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【五】彼女、そういうタイプかな?

【五】

 それからというもの、ジェーンは父とはもう何年も会っていない。

 成し遂げた改革、農業革命によって貴族は皆、騎士としての食い扶持をなくした。

 戦争外交が不要になれば、戦う者は居場所をなくす。

 引いては社会からの目も厳しくなるのだ。

 そうして農業に鞍替えした者もいれば、寝ても暮らせる階位であるため、そのまま引退した者もいた。

 生きがいをなくしたエルロンド公爵はすっかり腑抜け、日がな庭を眺めてはボンヤリしてい日暮れを迎えたものだ。

「父を殺す娘などいらん」

 剣を捨てて背中を丸める直前、武勇を誇る父は憎々しげに娘を罵った。

 早くから母は娘とは不干渉でいることを決めていたので、話すも話さないもなかった。

「あなたは化け物ね」

 たまに顔を合わせたと思ったら自分にそう言ったのを記憶しているが、正しかったとジェーンは考えていた。

 つまるところ、ジェーン・エルロンドにとって家族という繋がりは全くの無縁だった。

 ──それは寂しくないかい?

 なんとなく昔のことを思い出しているジェーンの横顔に直接語りかけてみた。

「あたしにはどうしようもないことだし、二人ともお米を悪く言うことが多かったから好きじゃない」

 考え事も伝わるほどに近づいた僕達の魂の距離。

 それが彼女の返事と一緒にまた遠ざかった。

 僕はまた認識されなくなった。

 気軽に会話ができるまではまだ遠いようだ。

「お呼びですか、ジェーン様」

 ノック4回、来室の許可を得てから、メイド長のシスマが入ってきた。

 ジェーンがエルロンド家で心から信頼する、ほぼ唯一の人間だ。

 新人メイドだった頃に、不思議とジェーンが懐き、そのまま付き人に昇格した。

 彼女を通して、ジェーンはエルロンド家と辛うじての会話をしていた。

「大事な話があります」

 メイドに椅子を出して、座らせた。

 紅茶を淹れて高級スコーンもお出しする。

 主従関係の逆転。

 彼女ら二人には当たり前の光景だ。

「どうしましたか? 本日は向こう5年の予算の組み立てと、必要な器具の整備、開発部の訪問、農務大臣との会議の日程合わせをしましたが、まだしておくべきことが?」

 このメイド長には事業で必要なこと全てを握らせている。

 クレオの実質的な後釜だったが、彼女はそれを十全にこなしていた。

 外交・経理・開発の仕上げ・器具の手入れ・農民に広める知識のノウハウ化。

 それら全てをたった一人でやり切るシスマは、ジェーンの目から見てもモンスターの中のモンスターだ。

 彼女とクレオがいるから、ジェーンは自分の異常性を知っても基本は無頓着気味だったところがある。

「あの……あたしの活動についてどう思う?」

「もう少し葉を蒸す時間を長くしては?」

「貴女に淹れた紅茶じゃなくてね。なんていうか……その……」

 言い淀むジェーンを見て、付き合いの長い彼女も察したのだろう。

 形の良い切れ長の目を細め、深々とため息をついた。

「まだ予算を捻出してほしいのですか」

「違う違う」

 両手を振って否定した。

 いつもいつも無理を言って限界を超えた無理を強いてきた。

 彼女に申し訳なく思う……ほどジェーンは殊勝ではない。

 それでも僕は近い内に盛大な“ありがとう会”を主催しようと考えていたのを知っている。

 全てが自分に協力すべきと確信しているジェーンにはありえない殊勝な考えだ。

 その考えを持って5年が経過しているのを加味しても、お米の聖女に感謝の念という高等な感情を引き出したのは、称賛に値する。

「実はね。お米のことは一旦休もうと思うの」

 聖女が誰よりも傲慢である根源。

 お米関連の事業の休止を宣言した。

「わかりました」

 十年をお米に捧げた聖女は、どういう風の吹き回しかと質問攻めに遭うのを覚悟していた。

 しかし、腹心は静かに立って天蓋ベッドに行った。

 ジェーンを知っていれば絶対にありえないとわかるはず。

 もしやシスマ視点では案外普通の人だったのかも知れない。

 頭の良い人の考えというのは僕のには預かり知るところではないからだ。

 メイド長がベッドメイキングをするのか、ジェーンの寝床に行く。

 だが枕の下に手を入れたとおもいきや、次には電流を帯びたスティックを振ってきた。

「あぶなっ!!」

 耳の上の髪が電流に炙られ、焦げ臭い臭いを放つ。

 護身用の魔法具だ。

 軽く、頑丈で、掠るだけで相手を麻痺させるくらいの力がある。

「危なくはありません。脅すつもりなだけですから。ジェーン様は何処ですか? それともジェーン様を乗っ取っている? 洗脳された? とにかく洗いざらい話してもらいます」

「どれも違うわ!」

「あの御方がお米から手を引くと? 馬鹿にするのもいい加減にしてください」

 それはその通りだ。

 しかし、説明するにもどうしたものか。

 1年後に革命が起きて家が滅んで自分もギロチンにかけられたところから、超光速でタイムスリップしたと言っても信じてもらえるのか。

 前世がスゲーマンを名乗るヒーローとやらで、その力に目覚めたとしてもこの世界には前例がない。

 それと、お米に関する知識と才覚が前世由来なことも伝えても信じてもらえるかわからない。

「本当よ! その、小耳に挟んだの! 農業やってる場合じゃないって!」

「彼女が農業以外に耳を貸すと?」

「それはその通りね」

 反論の余地がない。

 シスマは家族以上の繋がりでジェーンに従ってきた。

「でも待って、これは本当にヤバいことなの! シヴィル・リーグって知ってる?」

 スティックを振り上げるメイド長の動きが止まった。

「…………どこでその名を?」

 やはり彼女の知見の広さと深さは目を瞠るものがある。

 両手を上げて一切敵意がないのを示しながら静かに語りかける。

「実は1年後の未来から今日この日に戻ってきたの。シヴィル・リーグっていうのに革命を起こされるのよ」

「聞いて損した」

 しなりをかけて二の腕に襲ってくる雷の棒。

 辛くも避けたジェーンは逃げ回りながら説得を試みる。

 僕の速度に触れた御蔭か、反射神経が上がっているようだ。

「待て待て待て待って!! 落ち着いて考えましょう。仮にあたしが偽物とか操られてるとして、こんなこと言う!? そんなバカがこの世にいる!? このジェーン・エルロンドに“お米から手を引く”と言わせる意味はある!?」

 スティックを当てようとしてきたのを身を捩って避け、必死に訴える。

 半身になって被弾面積を最小限にして、メイド長が攻撃を繰り出す。

 主の説得はどこ吹く風だ。

 ジェーンの努力は残念だが逆効果。

 僕の高速移動を味わったこと、それと農作業にも積極的に参加してきたのが原因で彼女には自覚しているよりずっと体作りができていたこと、これらが噛み合って奇跡的に攻撃を避け続けられている。

 なのだが、それは普通はありえない。

 だってシスマはかなりの凄腕だからだ。

 貴族の令嬢、それもいつも研究してばかりのデスクワーカーが躱せるものではない。

「しぶといですね。演技力はお粗末ですが」

「だから本物──ひょええええ!!」

 一振りだけと思っていたが、相手の袖からもう一振りの電流棒が出てきた。

「ああああああ! ちょっ待ってまだ対応できてない二個は無理無理」

「そうでしょうね。隠した甲斐があります」

 上手い。

 ベッドからジェーン用の護身武器を出したのはブラフ。

 それから相手の武器が一つという思い込みを利用し、自分の武器は使わない。

 しかも実質的に二刀流になったことで、敵の強さが二倍になったと錯覚させられる。

 実態はそんなことはないと言うが、同型の武器が双つはインパクトがある。

「あのねこれからあたしはお米を休んで世の中を良くするように粉骨砕身がんばろうと思うの!」

「大根役者と言いますが大根でももっとうまいですよ」

 両サイドから挟むように青い火花を散らす棒が振るわれた。

 回避不可能なタイミング、角度、速度。

 僕も次にはジェーンの丸くて赤いほっぺが挟まれるのを予感した。

 だが追い詰められたジェーンの行動は、僕の考えをひとっ飛びした。

 大きく跳躍したのだ。

 彼女が師匠と慕う庭師の老人が教えた心得。

 《足腰の強さは生命力と直結する》という金言。

 空いた時間は農作業、それ以外はもっぱら本と羊皮紙に埋もれた生活。

 それでも足腰を鍛えることだけはやってきた。

 幼少期から公爵家令嬢として栄養価の高い食べ物を摂取してきたため、彼女はとても健康な体と、立派な両脚を育んだのだ。

 生命の危険により、僕に導かれてやった飛行の動作を再現した。

 深く腰を沈め、右腕を床につけてから両腕を回転し、遠心力をつけて垂直に跳ぶ。

 結果は見事。

 軽々とシスマの攻撃を空振らせ、彼女の頭上も飛び越え、天蓋ベッドよりも高く、天井に頭をぶつけた。

「ふぎゃっ」

 尻尾を踏まれた猫のような悲鳴でジェーンはひっくり返った。

 両足が頭の横になり、スカートがめくれて下着が露わになった。

 頭上を超えられて仰天していたシスマが呆けた。

「……何がしたいんですか?」

 遅れて激痛がやってきたので、頭を抑えてジェーンがのたうち回る。

 普通なら、あそこで完全に虚を突いたことで、攻撃に転じる。

 僕も身体能力ばかり達者な戦闘下手、対戦の駆け引きでは小学生に負けるほどだが、それでもあれはチャンスとわかる。

 だが、そんな絶好のチャンスを自滅に使ったことで、聞く耳を持たなかったメイド長の表情が和らいだ。

「もしも操られてたら、あたしはもっと優秀に振る舞ったでしょ!? だって貴女なら知ってるじゃない! あたし、一人じゃベッドからも起きられないポンコツだって!! 眠れない時の子守唄、柔らか仔猫ちゃんだって15歳まで毎晩歌ってもらってたほどよ!? お米がなかったらただのアホ令嬢だわ!」

 情けないことを自分からつらつらと並べる。

 効果は覿面だ。

 目の前の不審人物はメイド長抜きでは米を食って寝るしかできないアホその人だと、理解してもらえている。

 絆の辛勝だった。

「やわらかー猫ちゃんーーぷるぷるぷー」

 苦し紛れに眠れない時に歌ってとせがむ子守唄も口ずさみ始めた。

 出し惜しみのない命乞い。

 真なる改革者の風格があった。

「……本当にジェーン様なの?」

 電流棒の起動を止め、胡乱な顔をする。

 たしかに今朝から様子がおかしいところだけを見せてきた。

 それに十年間も大金と労力と時間と命を注いできた事業を休止させるとなれば、本人の言葉と思わないのは当然すぎる。

 恥を晒したことで、理知と明晰の体現者なメイド長はようやく話を聞く姿勢になった。

「しかし、未来から時間を遡ってきたと言われても……」

「まあ、信じられなくて当然よね。でもね、これはあたしが転生者だからできたの」

 貴族が前世にアクセスするという禁忌を犯したのは隠さない。

 これをバラすとしても、他にもバラされると人生が終わるネタをいくつもメイド長に握られている。

 一蓮托生と言うよりはシスマは一方的にいつでもジェーンを破滅させられる。

 いわば聖女のベビーシッターだ。

「転生者にそんなことはできませんよ」

「うん。そうよね! けどあたしの前世ってのが本当に変なので……」

 ──変とは随分なことを言うじゃないか

 現れたスゲーマンの姿を指差してジェーンが騒ぐ。

「出てきた! こいつよ、こいつ! スゲーマンっていうの」

 “こいつ”とはずいぶんな言い草だ。

 せっかく姿を見せられたのに……ちょっとショック。

「何も視えません」

 ジェーンには視認できても、周囲の者にはできない。

 当然のことだ。

「ほら神とか魔王が前世だと魂が溢れるらしいじゃない! それがあたしの場合はスゲーマンっていうスーパーヒーローのなの!」

「仰る意味はよくわかりませんが……そんなことありえませんし。とりあえず試してみましょう」

 メイド長が半信半疑でジェーンの指を取ってナイフの先端を押し付ける。

「失礼します」

「いたっ」

 そのままにメイド長が指の腹に小さな傷を作った。

 じんわりと滲んだ血液。

 それに魔法がかけられた。

 傷から溢れる血液の体積が膨らみ、掌にすっぽり収まるくらいの球体ができた。

 赤い粘液めいたものが形を変え、胸像ができた。

 ジェーンが目撃しているビジョンそのままのフォルム、それを小型にしたものができた。

「はじめまして、こんにちは」

 ジェーンの脳内に流れる音声ではなく、声としてスゲーマンの言葉が空間に響いた。

 二人が目を丸くしたが、もっと驚いたのは僕自身だ。

 死んでいるのに形を取って、言葉を発せられた。

 粘ついたエフェクトはかかっていても、だいたい自分の声だった。

 ひどくキザなポーズをして挨拶をしてみた。

 人差し指と中指を揃えて伸ばし、眉に添えてからスナップを効かせて払う。

 僕の世界で流行った挨拶……ではないが、僕が流行らせようとして失敗したものだ。

 かっこいいと思うんだけどなあ。

「本当にできた……」

 身の回りのすべてを世話してもらってる聖女の世話役だが、目を丸くしているのは初めて見た。

「あなたがジェーン様の前世様?」

「そうみたいだね。全然性格は違うけれど。僕が保証するが、彼女の言うことはみんな本当だよ」

 ジェーンを通して家族同然に知っているのに、相手はまるでこちらを知らない。

 なかなかユニークな体験だ。

 しげしげと僕の姿を観察してシスマは首を傾げた。

「何故、寝間着なのですか?」

「これはヒーローコスチュームっていうんだよ。言うなればヒーローの正装さ」

「ヒーローとは?」

 この世界には僕の世界の中世との類似点が多い。

 場合によっては魔法によってより中世を超えているところもある。

 ヒーローの概念はその中に入っていないようだ。

「ずっとジェーンを通して見ていたよ。僕の来世がとても世話になっているね。君が家族なのは彼女にとっても人生最大の財産だろう」

「それは褒めすぎですよ」

 僕の正直な感想に、シスマは頬を赤らめた。

 鉄面皮とされる完璧人間めいた女性だが、決して無感情な訳ではない。

 シンプルに主に恵まれていないんじゃないだろうか。

 親交を深めるジェーンには気になることがあった。

 この場の誰も追求していないがこれは血水魔法だ。

 気になる気持ちはよくわかる。

 血水魔法とは、水魔法の中でもとりわけ対人戦闘に優れたもの。

 というよりも人間を相手にするなら文字通り攻略不能の無敵と断言していいくらい。

 僕の世界にも同じ力の使い手がいたが、これだけはてんてこ舞いにさせられたものだ。

「君の魔法は見事なものだね。生前の僕では手も足も出ないだろう。そして聖女の守護者にして実質的に騎士という在り方……言うなら姉にして母。スーパー聖女だ」

「それは光栄ですが……あなたは人を褒めるのがそんなに好きなのですか?」

 極々一部の水魔法使いの家系にしか発現しないという天才の証。

 身のこなしを見てもかなりの達人だ。

 生前の僕でも劣勢だったに違いない。

「いいや。全て本心だ」

「見たところ、かなりの熟練戦士のようですが」

「戦いの才能はなかったよ。音速移動ができて、パワーで星を砕けるからそれで頑張ってた」

「本当なら私に勝ち目は0ですよ?」

「さすがはスーパー聖女。謙遜も達人級だ」

「…………はぁ」

 メイド長は白けた顔で首を傾げた。

 なんでもできる、万能性においてはクレオも上回りかねないメイド長のシスマ。

 彼女ほどの実力者、有能な人間は宇宙を通してみても五人もいないに違いない。

 どういう理由でエルロンド家のメイド長をすることになったのか。

 自分のことばかりで他人のことなど意にも介さなかったジェーンだけでなく、僕も興味を惹かれた。

「それで、話を戻すわね。お米の事業は一旦中止!」

 だが彼女は、身内への興味よりも話を進めるのを優先した。

「……それでなにをなさるつもりですか?」

「社会を良くします!! まずは教育ね教育!! 子どもたちを優先して施設に集めて、学問を身に着けさせるの!」

 昼に会った兄弟のことを思い浮かべる。

 彼らが言っていた通り、飢えることがなくなった社会を良くするのなら、あれだけ増えたやることのない者たちにできることを増やすのが善いだろう。

 そのことがお米のことしか考えていない聖女にもよくわかった。

「……ずっと前から進言してましたよね? 稲作以外の職業の受け皿を作らないと人民の不満が高まるって」

 冷めた目でシスマは首を傾げる。

 もっと言ってやってもいい。

「そして! あたしが飢え死にをなくしたせいで増えた、行き場のない悪漢による犯罪をどうにかするの! 治安維持用の軍隊を作るわ!」

「駄目です」

「なんでよっ!」

 最初のツッコミはスルーしたものの、否定の方はショッキングだ。

「聖女が軍を作る? あまりに目立ちすぎます。国王・領主の立場で軍を編成するのは防備のためと言い訳も立ちますが」

「え、あたし領主じゃないの!?」

 今、屋敷を構えている一区画の自治権をジェーンは与えられている。

 税の取り立て、公共事業、インフラの整備と領主のやることは数多いが、聖女の権限で税の取り立て以外はほぼ全てやっていた。

 これは単純なことで、稲作の品質の維持・向上・研究を追求するなら自然と周囲の環境をよくせざるを得ないからだ。

 正確には領主はべつにいるのだが、民衆もジェーンも全員が自分を領主と思っていた。

「じゃあここの領主って誰だったの?」

「クレオ様です」

「なんだじゃあ一緒じゃん」 

「………………」

 姉妹以上の絆で結ばれた親友の名前を出され、拍子抜けした。

 そんな主の気楽さを従者は凍てついた双眸で睨めつける。

 ここはふざけたことを言う場面ではない。

 特権を得ている者ほど、自分の領分を適切に把握しなければいけない。

「国を改革した聖女が軍を作るとなれば、どうやってもあらぬ噂が立ちます」

「はい」

 本気で怒られる気配を感じると、ジェーンは大人しくなった。

 ちょこんと膝を揃え、ベッドに座り、勤勉な生徒のように耳を傾ける。

「加えて、あなたに軍を指揮する能力はありません。これは絶対です」

 正論だ。少なくとも僕にはそう聞こえる。

 ジェーンがずっと他者の内面には注意を払わなかった。

 人を率いてプロジェクトを進めては来たが、クレオやシスマがいなくてはただ進むだけで正しい方角には向かえなかった。

「改めて訊きますが、どうしてそこまで方針を急転換したのですか?」

「このスゲーマンの魂の量が凄すぎて、このままだとあたしの魂から溢れっぱなしなんだってさ」

「それで人格を持つなど、聞いたこともありませんが……」

「専門家が言ってた!」

「後でそこの場所を教えていただけますか? こちらでもっと詳しく聞いてきます」

「はーい」

 状況を疑う時でないとわかるやすぐに状況判断とこれからやることを、メイド長は思考する。

 飲みかけだったカップの中身を凝視し、液体に精神を向けた。

 会話の流れが止まったが、じっと待つ。

 こういう時は決まってメイド長が何かを考えついてくれたものだ。

 何故なら、彼女は誰よりもジェーンの助けになる人間。

「……これはあくまで提案ですが」

「へいへい」

 公爵令嬢らしからぬ話し方をしたせいで、じろりとまた睨めつけられた。

 師匠だった敬愛する庭師の影響によって、聖女はたびたび農夫的な話し方をする。

 彼女の人生において接触するのは主に貴族よりも農夫の体験や要望が主なのだからどうしようもない。

 とにかく、主よりも美しく優雅な話し方をする従者が何を口にするか楽しみだった。

 きっと全てを解決する糸口になるに違いない。

 同じことを考え、ジェーンも僕も瞳を輝かせて、続きを待つ。

 ジョナサンとフレディのような正しく優しい人間らがもっと良い環境で生きられるのなら──

     弟をどうするつもりだ!

     兄ちゃん、怖いよ!! 助けて!!

 聖女の耳に超高音の耳鳴りと同時に、知っている声が聴こえた。

 耳をとっさに覆うも、突然に超聴覚が発動したことで周囲の音も洪水の如く渦巻管に流れてくる。

     何もしたくねえ

     わんわん!

     二人はどこだ?

     ああん、そこぉ!!

     オギャーオギャー!!

     ブリブリブリ。

     ニャァアアアオ!!

     やりたいことわかんねえ。

     もういいや寝る!

 無差別・無分類な音の大海嘯。

 メイド長が何かを言っているが一切聞こえない。

 夜も更けた時間帯。外は繁華街や酒場以外は騒音とは無縁。

 周囲数十キロの息遣い、衣擦れ、呼吸音、叫び、囁き、会話、嬌声、罵声、怒声が渾然となっている。

「ぐっ、ぐうううっ!!」

 堪らず頭を抑えて転がった。

 頭を床に何度打ち付けても何も変わらない。

 常人なら頭が破裂する情報の雪崩だ。

 農夫に稲作の講義をすると“頭が破裂する”とよく文句を言っていた。

 家業なんだから限界を超えろと聖女は憤慨したものだったが、実際に体験するとよくわかったはずだ。

 限界を超過した情報量は、脳みそがパンクしてしまうのだ。思考が拒絶し、心が閉じこもる。

 死水屋が言った“大きすぎる魂に器が壊れかねない”ということの意味を、彼女は実感していることだろう。

「どうなさいました?」

 いつも冷静沈着なメイド長だが、主が苦痛に悶えていると、その冷静さにも罅が入る。

 冷や汗が一雫、整った形の額から顎へと頬を伝って流れ落ちた。

「いきなり……周囲の音が全部……! 前世の感覚が戻った……! たぶん」

「どうすればよいですか」

 すぐにこちらに問いかける。

 前世の余剰魂を血に籠めたのが、会話可能な形にした僕の現状。

 ジェーンに前世の能力が目覚めたのなら、当人に聞くのがシンプルだ。

 事実、僕はジェーンと受ける情報を共有しているのに平然としている。

 これはスーパーなパワーを持つものにとっての通過儀礼。

 自分の力が自分を苦しめるという経験だ。

 乗り越えればきっと、彼女はもっと他人の心や痛みに寄り添えるように……。

 彼女そういうタイプかな?

 内心で首を傾げたが、僕はどんな相手でも信じることに決めている。

 例外は宿敵くらいのものだ。

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