第23話 戦わぬ者たちの戦い
あの使者が去ってから、一週間が経った。
ヴァルデン領主への書状を用意し、穏便にことを収めようと試みたが、肝心のラセル商会はその間一度も姿を見せなかった。
あの男――ラセルなら、すでに状況を嗅ぎ取っているはずだ。
何かを察し、動かないのだろう。
あるいは、嵐の前に船を岸へ戻しただけかもしれない。
朝靄に包まれたアストレイの空は、どこまでも穏やかだった。
だが、胸の奥に沈んでいた違和感は、薄霧のように晴れなかった。
陽が昇るたび、心のどこかで同じ言葉が浮かぶ。
――来る。
根拠はなかった。ただ、あの使者の目を見た瞬間に確信していた。
言葉の奥に潜んでいたのは脅しではなく、宣告だった。
◇ ◆ ◇
ある日の昼過ぎ、西の見張り塔から、鐘の音が響いた。
低く、重く、空気を震わせる警鐘。
その音を耳にした瞬間、心臓が跳ね上がった。
嫌な予感が、形を持って押し寄せてくる。
駆けつけた俺の目に映ったのは、すでに壁上に陣取るガレオンと数名の警備隊、そしてリヴの姿だった。
風が強く、彼女の髪が頬を打つ。
彼女の視線の先、荒野の彼方に黒い影が揺れていた。
「……あれは」
「ヴァルデンの兵だ」
ガレオンの声は低く、怒りと緊張を押し殺していた。
「ざっと見ても百はいる。小規模だが、編成は整ってる」
百。
この村の兵力を考えれば、十分すぎる脅威だった。
俺は壁の上から、その光景を見下ろした。
彼らの鎧は統一され、陽光を受けて鈍く光る。
掲げられた旗には、確かにヴァルデン領の紋章が刻まれていた。
あの使いの者が言っていた。
『誠意を示せ』と。
誠意とは服従すること。
『説明に来なければ後悔することになる』と。
あれがその後悔というわけだ。
俺は壁上で静かに息を吐いた。
「攻め込むか?」
ガレオンが俺を見る。
彼の手はすでに剣の柄にかかっていた。
「向こうが仕掛けてくる前に、叩くのも手だ。後手に回れば押し潰されるぞ」
隣でリヴが拳を握りしめる。
「戦う覚悟はできています。でも……どうします、クロム様?」
答えは出ていた。
だが、それを口にするのは容易ではなかった。
視線を下に向けると、村の中には人影がない。
子どもたちや戦えない者たちは、すでに中心部に避難している。
家々の戸が閉ざされ、誰もが息を殺していた。
ようやく形になり始めたこの村を、戦火で壊すわけにはいかない。
「ヴァリアさん、西の方にも結界を張ってもらえますか」
背後で名を呼ぶと、ヴァリアさんが静かに頷いた。
淡い光を宿す瞳が、まっすぐ俺を見つめる。
「西側にも……ですか?」
「ああ。できますか?」
「……可能です。ただ、維持には相当な魔力を要します」
「俺も補う。頼む」
彼女は目を閉じ、両手を胸の前で組む。
次の瞬間、淡い光が地面に走った。
それは波紋のように広がり、やがて空気を歪ませて、西の大地に、見えざる境界が生まれた。
直後、ヴァルデン兵たちが一斉に突進した。
槍が、剣が、炎が、結界を叩く。
だが、光の壁は微動だにしない。
鋭い衝撃音と共に、空気が震える。
幾度も、幾度も打ちつけられても、傷ひとつつかない。
俺はヴァリアさんの背に手を当て、魔力を流し込む。
「大丈夫か」
「……問題ありません。ただ、長期戦は避けたいところです」
「無理はしないでくれ」
◇ ◆ ◇
夜になっても攻撃は止まなかった。
炎の矢が夜空を裂き、結界にぶつかっては弾ける。
外側から怒号と命令の声が響く。
それはまるで、世界そのものがアストレイを責め立てているようだった。
眠れぬ夜が続く。
俺とヴァリアさんは肩を並べ、波状攻撃を支えた。
リヴとガレオンは見張りに立ち、村人たちは火を囲んで祈り続けていた。
◇ ◆ ◇
三日目の朝。
空には重い雲が広がり、風が湿っていた。
ヴァリアの頬は紅潮し、額に汗が滲んでいる。
「もう少しだ、ヴァリアさん」
「……ええ。感じます。彼らの気配が……退いていきます」
結界越しに見える兵の列が、ゆっくりと後退していく。
武器を構えたまま、やがて荒野の向こうへと消えていった。
残されたのは、焦げた草と足跡の群れだけ。
ヴァリアさんは力が抜けたように膝をついた。
俺は慌てて彼女の体を支え、魔力を注ぐ。
淡い光が彼女を包み、呼吸が静まっていく。
「……よく耐えてくれた」
「いえ……私一人では到底。クロム殿の力があってこそです」
俺は首を振る。
「一緒に守ったんだ。アストレイを」
言葉にした途端、胸の奥で何かが波打った。
安堵、そして、その奥底に沈む不安。
三日間なら耐えられた。
だが、次も同じとは限らない。
ガレオンが低く呟いた。
「次はもっと来る。結界のことも伝わってる。やつらも対策を練ってくるはずだ」
俺は炎を見つめながら、無言で頷いた。
ゆらゆらと揺れる炎の奥に、かつてのアストレイの姿が浮かぶ。
ようやくここまで再生した。
また壊されるわけにはいかない。
「……こちらからは、手を出さない」
気づけば、声に出していた。
ガレオンが顔を上げる。
「無茶を言うな。戦わずにどうやって守る」
「戦うことが守ることとは限らない。結界を維持する。それが俺たちの選ぶ道だ」
「理想論だ」
「それでもいい。誰かが理想を選ばなければ、何も変わらない」
短い沈黙のあと、リヴが微笑んだ。
「まったく、クロム様らしいです」
「どういう意味だ」
「諦めが悪い。……でも、そういうところに私は惹かれたんです」
リヴの笑みは、強さよりも祈りに似ていた。
その瞳に灯る光が、暗闇の中で静かに揺れている。
俺はその光に、僅かに救われた気がした。
だが、安息は長く続かなかった。
◇ ◆ ◇
一週間後、再び、西の地平に影が現れた。
風がざわめき、地が鳴る。
砂塵の向こうから、黒い波が押し寄せてくる。
それはもはや百などという規模ではなかった。
「……数が、違いすぎる」
誰の声かも分からなかった。
ガレオンか、リヴか、それとも俺自身か。
ただ、その言葉が胸の奥に沈んでいく。
百ではない。五百でもない。
千――いや、それ以上。
押し寄せる黒の波が、地平の端まで続いていた。
まるで、大地そのものがこちらへと迫ってくるかのように。
息を呑む音が、壁の上に連鎖した。
ヴァリアさんが唇を噛み、結界の光が微かに揺らめく。
それでも俺は目を逸らさなかった。
これが、彼らの秩序の形。
数で押し潰す、力の正義。
拳を握りしめた。
だが、胸に灯るのは怒りではなかった。
抗えぬほどの現実を前に、ただ、冷たい静けさが広がっていく。
――このアストレイを、守れるのか。
その問いが、心の奥で静かにこだました。
遠くで鳴る軍靴の響きだけが、無慈悲に続いていた。
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