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小さな天災(死傷者1名)、大きなうねり  作者: G-20
第二次世界大戦末期
4/13

第四話 天災

 冬のヤルタは静かだった。

 黒海から吹きつける風は鋭く、宮殿の白壁を撫で、庭園の木々を揺らしていた。枝に残った霜はかすかに震え、陽光を受けて鈍く光る。その光景は美しく、そしてどこか現実感を欠いていた。


 戦争の終結が目前に迫っているとは、とても思えない静寂だった。

 その静寂の中を、一団がゆっくりと進んでいた。

 世界の命運を決する会談の中心――

 合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、側近たちに囲まれながら庭園を移動していた。

 彼の歩みはゆっくりで、やや疲労の色を帯びている。それでも、その存在は周囲に絶対的な重みを与えていた。

 この男の決断一つで、戦争は終わり、あるいは続く。


 その周囲には、アメリカ代表団の中枢が揃っていた。

 国務長官ステティニアス。

 最側近ホプキンス。

 統合参謀本部議長海軍元帥リーヒ。

 陸軍参謀総長マーシャル。

 海軍作戦部長キング。

 駐ソ大使ハリマン。

 そして戦争動員・復興局長バーンズ。

 さらにその外側を、無言のSPたちが取り囲む。

 それは単なる随員ではない。

 この集団そのものが、国家意思の塊だった。


 世界最大の軍事力と経済力。

 その意思決定機構が、今この庭園を歩いている。


 誰一人として、次の瞬間を予見できなかった。

 ――空が裂けた。


 乾いた破裂音が、頭上から叩きつけられる。


 反応は、わずかに遅れた。


 SPの一人が顔を上げる。

 その視線が何かを捉えるより早く、それは落ちた。


 白熱した閃光。

 一直線。


 狙い澄ましたかのような軌道で――

 ルーズベルトの頭部に直撃した。


 鈍く、湿った破砕音。

 肉と骨が砕ける、あまりにも現実的な音。


 大統領の身体が崩れ落ちる。


 血が噴き出し、雪混じりの石畳に散った。赤は瞬時に広がり、白を侵食していく。


 時間が、止まった。



 誰も動かない。


 誰も理解できない。


 何が起きたのか。


 それを最初に拒絶したのは、人間の本能だった。

「大統領閣下!」

 最初に動いたのはホプキンスだった。

 叫びながら駆け寄り、膝をつく。


 だが、その手は途中で止まる。

 触れる前に、理解してしまった。


 頭部は――存在していなかった。


 原形を留めていない。


 医療も、救命も、意味を持たない。


 即死。



 その事実が、遅れて彼の思考に浸透する。

 顔から血の気が引き、呼吸が浅くなる。

「医療班を呼べ!」「周囲を確保しろ!」

 SPたちが一斉に動き出す。


 静寂は破壊され、庭園は一瞬で戦場に変わった。

 キングが怒鳴る。

「全周警戒!狙撃だ!」


 マーシャルはすでに戦場の思考に切り替わっていた。

「射線を特定しろ。高所を押さえろ」


 反射。訓練。経験。

 それらが理性より先に動いていた。


 リーヒは一歩引いた位置から全体を見ている。

「誰もこの場から動かすな。証拠を残せ」

 彼の声は低く、しかし絶対だった。


 一方、ステティニアスは動けなかった。

 視線は一点に固定され、現実の処理が追いつかない。


 外交官としての思考は、この状況に対処する訓練を受けていない。


 バーンズが低く呟く。

「……終わった」

 その言葉は、個人の死を指してはいない。


 戦争の終わり方。

 戦後の秩序。


 すべてが崩れたことを意味していた。


 ハリマンは周囲を見渡し、静かに言う。

「ここはソ連の管理区域だ」


 その一言で、空気が変わる。


 誰もが理解する。

 ここは完全な味方ではない。

 説明責任が発生する場所。

 疑念が即座に政治へ変換される場所。


「狙撃手を探せ!」

 SPが散開し、建物、木々、屋根、あらゆる遮蔽物を制圧していく。


 だが――


 見つからない。

 銃声はなかった。

 発射炎もない。

 弾道の痕跡もない。


 異常だった。



 やがて回収されたのは、小さな黒い石片だった。

 それは地面に食い込み、まだ熱を帯びている。白い蒸気がゆっくりと立ち上る。


 報告を受けたマーシャルは眉をひそめる。

「……隕石だと?」


 キングは即座に否定する。

「あり得ん。そんな偶然があるか」

 彼の言葉は合理的だった。

 だが、現実がそれを裏切っている。


 リーヒは何も言わず、その石を見つめていた。


 ホプキンスはその場に座り込んでいる。

 視線は動かない。


 理解を拒否したまま、現実だけが存在している。


 やがて、ステティニアスがようやく口を開いた。

「……公式発表はどうする」


 それは問いではない。

 決断の要求だった。


 ハリマンが答える。

「“事故”では済まない」

 短いが、明確だった。

「ここがソ連領である以上、説明を要求せざるを得ない」


 バーンズが続ける。

「説明できなければ――責任問題になる」


 マーシャルが結論を出す。

「つまり、これは政治問題だ」


 キングが吐き捨てる。

「最悪の形のな」


 誰も反論しない。

 理解しているからだ。


 これは単なる死ではない。


 合衆国大統領の死。


 それも異国の地での不可解な死。


 原因が何であれ――

 責任は、必ず誰かに帰属させられる。

 それが国家というものだった。


 リーヒがゆっくりと口を開く。

「直ちにワシントンへ報告する」


 一拍置く。

「……そして、副大統領が大統領になる」


 名前は出なかった。


 だが、全員が同じ人物を思い浮かべている。


 ハリー・S・トルーマン。


 ホプキンスがかすれた声で言う。

「彼は……スターリンを信用していない」


 沈黙。


 それは情報ではなく、予測だった。


 そして、その予測が持つ意味を、全員が理解していた。


 ハリマンが静かに締めくくる。

「ならば、この死は――」

 わずかに間を置く。

「戦争を終わらせる出来事ではない」

 視線は、血に染まった石畳へ向けられる。

「次の対立の始まりになる」

 白い雪の上に広がる血。


 その中心に横たわる男は、もはや個人ではなかった。


 それは国家そのものだった。

 そして周囲に立つ者たちは、理解していた。


 この瞬間――

 戦後世界の設計図は、完全に白紙へと戻されたのだと。




 ヤルタの英国代表団宿舎。

 分厚い石壁に囲まれた室内には、冬の湿り気と石炭の匂いが染みついていた。暖炉の火は赤く燻り、空気はどこか重く、葉巻の煙がゆっくりと天井へ滞留している。壁一面に広げられた地図には、ヨーロッパ戦線の推移が色分けされた線で刻まれ、まるで血管のように張り巡らされていた。机上には未処理の報告書、暗号電文、軍の配置図が無造作に積み上げられ、戦争の終わりが近づきながらも、なお終わりきらぬ現実を物語っている。


 静寂は、控えめだが明らかに異常な調子のノックによって破られた。


「入れ」

 低く短い声。ウィンストン・チャーチルは顔を上げずに答えた。


 扉が開き、伝令が一人、室内に足を踏み入れる。その顔色は青白く、明らかに平常ではなかった。訓練された軍人のそれではない。恐怖か、それとも理解不能な事態に直面した者の表情だった。

「首相閣下――緊急報告です」


 チャーチルは葉巻を口に運ぶ手を止めた。わずかな沈黙。煙が揺れる。


「言え」

 短く促す。

 伝令は一瞬、言葉を探すように唇を動かし、それから覚悟を決めたように告げた。

「合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが――死亡しました」


 時間が止まったかのような数秒間。

 暖炉の薪が崩れる音だけがやけに大きく響く。

 チャーチルの視線がゆっくりと伝令へ向けられた。その目は怒りでも驚愕でもなく、まずは“確認”を求める冷たい光だった。

「……繰り返せ」


「ヤルタ庭園にて、頭部に高速飛来物が直撃。即死とのことです」

 言い終えた瞬間、チャーチルの葉巻が音もなく指の間から滑り落ちた。灰が床に散る。


「馬鹿な」

 低く、押し殺した声。

 しかし次の瞬間、机が叩きつけられる。

「馬鹿な!!」

 怒声が室内を震わせた。側近たちが思わず身をすくめる。

「ここはソ連の警備下だぞ! 連合国首脳会談の最中に、合衆国大統領が死ぬなど――説明がつくか!」


 伝令は答えられない。答えられるはずがない。

 説明など、存在しないのだから。


 チャーチルは荒々しく歩き、グラスを掴んで中身を一気にあおる。喉を通る酒の熱さが、かろうじて思考を現実へ引き戻す。


「原因は何だ」

 問いはすでに怒りではなく、分析の段階に移っていた。


「現在、ソ連側は暗殺として捜査中です。ただし……」

 伝令は言葉を濁す。


「ただし?」

 視線が突き刺さる。


「現場からは隕石の破片とみられる物体が回収されており……」

 沈黙。


 チャーチルの眉がわずかに歪む。

「……隕石だと?」


「はい」

 再び沈黙。今度は先ほどよりも長い。

 やがてチャーチルは、吐き捨てるように言った。

「ふざけるな。そのような説明を誰が信じる」


 声は低いが、完全に冷え切っている。

「偶然にしては出来すぎている。だが、暗殺にしては証拠がなさすぎる…」


 彼はゆっくりと地図の前へ歩み寄り、指先で黒海沿岸をなぞった。ヤルタの位置。その小さな一点。

「だが重要なのは真実ではない……」

 振り返る。

「どう見えるかだ」


 側近たちが息を呑む。

 チャーチルは淡々と続ける。

「事実は単純だ」

 ――ソ連の管理区域内

 ――ソ連の警備下

 ――合衆国大統領が死亡

「これだけで十分に“事件”になる」


 一人の側近が慎重に口を開いた。

「閣下……ソ連の関与を疑われますか」

 チャーチルはすぐには答えなかった。数秒の沈黙の後、静かに言う。

「証拠はない」

 わずかな間。

「だが疑念は成立する」


 そして付け加える。

「それで十分だ」

 彼の思考はすでに“今”を離れていた。戦後――そのさらに先へと進んでいる。

 ルーズベルトはスターリンに対し、現実的な協調路線を取っていた。だが、その均衡は極めて個人的な信頼に依存していたものでもある。


「副大統領は……トルーマンだったな」


「はい」


「彼はスターリンを信用していない」

 確認ではなく断定だった。

 チャーチルは机へ戻り、間髪入れずに命令を下す。

「第一に、米国代表団へ通達。英国は徹底調査を支持する。ただしソ連単独調査は認めない。英米共同調査団の設置を要求しろ」

「第二に、本国へ暗号電。ルーズベルト死亡。ソ連関与の可能性を排除できず。戦後対ソ政策の全面再検討を開始」

「第三に、軍へ予備指示」

 側近が顔を上げる。


 チャーチルは一切の感情を排した声で言った。

「対独戦終結後を想定した配置検討だ」


 室内の空気が変わる。それが意味するものを、誰もが理解していた。

 同盟の次に来るもの――それを想定し始めたのだ。


 一人の側近が思わず口にする。

「閣下……まだドイツは降伏しておりません」


 チャーチルは即座に返した。

「だからだ」

 短い沈黙。

「歴史は待ってくれない」


 彼は窓際へ歩み寄る。外では雪が静かに降り続いている。白い世界。音のない嵐。

「ナチスが成し得なかったことを、たった一つの石がやってのけたかもしれん」

 皮肉とも独白ともつかない声。

「連合国を内側から揺るがす――か」


 振り返ったその目に、もはや動揺はなかった。

 あるのは計算だけだった。

「準備しろ」

 静かに、しかし決定的に言い放つ。

「この事件は事故では終わらない」

 一拍。


「これは――戦後の最初の戦いになる」

 遠く、黒海の上空では雪雲がなおも渦巻いていた。


 その白の奥に、まだ誰も知らない“次の石”が潜んでいるのかどうか――それを知る者はいない。


 ---


 事態の報告を受けたヨシフ・スターリンは、わずかに眉を動かしただけだった。

 だが、その目は氷のように冷え切っていた。


 部屋の空気が、音もなく沈む。


「同志諸君――」

 低く、抑制された声が響く。その声には怒号も激情もない。だが、それゆえに逃げ場がなかった。


「この場で、合衆国大統領が殺された」

 一語一語が、床に落ちる鉄塊のように重い。


 周囲に立つソ連将兵は、反射的に背筋を伸ばした。誰一人として視線を逸らさない。逸らせば、それだけで疑いを招く。


 この場にいる全員が理解していた。

 曖昧な返答、わずかな躊躇――それはそのまま、自らを「容疑者側」に押しやる行為であると。


 スターリンは続けた。

「それが偶発事故であるはずがない」

 断定だった。議論の余地は、最初から存在しない。


 数秒の沈黙の後、彼は命じる。

「半径五キロを完全封鎖しろ」


 即答の余地すら与えない速度で言葉が重なる。

「NKVDに全権を与える。

 付近の住民、使用人、兵士、警備員――庭師に至るまで、全員を拘束しろ」

 その視線が、室内の誰か一人に向けられることはない。だが全員が、自分に命じられていると感じた。

「狙撃地点、発砲痕、凶器、協力者……痕跡を一つ残らず洗い出せ」


「はっ!」

 返答は一つ。遅れも揺らぎもない。


 命令は、電流のように外へと伝播した。


 数分後。

 ヤルタ一帯は、もはや会談地ではなかった。


 武装した兵士と秘密警察が街を埋め尽くし、道路は封鎖され、検問線が幾重にも張り巡らされる。建物は一軒一軒踏み込まれ、住民は理由も告げられぬまま屋外へと引きずり出された。


 泣き叫ぶ女。

 母にしがみつき、状況を理解できずに震える子供。

 無言で身分証を差し出し続ける男。


 それらすべてを、兵士たちは無表情に処理していく。感情を挟む余地など、どこにもない。

「屋根裏まで調べろ!」

「地下室もだ!」

「抵抗する者は射殺して構わん!」

 怒号が飛び交い、銃床が扉を打ち破る音が連続する。


 同時に、周辺の高所という高所が占拠された。

 鐘楼、塔、丘陵、森の縁、建物の窓。あらゆる“射点になり得る場所”が検証され、兵士たちは実際に銃を構えて射線を確認する。


 ここから撃てるか。

 ここならどうか。

 風向き、距離、角度――すべてが計算されていく。


 だが――


 見つからない。


 ライフルはない。

 薬莢もない。

 火薬の痕跡すら、どこにも存在しない。


 狙撃手の存在を示す証拠が、完全に欠落していた。


 その代わりに報告されたのは、あまりにも奇妙な“物証”だった。

「同志スターリン……」


 NKVDの将校が、慎重に前へ出る。

 その手には、小さな黒い石片があった。血はすでに拭われているが、その存在自体が場の空気を歪ませる。

「米国代表団が回収した異物です」


 スターリンは無言でそれを見下ろす。

「……石か?」


「はい。高熱を帯びており、周囲には燃焼痕が確認されております。鑑定班は……その……」

 将校は一瞬言葉を詰まらせた。言えば、自分の命運に関わる。


 それでも、言わなければならない。

「隕石の可能性を示唆しております」


 沈黙。


 空気が、凍りつく。


 その報告が事実であるならば――

 合衆国大統領は暗殺されたのではない。


 天から落ちてきた石に打たれて、死んだことになる。


 あまりにも荒唐無稽。

 あまりにも非現実的。

 そして何より、“政治的に成立しない”。


 スターリンは石片を見つめたまま、数秒間動かなかった。


 やがて――

「……馬鹿げている」

 低く、切り捨てる。


 誰も呼吸をしない。

「そんな報告を、ワシが信じるとでも思うか?」


 将校の顔から血の気が引いた。だが視線を逸らすことはできない。


 スターリンの声は、さらに低くなる。

「同志諸君、再調査しろ」


 それは命令ではなく、確定事項だった。

「これは暗殺だ」

 論理ではなく、結論。

「証拠が見つからぬのは、お前たちが無能だからだ」


「……はっ」

 返答は震えていたが、それでも即答だった。


「犯人を見つけるまで捜索を続けろ」


 短い間。


「見つからぬなら――見つかるまで探せ」

 その意味を、この場の全員が理解した。


 犯人が存在するかどうかは、もはや問題ではない。

 犯人は“存在しなければならない”。

 そして、“見つけ出されなければならない”。


 それが国家の論理だった。


 かくしてヤルタは、二重の狂気に呑み込まれていく。


 一つは、合衆国大統領急死という前代未聞の衝撃。

 もう一つは、それを「暗殺」と断定したソ連国家保安機構による、終わりの見えない捜索。


 そしてその渦の中心で――


 本来、戦後世界の秩序を決定するはずだった会談は、音を立てるようにして崩壊し始めていた。

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