2.現状理解
天井を仰ぐ、薄暗がりの中を歩く兵士の群れの真ん中。あのムードから再び地に足を付けられるとは思わなかったと、足を止めて深呼吸する。
異様に現実味のある、排ガスと季節風の混ざった空気の匂いをこの身体は覚えている。
毎日を何かに追われる焦燥と、失うことへの漠然とした不安を覚えている。
夢であるのにも関わらず、打ち震える事すら億劫になる程の孤独を覚えている。
彼方側で経験した事は、今でも鮮明に記憶に残っている。依然として残る『意味深』な認識は強く尾を引いていた。
「……!」
はっ、と意識を周りに向ける。
足取りは帰投したばかりという事もあって僅かばかり疲弊している様子だった。立ち尽くす戦犯に向ける眼差しは「邪魔だ」という、当然で妥当な物だった。呆然と、じっと立ち尽くす自分を後目に、他の兵士は自身達の兵舎へと戻っていく。
「しっかりしろよ。第8戦獣調教班異動なんだろ?」
…だと思っていたが、あっけらかんとした明るい声で自身の肩を叩く変わり者もいたのだった。
「えっ? そ、そうだな…。第8戦獣調教班ってどんな部隊なんだ?全く聞いたことがないんだが…」
「俺も知らねーんだよな。…国の暗部だとか、特殊部隊の隠語だとか…。単に使い物にならなくなった奴らの掃き溜めだったり、そもそも情報が少ないんだよな」
「そ、そうか…」
聞かなければ良かったと、心の底から後悔した。
「まぁ、ウスズミみたいな奴なら何処でもやっていけるだろ。人格があるか無いかすら覚束ない機械人間みたいな奴なんだから。 …だから驚いたモンだよ。ウスズミの口から懺悔が出てくるなんてさ」
「はは…機械人間は言い過ぎだろう。僕だって人並みの尊厳というか…感情は持ってるつもりだよ」
「それもそうだな。ははっ」
列車内の時と比べれば、彼と話している自分の中には少しだけ「実感」が生まれていた。俯瞰視点が二人称視点に変わった程度の変化ではあるが、主観で話を聞くことが出来た。しかし、話している内容の一つ一つは、未だに記録や情報の域を出る事はない。
だからこそ、今の自分の口から出るのは当たり障りのない返答ばかりだった。「彼方側」の記憶が脳の半分に定着しつつある自分には、言葉すらもただ形を宛がっただけのハリボテにしか見えないのだから。
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荷物を纏め、兵舎を立ち去る途中。外の空気を吸いたいと一度たりとも思わなかった。敢えて表現するのなら、この世界はとても『窮屈』だった。
小さな窓から見える情景は、この国全体が灰塵に包まれた世界であることが分かる程に、濁っていた。
淀んだ空間を白と橙の歪んだ明かりが日夜照らしている、まるで工場にでもいる気分になる。胡蝶の夢の中、日常的に肺へと送り続ける空気を美味しいと思った事はなかったが、この有り様を認識してしまった以上、澄み切っていた彼方側が極端にマシに思える程だった。
「(どちらが本物の記憶だ…? 俺はウスズミ…ウスズミ・フォルシーだ。この世界で生まれ落ちた、この世界の人間だ。
…だが、同時に「宇涼 逢丞」という彼方側での記憶も鮮明に残っている。東北のA県で生まれて、3歳の時に雪に滑って転んで腹に石の破片が刺さって…。)…そうだ。腹だ!」
現状を理解するカギになる可能性を見出すことが出来た。傷を確認出来なければ、この記憶は所謂『良く出来た夢』で、リアリティがあるからこそ覚えているだけだと、区切りをつける事が出来る。
すかさず、軍服を緩ませた後、あの世界で付いた古傷のある左脇腹を見る。
「…ある」
期待はすぐに落とされた。
人はパニックになると、冷静さを無自覚に消失させてしまう。『傷がある場合』を自分は想定する事が出来なかった。ウスズミとしての記憶を辿っても、この傷が残る切っ掛けとなった出来事は残っていない。
これは寸分違わず『彼方側』の自分の傷だ。彼方側の世界は『夢』ではなく『形を伴った別の世界』であり、どういう訳か自分はその世界に干渉してしまった。
非現実的ではあるものの、説明に区切りを付け、溜飲する事が出来る結論はこれしか思い当たらない。思い違いという可能性も否定する事は出来ないが、彼方側の世界を証明する要因が物証としてこの身体に残っている以上、可能性を享受する事も、また出来ないだろう。
「(いや…。現状を正確に直視出来た事は幸いだと受け取っておこう。誤認して良かった試しは、双方の世界で無かった。)」
『これ以上考えても埒が明かない』と考えたら、不思議と諦めが付く。気持ちの切り替えと同時に身なりを正し、荷物を抱えて長い廊下を歩き始めた。