68.来る、来る、来る
「……んっ」
数日後、トクサの頬を静かに風が撫でた。目下に広がっているのは、ローライトの無機質な街並み。
平和というよりも、平穏。
退屈ながら、此処にはそば立てるモノは何も無い。
絢爛な建物も名物と呼べる食べ物も無く、ましてや享楽に染まっている訳でもない。ただ錬鉄を打ち続ける職人が工房を行き来する傍ら、その伴侶や幼子達が暇を紡いでいる。
感情を持った兵器は、優しく撫でる風が好きだった。窓の向こうに広がる普遍が好きだった。
「………………」
そんな場所が、これから理不尽に包まれる。
目一杯遠ざけても、逃げ続けても。
『自分』という存在が居る限り、戦火は消える事なく少女を駆り立てるだろう。
"戦うのは怖くない。それがワタシに求められた理由だから。━━けれど"
「…………あ」
ふと、トクサの視線の先。小さな子どもが自分に向けて手を振っているのが見えた。素知らぬ誰かの、目一杯描く弧に対してどうやって返せば良いのか。一瞬だけ、戸惑う。
知らない人。知らない幼子。自分の事だって知らないのに、無邪気に笑う未来の芽。
模倣も儘ならないまま、少女は窓を閉じた。
打つ鼓動は強く、首を締め付ける。たった一縷の可能性が思考を侵した途端、それは少女の感情を強く揺さぶる。
戦うのは怖くない。けれども、差し向けられた戦の火に少しでも対抗すれば、此処に生きる者の『未来』は奪われる。街並みも、人も、歴史も。灰塵に呑み込まれ、残るのは焦土という痕跡だけ。
先程手を振ってくれた幼子も、その横で微笑みながら子どもを見つめる女性も。工房へ向かう職人も。ただ平穏を続けている人々を終わらせる結末を、自らの手で下さなければならない。
転がる。焼かれる。潰れる。それらが塵芥に包まれる時、そこに立っているのはきっと━━
「……やだ……やだ……っ」
一瞬だけ、手が黒く染まる。それは自らの内包する権能。『蹂躙』する為の力が表出したもの。
少女はそのまま白んだ窓辺を背に、頭を抑えて踞る。無理だ。『誰も殺さずに』なんて理想は絶対に実現しない。対極に待つ屍の山の近くにトクサは在る。
守らなければならない。けれども、戦う事で失う事の恐ろしさを、感情を持った兵器は、絵空事を見る少女は知ってしまった。
だが、気付いた所で少女が逃れられる可能性は何処にも無い。必然の上に、彼女は力を以て徹底抗戦を為すだろう。
「聞きたくない…ききたくない……!」
彼女の演算能力が、内側から警鐘を鳴らす。音も、形も、予兆すらも無く始まるそれを受け取り、『動け』と無理矢理背中を押す。
訪れた。現れた。━━遂に、来た。
戦いを拒む彼女と、大口を開いた現実との視線があった途端。
「━━━━━━━━━」
ローライトにいる全ての者が、その背中に嫌な予感を帯びた。
「━━大丈夫。ダイジョウブだよ、トクサ。
私達ならやれる。━━守る為に動けッ」
震えた声の自己暗示。窓の外に一瞬だけ翡翠の光が現れたと思えば、石灰色の雲海を黒色の一閃が弾けて、疾った。
これは絵空事を願った少女から始まった戦争。弱音に捕らわれながらも、待ち構える『火』を、彼女は睨み据えていた。




