PM9:12
葉山君視点です
私の名前を呼ぶ時、彼はいつも一瞬悲しそうな顔をして、それから困ったように笑った。
私はそんな風に笑って欲しかったんじゃないのに。
***
何かに怯えるように莉子は顔を強張らせた。
その表情に、まさか彼女は思い出したのかーーと嫌な音を立てて心臓が動いた。
それが恋人として間違った反応だと知っていながら、どうしても焦ってしまう。
彼女が意を決したように口を開いた。
「葉山くん…、堀ちゃん先輩と幼馴染なんでしょう?仲、いいんだね」
「ヤキモチ?」
そうからかえば、莉子は硬い表情を少しだけ和らげて「どうだろ」と含みのある笑みを浮かべた。
「確かに、仲いいと思う…。なんせ三歳の時から一緒だから。でもーー」
「でも?」
「でも、兄弟みたいなもんだよ」
そう微笑んで、彼女の手のひらを包む左手に力を込めた。
そうだ、「堀ちゃん先輩」とは兄弟みたいに育った。
家はお向かいで、歳も近いし、親は仲が良かった。
必然的にそばに居た。
ーーまるで姉と弟みたいに。
「…ねぇ、私と葉山君ってどうして付き合ってるの?どう考えても私葉山君に不釣り合いなんだけど」
莉子は俯きがちに笑う。
自嘲という風ではなかった。
その事に僅かな安堵を覚えて胸を撫で下ろした。
ーーその笑顔に自虐の念が現れた時、きっと俺たちは、
ぐるりと嫌な考えが頭を回った。
誰とも知らない、冷たい手が背中を這うような、不安と恐怖が入り混じった。
「莉子が告白して、くれて」
「えっ」
隣の莉子は信じられないという風に目を丸くしてこちらを見上げた。
「…俺…は、ずっと莉子が好きだったから、嬉しくて」
微笑みかければ、すぐに顔を赤くして俯く彼女。
ーー本当に、好きな人。
「葉山君、変なの」
こんな私、好きになるなんてーー
そう言いながら、莉子は繋いだ手にきゅうっと力を入れた。
二つの手のひらが秋口の風を切る。
ゆっくりとしたテンポに幸福感が溢れた。
大切な人だ。
彼女は俺を救ってくれたから。
『葉山君、ねぇーー』
あの時の彼女の言葉がどれほど俺を救ったのか、きっと彼女は知らない。
あの時、俺を一生懸命に抱きしめてくれた彼女の体温に縋りついた。
誰でもよかったんじゃない。
ーー莉子だから、その手を取ったんだ。
大切にすべき人。
大切にしたい人。
大切に、したかったーーのに。
この時俺は嘘をついた。
彼女に一つだけ、最低だと分かりながら。
「莉子、好きだよ」
「記憶がない私も?」
立ち止まって、改めて彼女を覗き込めば、莉子は拗ねたようにそっぽを向いた。
頬も耳も赤くて、彼女の感情が手に取るようにわかった。
莉子のこういう所が可愛くてしょうがない。
「うん、好きだよ」
ストレートに言葉を紡ぐことが大切だと思い知ったのは、莉子と付き合ってからだ。
莉子は困ったように笑う。
その笑顔が、どんなに嬉しいものか、きっと莉子は知らない。
どんなにその笑顔を待ち望んでいたかも。
『莉子』の笑顔を、どれほどーー
「莉子、キスしていい?」
更に赤くなる彼女の白い顔が、街灯にぼんやりと照らされる。
ゆらりと揺らぐその影に不安を覚えて、彼女に手を伸ばした。
高い体温だった。
彼女が頷く前に、唇を押し付けた。
この幸せがいつまでも続けと願った。