが増える。


守るべきものを増やしたくない。

増やしたいのは、生活だ。


アズールは言った。


「……赤い将軍の影は、ここで出る。

出させる。出たら、押さえる」


押さえる。


その言葉は、捕縛にも聞こえる。

処断にも聞こえる。


アズール自身、どちらの形になるかを、まだ決め切れていない。

いや――決め切れていないふりをしている。


本当は分かっている。


カルマインは、止まらない。

止まらない者を止めるには、刃が要る。


自分が抜く刃が、かつて信頼していた将軍に向く。


その事実が、胸の奥で冷たく鳴る。


アズールは椅子を引かなかった。

立ち上がるだけだ。


布の壁の向こうから、外の音が聞こえる。

列の足音。

札を押す音。

誰かが短く怒鳴って、すぐ引っ込める声。


世界は、もう戻れない。


戻れないなら、形を決めるしかない。


アズールは扉の前で一度だけ足を止めた。


自分が選ぶのは、平和ではない。

平和を“成立させる手順”だ。


その手順が、戦争を望む者をあぶり出す。


それでいい。


そうでなければ、火は地下で育ち続ける。


だが、その火を消すために、誰を灰にするのか。


アズールは、答えを口にしない。

口にした瞬間、魔王はただの人間になる。

ただの人間になった魔王は、国を守れない。


魔王は扉を開けた。


外の空気が、冷たい。

冷たい空気の中に、焦げた匂いが混じっている。


式典の日は近い。


火は、もう消せない。


なら――火の燃え方を選ぶだけだ。

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