【二十四】私の名だ
久々に田舎に来た気分だった。
眼の前に広がる豊かな緑の膨らみ、
草木の瑞々しい匂い、
枝に止まって長閑な音色を奏でる小鳥。
地平線まで人っ子一人いない道のり、
土埃と錆まみれの自販機、
7時、場合によっては6時に閉まるガソリンスタンド。
これが田舎だった。
久しぶりだった。
すれ違うだけで会釈や挨拶を交わす老人たちからは、
地元の顔見知りと同じ空気を感じる。
幼い頃の思い出とはだいぶ変わった故郷とは違う、
思い出の中の田園風景がここにはあった。
大きな山があって、クマが人里や地元のスーパーにたむろしていない。
クマがいない地元のようなところ、つまりここは人口減少が止まらない地域ということだ。
廃村の決まった、農村がコミュニティとして維持できる終わりのひと時にある場所だった。
そんな村に僕たちはいた。
秋田は今や異世界のクマ王国と共存していることで
注目度合いは世界トップの先進文明への玄関同然になった。
クマが入県制限をしてしまっていることで、秋田の中には外から容易に入れないままだが、
秋田の周辺地域は世界中から研究者や外交官が来るようになり、渦中の県以外は大きく潤った。
渦中の秋田だけはクマとの交渉と共存に追われて何一つ富む余裕がなかった。
「ああやって最初は稀人として友好的に振る舞うんですよね。
でも慣れてくるとあれこれズケズケと聞いてきて、
挙句の果てにはあることないこと決めつけて醜聞を広めるのが田舎の人なんですよ。
本当になんて邪悪なのでしょうか。配信して晒すしかない」
「その思い込みだけで全世界に“この人、悪者です”しようとするのやめようか」
老人に挨拶される度に背中に隠れるりさが頸だけ伸ばしてぼやき、
僕ができるかぎりにやんわりと窘めた。
やけに田舎に詳しいようだが、
もしや決めつけで語っているのか?
それはよくない。言っていることは何一つハズレていないが、
だからといって決めつけていいわけではない。
「ふん、ってしますもんね。
親友に何を言われたった聞きません」
「聞きなよ、友達の言うことは」
親友であるストリーマーに脅されて
配信者のスタッフとして働かされていた学生時代。
時代を牽引する実業家として僕はセイメイ、六川リンと再会した。
意味深な言葉、表情で僕を見た気がしたが、
それ以降は何も言及がない。
あれは気のせいで、もはやこちらのことは忘れているのかも知れない。
それか自分から忘れようと努力して記憶を消したか。
あの天才ならそれも可能だろう。
「セイメイ様は素晴らしい御人です。
学歴も生まれも言語も氣にせずに能力だけを見てくれます!」
「彼女は深夜によく差し入れしてくれるし
成果をあげると労ってくれるから優しい人だよ」
「有給申請が却下されたのはショックでしたけど、
今が肝心な時期だから
後でたっぷり休みをくれるって言ってくれたので気にしていません!」
試しに秘密裏にセイメイの会社で働く人たちにインタビューしてみたが、
一切後ろ暗いものがなかった。
これは本当に彼は、善き方向に変わったのか。
あの夜のことを許すつもりも忘れるつもりもないが、
もしかしたら、両親と故郷の人たちを死なせたのを最後の凶行とし、
彼は改心したのかもしれない。
だが、彼だけは僕の中で警戒する気持ちがあった。
過去だけの罪で警察に電話をするにも
彼は企みを完遂する中で証拠を残さない人種だった。
そのことを一番知っているのは、
セイメイの幼馴染で親友の僕だけだった。
「ふむ。親友である六川リンさん……セイメイとそのようなことがあったのですね」
蛇の道は蛇、とのことらしい。
両親に相談して、もらった助言に従った。
僕だけでは探りきれないことを
りさはすぐに突き止めてくれた。
今、僕たちがいる村に、
セイメイが何度も訪れているという。
さっそく、りさに連れられて
山の奥に入っていった。
「ここでは古来より幽世への入口が封じられているようですね。
彼女……彼でしたね。彼が狙っているのであれば、
それは間違いなく門の解放でしょう」
時空間の歪みの検知、
それと古びていても欠かさず整備されている社を検めて
りさが分析した。
僕はまだ異世界への恐怖に囚われているのか。
今も取れない苦々しい思いが胸に満ちていく。
とりあえずはと、さっそくに村の長、
それと代々門を鎮めて清める役割をしているという巫女一族に会った。
「貴方達が訊くようなことは一切ありませんよ。
この村はただの寒村です」
門についてを質問すると、
完全にはぐらかされてしまった。
脇腹をりさが何度も執拗にこねくり回してくる。
単刀直入に村の秘密を尋ねてしまったのがよくないらしい。
僕が悪いのはわかるけれども、
事前に注意してほしかった。
「セイメイさんはただこちらに遊興に来ているだけじゃよ。
いらっしゃってくれる度に面白いお話をしてくれるんじゃ。
整備が必要な道路や水道を見つけては役所にかけあってくれるので、
みんな、あの人が来るのを楽しみに待っておりますじゃ」
本当に訊くことになるとは思わなかった
老人そのものの口調をする村長が話をしてくれた、
隣で僕が熱燗をお猪口に注ぐ。
りさもいるが彼女は絶対にそういうことをしない。
彼に晩餐に招かれ、
お相伴はんに与り、地酒を注いでもらいながら
最近の出来事や村のこれまでについて話してもらった。
豪華ではないが、きちんと整理と掃除が行き届いた
丁寧なお座敷だった。村長の人柄がわかる気がした。
ここでもセイメイの評判はとても良かった。
故郷にいた時よりも遥かに愛されているとさえ言えた。
それに、田舎の人たちの大きな悩みの種と言えば
就職と上京するにしてもあてのなさだったが、
貴重な遊興の場であるお礼として
希望者の就職先と上京した後の世話をしてくれるという。
僕は思った。
面倒見が良すぎる。
これは間違いなく彼は過去を後悔しているのだ。
ならばこちらも良心のなんたるかを信じたい。
「あたしもあの人の援助でこの村を出ることに決めたんです。
と言っても、向こうの大学で勉強して卒業後に帰ってきますけれども、
アルバイトとして手伝ってくれたら無利子で学費と生活費を貸してくれるんです」
帰ったら祖父のお世話をしながら、
リモートしながらのんびり暮らします、と
将来に目を輝かせて巫女をしている少女は語った。
「セイメイさんは村の救世主ですよ、本当に」
……これは僕が、一旦は過去の遺恨を横に置くべきなんだろう。
「それを聞いて安心しました。
秋田生まれだからか、故郷と似たところを見ると心配になってしまって……
色々と訊いてしまい、すいません」
「おお、あのクマ王国の……」
秋田出身と話すした時のいつもの反応だった。
尋ねられたことを答えていくと、
夜が更けていく、僕は酔わないが
相手にお酒が入り上機嫌になるとこっちも夢心地になる。
「そのセイメイさんですが、なにか見返りを要求していますか?」
ずっと黙っていたりさが、
宴が盛り上がっていくにつれて口数を増やしていく。
周りの騒ぎに呑まれるくらいのトーンと声量で
訊きたいことを素直に言葉にして投げつけた。
彼女は対人関係においてだけは
相手を怒らせること以外で回りくどい道は取らないタイプだ。
これまで見たことのない真剣な目で、
彼女があれこれを探っていく。
僕の思いつかない質問方法や切り込み方で。
「無利子の融資だけでなく
こんなに高時給で働かせてもくれるんですね。
それも特に実績も能力もない村の人達を。
ここにセイメイさんが滞在している間、誰と行動をともにすることが多いですか?」
「それは知らんなあ……あの人は、いつも一人でいるのを好むから」
「そういやあ、あの人が外出しているのを見たことがないぞ」
「なるほど……」
僕はもうセイメイへの疑念と警戒を捨てたが、
流野りさは僕たちが一度東京に帰ってからも時間を見つけては
度々、ここを訪れては調査を進めていた。
どうしてそこまで氣にするのかを質問してみたら、
彼女は、その時は短く「故郷と似ている」とだけ答えた。
何も知らなかったから彼女も田舎生まれなのかとだけ思った。
村に赴いてひと月が経ち。
セイメイは村を滅ぼしてしまった。
誰にも見られない不可視の護符を己に使って、
時間をかけて門解放どころか、村そのものを幽世に差し出す陣を構築していた。
村長、巫女、宴にいた人たち。
全身が死体の山の一つとなって
異界からの妖しい者達の食料になっていた。
原型のわかる亡骸の顔はたしかに、僕達を歓迎し、
これからの人生に希望を持つ巫女のものだった。
今や光のなくした瞳は何も映さず、
目元は涙の筋だけ刻み、
それ以外は異界からの来訪者たちに
よってたかって腑分けされ、食餌にされていた。
「君に再会したら、始めようと思っていた。
もしも会わなかったら、普通につまらない億万長者になっていただろう。
だが、どう思う? 僕と君が会わないままに人生を終えると本当に信じられるか?」
両腕を巨大な鬼に羽交い締めにされ、
死体から流れる内蔵と血の川に顔を押し付けられた。
返り血ひとつもついていない綺麗な顔で
セイメイは静かに告げた。
「会社の奴らも全員こいつらに喰わせた。
これからも餌場を提供してやり、
見返りに僕はこいつらをこき使う。
社員にするなら従順で体力のある奴らが一番だからな」
「ふざけるな……!!」
怒り、そして村人への信頼を裏切ったことを
少しも悪いと思っていない男への
言いようのない悲しさに打ち震えた。
「これは君のせいだ」
髪を捕まれ、顔を上げられる。
長い間、会っていなかったのに、
出会った日のままの美しい長髪が地獄を背景になびいている。
「ずっと、初めての本気の争いをして以来、
心を占めるのは、お前への…………
100の感情が混ざってうねる渾然一体だった」
僕の頸に長い指、しなやかで白い手を伸ばす。
決別の夜、彼女の攻撃は僕にダメージを与えた。
しかし、今もそうという保証はない。
彼は、また僕の前で人々を大量に死なせた。
「許さない……!!」
「先に裏切ったのは──」
手を追い越して鼻と鼻がくっつく距離に
セイメイは顔を近づける。
燃える空、次々に陣によって開いた門から昇ってくる
鬼、哭鳥、入道、蜘蛛が船頭する骨船、見たことのない者達。
すべてが狂っているのに、
僕の意識も目も、セイメイ、正確には見たこともない深さと火力で燃える瞳に
魅入られてしまっていた。僕が愛した野蛮と無知を憎み、
理性と可能性を追い求めた賢者はいない。
なのに、原始的な感情、言語化不可能な激情に
理性がバラバラになろうとしている彼もまた美しいと思ってしまった。
「裏切ったのは、貴様の方だろう。米倉毅」
セイメイの胸から
背後より音もなく忍び寄ったストリーマーに突き刺された長剣が生えた。
口から血塊を断続的に吐き出し、
指も手も僕から離れた。
「大丈夫ですか!?
覚悟を決めてください!
この人は今すぐに倒すべき邪悪です!!」
言われるがままに力を振り絞って
鬼たちを振り払った。
まだ微かに指先の感触の残滓が頸にあり、
それを意識から懸命に追い出した。
「セイメイ……!」
「シニスター・セイメイだ」
血を失った
青白い肌、紫色になった唇を弓なりに吊り上げ、
僕のアークヴィランは言った。
「貴様を殺す、私の名だ」
僕たちが過去を共有した最後の瞬間、
これの後に、僕達は果てしない戦いに見を投じることになる。




