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【三】ヒーロー様が助けに来たわ

【三】

 ジェーンの瞼が開いた。

 前世の記憶から戻ってきた。

 転生した人間。

 それは古くから確認されてきた。

 今では一般的な力になった魔法も、元は転生者の知識によって生み出されたとされている。

 なので、お忍びで死水魔法使いに会いに行った。

 水の魔法は攻撃力が低いが、汎用性においては右に出るものがいない。

 ジェーンも事業を通じてとても世話になってきた。

 けれども、前世のために接触する日が来るなんて思ってもいなかったことだ。

「視えましたか?」

「え、ええ……」

 目元を擦り、ぼんやりした頭を振る。

 魂についての事象を取り扱う死水屋。

 メイド長には心配をかけたくないので、口が堅そうな新入りメイドに場所を調べてもらった。

 貴族が前世にアクセスするのは原則として硬く禁じられているからだ。

 大きく息を吐いたジェーンは、情報の濁流から解放され、徐々に落ち着いて来ていた。

 全ての色と匂いを人工的に消した空間が、前世から今の人生に再適応する猶予をくれる。

 極彩色の体験。思考も頭もハッキリしない。

 平民が前世にアクセスすることが許されている大きな理由だ。

 前世という情報はあまりに大きすぎて心が耐えられずに、すぐに忘却を選ぶ。

 なんでも過去からの転生だけでなく、天界、冥界、妖精界、宇宙の果て、別の世界からの転生の例も確認されているらしい。

 神々や怪物の世界の記憶というのは、人間に耐えきれるものではない。

 ジェーンの意識が鮮明ではないのも寝ぼけているからではない。

 受け取った情報量の圧倒的な量に精神的な疲労を覚えているのだ。

 あれが前世の世界。

 全ての色と建築物が明るく、派手で、洗練されている。

 発達した文明は人々の生活水準を貴族より豊かに多様なものにしていた。

 そこで行われる犯罪。魔法ではない異常な技術と、強靭な体格を用いた圧倒的な破壊。

 飛んできたスゲーマン。

 圧倒的なパワーとスピードで全てを解決。

 人々は安心と希望に顔をほころばせ、歓声を上げる。

 自分の前世が見てきた光景。

 彼女が受け入れないといけないことは多い。

「血はすなわち水。魂が染み渡る媒介です。あなたの血に働きかけることで、魂を深く視ることができます。前の命まで」

「疑ってはいないわ。あれが前世なんでしょうね」

 ──デビューして間もない頃の出来事だったね。

 隣で見守っていたスゲーマンが注釈をつけた。

「あなた、どれくらいこれをやってたの?」 

 ──百万年くらい。

「ひゃっ……!?」

 予想外の数字に鼻から変なモノが飛び出すくらいに聖女が噎せた。

 体を曲げて咳き込む。

 死水屋はジェーンの振る舞いを受け流している。

 よくあることなのだろう。

 前世の景色を見たことで、異常な行動をするのは。

「もっと見ることはできる?」

 ジェーンの質問に死水屋は難しい顔をした。

「難しいようですね。あなたの血に触れてみましたが、魂が不安定な形で融合している。というよりは融合していたのが、あなたの魂の器には収まらず、剥がれかけています」

「そんなことある?」

「魔王や神が前世の場合は。それでもこれ程に溢れているのは初めて……剥がれた魂はマナに溶けて魂の循環に還るだけですから問題ありませんが……。これは……逆に……」

 言いにくそうに言葉を濁す。

「続けて」

「貴方の魂が前世という巨大すぎる魂を受け入れる器ではないようです。それでほとんど確固たる人格が前世の形として貴方の頭にあるのではないでしょうか・しかし、そんなことは本来……」

「なんかスケールが大きくなりすぎてよくわかんないわ! 要点お願い!」

 聞いている僕にも想像がつかない。

 自分のことだと言うのに。

 僕の魂がそんなに巨大? 秋田育ちで職場でも“ライス”のニックネームをつけられていたくらいの庶民なのに?

 というか僕は“スゲーマン/米倉という人間”の一部でしかないのか。

 考えれば考えるほど頭がぐるぐるしてくる。

 生前の苦手分野だったオカルトは死後も苦手分野だったようだ。

「器の小ささと言えど、これまでは問題なかったのでしょうから、ブレをなくしましょう。大事なのは前世と繋がろうともあなたの魂が平調を維持することです」

「そのためには?」

「魂の器を広げる……のは非現実的ですから、前世の行動を踏襲することですね。そうすれば少なくともブレはなくなります」

 解答はスゲーマン、僕の希望とおおむね同じだ。

 それでも来た甲斐があったと思ってくれたらしい。

 唇は笑みを浮かべ、聖女は満足げに頷く。

 やはり、自分はおかしくなったわけではないとわかった。

 専門家の意見でもスゲーマンは前世であると保証され、これまでの彼女の常識では到底測れないあまりに巨大な世界の存在だと理解できた。

 前世がどういう人物なのかも客観的にわかった。

 ジェーンとしてはこれからの方針を決定づけるのに十分だったのだろう。

 口止め料も込みで大金を払い、店を出た。

 これが口外されれば身の破滅は確実だが、死水屋は命懸けで客の情報を守るとされている。

 一年後の処刑の日より時間を遡ってすぐに行動したから、陽はまだ高い。

「とりあえずやることはわかったわ!」

 大きく伸びをする。

 全身の関節がパキパキ鳴り、筋肉と腱が喜んでいるのがわかる。

 少し歩いただけでも、年がら年中ラボに引きこもっている生活では得られない爽快感があった。

 穢れを想起する関係上、身分の上下を問わぬ人気があっても死水屋は路地裏に店を構えている。

「魂を重ねたらいいって何度も言われてるんだから、犯罪を止めればいいのよ! ヒーローってのになる! そうよね?」

 前世の光景を見たことで、ヒーローは犯罪を止める職業のことだとジェーンは解釈した。

 僕もヒーローをやってご覧と言った手前、否定しにくいがこちらのニュアンスとは少し違った。

 いささか短絡的な思考ではあるけれども、それを伝えることは今はできない。

 ジェーンは僕の反応を待ったが、なにもなかった。

 起きてから絶えずいたのが消えていた。

「寝ちゃった? こうまで音沙汰ないと死んじゃったのかな」

 失礼な話だと思ったし、僕はたしかに死んでいる。

 それはそれとして、彼女が死水屋で見た前世の光景から起きてからというもの、僕の言葉は彼女の耳に聞こえていない。

 死水屋が言うには、前世と繋がるのは精神に負荷がかかるとのことだった。

 僕が見ることしかできなくなったのは、ジェーンの精神がまだスゲーマンを全て受け入れることができていないということなのかも。

 本来は前世などいないのが普通なのだ。

 僕としてもつきっきりで話しかけるのは良くないと思っていた。

 前世と会話できないのがわかり、ジェーンあまり気にせずに行動をしてみることにした。

 お忍び用のフードを深くかぶって歩き出す。

 進行方向は賑やかな大通りではなく、路地裏を向いている。

 あまり生活が上手く行っていない人々の区画。

 整備が放棄され、打ち捨てられたことで罅割れ、激しい凹凸を持っている。

 前世の自分ならああいった場所に住む人の助けになろうとするはず。

 こういった所はまったく歩き慣れないが進む方角はわかる。

 とにかく異臭のする方向、建築物が粗末になっていくところに行くのだ。

 お米のためなら肥料に鼻を突っ込んでいたのがジェーン・エルロンド。

 汚い、不潔で恐れるほどヤワではない。

 こういうところに護衛を付けずに歩くのは、“聖女”の異名を知る者が見れば卒倒するに違いない。

 人目のつかない物陰を見つけると、周囲をキョロキョロしてそこに身を隠した。

「よし」

 頷いたジェーンがローブを脱いだ。

 何をするつもりだろうか?

 それから身分を隠すための上着も豪快に脱ぐ。

 うん!? 何をしているんだ。この子!?

「うーんすぅすぅする」

 通常は下着のみになるところ。

 だが、その上に特別性のスパンデックスをつけていた。

 極薄の生地でボディラインがくっきり出ている。

 パジャマかな?

 お昼寝でもするのか?

 ここで?

 今世の自分であるジェーンの次の行動をハラハラしながら見ていると、首だけ伸ばして貧民窟の人通りを見た。

 何をするつもりだろうか。

「とうっ」

 軽く地面を蹴って、ピチピチタイツのジェーンが往来に飛び出した。

 ………………何をしているんだ?

「スゲーマンに似た服装をさっそく見繕ったけど、なかなか良いわね! 変わった気分がするわ!」

 超常的な視力・聴力を持った僕が一番に気にしているのが“プライバシーの侵害”だ。

 世界の危機、人命のためならやむを得ないが、そうじゃない場合は原則的に、相手の踏み入ってほしくない領域は意識的に目と耳を塞いだものだ。

 だからジェーンの着替え中は意識を閉ざしていた。

 五感の調節は生前の経験が活きたと言える。

 結果、これを止められなかった。

 とんでもない破廉恥な格好、または頭のおかしな格好でジェーンは貧民窟を練り歩く。

 中世ファンタジーの世界観でこれって本当に客観的には浮くもんだなあ。

 異世界ファンタジーの街を歩いたことは何度もあるけども。

 客人としての立場だったから気にならなかったんだ。

 親御さんには見せらないぞ。

 まあ親子ほぼ絶縁状態だからせめてもの救いかもしれないのか。

「ふーん。凄いわね。みんな、聖女のあたしが素顔を出してるのに、目を逸らすわ! そりゃスゲーマンも素顔を晒すわけよ」

 ──違う! 違うよ、それ!!

 僕が必死に誤解を訴えても届かない。

 頬を上気させ、目を興奮で潤ませてもジェーンはやめない。

「よーし犯罪者ー! 犯罪者はどこだー! とにかく悪人でてこーい!」

「ひえぇぇぇぇぇ……」

 擦れた目をしてとぼとぼ歩いていた貧民窟の住人達が狂人の半裸に、腰を抜かす。

 なにか彼女はとんでもない思い違いをしているが、それをどう訂正すれば良いものか。

「そこのあなた! そう、飲んだくれでシャツにゲロついてる人! 悪徳借金取りに追われてない?」

「ひいいっ」

 変質者に声をかけられた市民が怯えて逃げ出す。

「ちょっ、なんで逃げる! そこの貴女! なんか女殴る男を知らない!?」

「いやああ……」

 貧しいエリアでそんなことをしたら必要以上に警戒されるものだ。

 僕もそう言えば同じミスをした。

 いや、こちらはシンプルにスラム街でヒーロー活動をしたら警戒されただけだったか。

 ジェーンのような何もかもを間違えているのをどう喩えたものか。

「ほらみんな! ピチピチパツパツが悪いやつを懲らしめに来たわよ! 喧嘩を売って! お願い!!」

 ポーズを決めながら叫ぶも、誰も現れない。

 こういうアプローチなら誰かがなにか向かってきてもいいものだけれど……。

 少なくとも僕の生前はそんな世界だった。

 いつでもどこでも誰かが襲ってきた。

 仮にケンカ相手を募集しようものなら入れ食いだった。

 秋田でも東京でもそうだった。

 もしや、僕の世界は荒れていたのか……?

「そこで何してるの?」

「猫ちゃんが……」

 粗末な服を着た女の子が、上を見上げていた。

 特に気にしてはいなかったが、つられて上を見ると、瓦礫が一際高く積もった危ういバランスの頂上に子猫が蹲っていた。

 猫だ! 猫を助けるイベント!

 僕も何万回とこなしたミッションだ!

 どうしてみんな室内飼いをしているのに、飼い猫が家から飛び出して木に登るのか謎だった。

 スーパーヒーローと言えば猫を助ける。

 謎な風習だがお約束だった。

 他には飛んでいった風船をキャッチしたこともかなり多い。

「諦めましょ! じきに降りてくるわ!」

 ──正しいけども諦めるのかい!? 親切モンスターをしておきながら!

 思わずツッコんだ。

 ところで“親切モンスター”は会心の出来なんだけど、どう思う?

 流行るかな?

「ええっ……猫ちゃんが可哀想……」

「見た目が良くても……猫って畑や庭にうんちすることあるからなあ。飼い猫として餌をあげてるならそんなに問題ないんだけど」

 そういうことじゃないだろう。

 というか、僕だって実家は農家だったけど、猫はたくさん助けたよ。

 単純に面倒くさいだけなんじゃないかい?

「まあいっか。もしかしたらあのねこがの正体がガーゴイルかもしれないしね! 悪い魔物が正体を現したらちょちょいのちょいよ!」

 ユニークな考え直しをし、ジェーンが直感を頼りに瓦礫の山を登っていく。

 高さは10mくらいか。

 落ちたら大怪我は免れない。

「足場の悪いとこでの作業は結構得意なのよねえ」

 荒れ地の検査を何度もしてきたジェーンはもっと酷い足場の上を動いたこともある。

 素体の運動神経はあまり良いと言えない僕には羨ましい。

 身軽というよりは、一歩ずつ力任せに、強引に高さを積み上げていった。

「ほーら来なさい。ヒーロー様が助けに来たわ」

「ニャァ!」

 珍妙な格好の変質者が上がって、腕を突き出したことにビックリした子猫が反射的に跳躍した。

 着地先は10m下。

 子猫が無傷でいられるわけがない。

「んもう!」

 追いかけてジェーンも飛んだ。

 下で女の子が悲鳴をあげた。

 僕もあげた

 ──どうするんだい!? 力がないだろ!!

「え、ないの!?」

 僕の声が届いて、ジェーンが口をあんぐり開けた。

 逆に何で力を使えると思ったんだ。

「だってヒーローしたよ!?」

 ──あれは親切モンスターだよ!

「ちょっ……ネーミングセンスがダッサ!!!」

 そう言っていると瓦礫の尖っている部分が近づいてきた。

 ジェーンが子猫を強く両腕抱きかかえ、背中を瓦礫の先端に向けた。

「ヤダー!! 猫なんかのために痛い思いするのヤダー!!」

 泣き言を叫ぶジェーンだったが、瓦礫の方が粉砕された。

 ギリギリで力が使えたみたいだ。

 超怪力と頑丈なボディを使うことができたらしい。

 起き上がって猫を子どもに押し付ける。

「こ、怖かったぁ……はい、これ貴女の猫ね。これから飼って幸せにしなさい。このあたしが、せっかく助けたんだから感謝してよね!! 本当に怖かったんだから!!」

「うん、ありがとう!! お姉ちゃん、お名前は?」

 お、ここでヒーローネームを言う所だな。

 なんとか形になったしここでバッチシ決め──

「ジェーン・エルロンドよ! お米の聖女とはこのあたしのこと!!」

 ──本名はNGワードだよ!!!

「え、どうして?」

 ──例えば悪い貴族を倒したのが君だとわかったら色んな人が危険になるでしょ?

「納得したわ。ねー。あたしジェーン・エルロンドじゃないからー!」

「じゃあ本当の名前はー?」

「適当に考えてー!! 次会ったら教えるから~!」

「わかったー」

 手を振りあって少女が猫を抱きながら去っていく。

 見た感じ、5歳くらいか。

 意識はほとんど猫に向いていたし、問題ないかな。

 ヒーローにとっての本名、それをシークレット・アイデンティティと言う。

 個人的には、秘密というのはヒーローだけでなく、人生における重要な哲学だと思っている。

 まあ今はそれを語る時間がないけども。

 周囲の安全のためもだけど、ジェーンには“自分が何を秘密に抱えるのか”をよく考えてみて欲しい。

 ──だから、考えといて。

「はいはい」

 気のない返事。

 急速に僕の声が届かなくなっていく。

 もう魂がズレ始めた。

 先が思いやられる。

 まあ駄目でも、この子が稲作の知識を永遠に喪うだけだ。

 ……可愛そうだな。僕も精一杯、祈ろう。

 それしかできない。

「もし……」

 杖をつく、腰を曲げた老婆が声をかけた。

「なに?」

「お恵みを……家では孫が病に伏せております。食べるものがなく、体が弱っているのですじゃ。何卒──」

「じゃあ金貨10枚」

「でええっ!?」

 とりあえずキリの良い金を握らせた。

 顔が映るくらいにピカピカの金貨だ。

 並の貴族でもあまりお目にかかることはできないだろう。

 少なくとも、こんなにフランクに持ち歩くことはしない。

「さあお孫さんに栄養のつくものをあげなさい。あたしとしてはオススメなのが卵を雑に焼いて、そこに塩をかけたものね。お米とのマッチングが絶妙だわ。あたしのメイド長は魚醤派だけど、個人的にはたまにイケる邪道で、王道じゃない。生卵とご飯にもポテンシャルを感じているけれども、そっちはまだ鶏の品種改良中よ」

「あ、ありがとうございますだあああ!」

 老婆は深々と頭を下げた。

 ヒーローの活動とは違うが善行だ。

 いや、それならヒーローの活動に違いないか。

 僕は彼女の行いを見て改めて思い直した。

 ジェーン・エルロンドは、彼女なりにやってみたことが正解か、これで良かったのだろうかと、何かしらが起きるのを待っている。

 今のところ、何も感じていないようだ。

 心が動いた気分もしていない。

 お米の知識が戻ってもいない。

「とりあえずもっと感謝してみて」

 それはよくない、と思わず声が出た。

 聞こえていないから問題ないことではある。

「べつに平民に金を渡して頭を下げられようがどうでもいいけど、少しでもスゲーマンの心と重なるかもしれないならやってみるに越したことはないわ!」

 そっちは声に出したらマズイ……。

 僕は頭を抱えた。

 この少女は決して悪人ではない。

 善か悪かで言えば善だろう。

 ただ、ひたすらに正直だ。感情と欲求に。

「へへー! ありがとうございますありがとうございますありがとうございますありがとうございます……」

「いいわねー。もっともっとよ!」

 両手を扇いでさらに要求する。

 言われた通りに老婆は何度も繰り返し頭を下げている。

 しかし、上下する頭を見ても頭部が行ったり来たりしているなと思うだけだと、聖女の無関心な顔を見ていればわかる。

 ジェーンにとっては無限にある資金の一部を手渡した程度。

 そんなことをされても意味がないのだ。

「もういいわ。早くお孫さんのところに行きなさい」

 と、告げても老婆は頭を下げ続けている。

 そして、杖を一定のリズムでコツコツと突いている。

 綺麗な三拍子。偶然ではない。

 肩から提げていたバッグの紐を何者かに切られた。

「マヌケがぁ!! バーカ!!!!」

 杖をついていた老婆がすっくと立ち上がって駆け出した。

 軽くなった肩を払い、ジェーンはようやく察した。

 典型的な詐欺に引っかかった。

 ゴロツキが身を丸めて小柄な老人のふりをしていたのだ。

 鴨になりそうな者が迷い込めば、憐れな貧民を装い、注意を誘ってその隙に隠れていた仲間が大物を奪う段取り。

 見事な手際だと僕は思った。

 それにあの脚力。

 毎日、朝昼晩をしっかり食べている者、特有のパワーだ。

 この世界の文明力はだいたい中世だが、ジェーンが食糧事情に劇的な改革をしたことで、餓えで死ぬ者がいない。

 栄養失調はなくなっていないが、どんなに貧しい人でも米だけは浴びるだけ食べられる。

 これにより、貧民窟の住民でも意気軒昂ということだ。

 また、中世だが食料革命によっていくつかの産業が爆発的に伸びている。

「まあ、お金くらいいくらでもあげるけど」

 ジェーンは肩をすくめた。

 追いかける気は毛頭ないので、黙って見送る。

 これも施し、とジェーンは思っているのかもしれない。

 けれども僕は反対だ。

 人を騙して不当に物を奪うというのは、あまり許していいものではない。

 どれくらいの罰を与えるべきか、捕まえて叱って見逃すに留めるべきか、それは捕まえた者ではなく、司法機関が決めることだ。

 なら被害者が気にしないなら、捕まえなくていいのかも知れない。

 それとは別問題として、そもそも捕まえないでいるのは、このエリアは人の善意を踏みにじって当たり前と許容するのも同然ではないか。

 ジェーンにそう伝えたくて彼女に念じてみるが、届かない。

「ひゃっはっはー!! 馬鹿だぜ、あんたーー!!」

「俺達を気の毒に思ったんだろうが、生憎だな! この時代に飢餓と栄養不足なんてあるかボケ!!」

「あーそういえばそうだった」

 遅れてジェーンも気がついた。

 物取りが全力ダッシュをしながら叫んだことで、聖女も気づいた。

 この時代、食べるものがないということがなくなった社会において、スラムにいるもの達は、かつてとは意味合いが変わっている。

 人生を立て直す気があるものは、お米を好きなだけ食べて、仕事を探し、普通の住宅街に移っている。

 そうなると、こういったスラム街にいる者達は、良くも悪くも“住人”だ。

 ここで生まれ育って愛着が湧いている者、思想や前科によってここで息を潜める者。

 そして、最も厄介なのが“自己実現”に犯罪を選んだ者達だ。

 墨の世界にもごまんといた“ヴィラン”と呼ばれる存在になりかねない、いわば卵である。

「俺等の必殺連携にちびって悔しがりなぁ!」

「スラム最高の芸術的盗賊コンビだぜえ!」

「こらー! 悪いことはやめなさーい!!」

 僕の想いが通じたのか、ジェーンがダメ元で叱ったが効果はない。

 そのまま逃げ切られるだろう頃に、屋根の上から小さな影が降った。

 元の世界で繰り返し目にした光景だ。

 ここで見ることになるとは。

「正義の鉄槌だー!」

「ぐわー!」

 ちびっこ自警団である。

 両手に二振りの棍棒を握った少年が、同時に盗人の頭を打った。

 見たところ13歳くらいの少年。

 貧民窟の低い屋根から降りて少しでも威力をつけようと、3回の宙返りもしてみせた。

 かなり身軽なようだ。

 僕の世界で一般的だった自警団ヴィジランテとは違う。

 まっとうな正義感と勇気で街を良くしようとする人々の活動だ。

 おおむね、司法が不十分に機能していないところでだけ有効な存在。

「はい、取り返しましたよ」

「ありがとう」

 そのまま横取りするかと思いきや、9歳ほどの男の子がジェーンのバッグを拾って渡してきた。

 兄弟なのだろうか。

 よく似た印象の二人だった。

 強いて言えば、屋根から飛び降りた方は爽やかな瞳をし、小さな方は鋭い眼差しをしている。

「おい、もっと喜べよ」

 弟らしい小さい子がジロジロと睨みあげる。

「おいやめろよ、フレディ。ごめんなさい、こいつは僕の弟なんです。血の繋がりはないですけど」

 平民、それも貧民街の住人に失礼な口を効かれたら、貴族としては面白くないだろう。

 そこはジェーンが持つ大きな美徳の一つだ。

 幼い頃から口さのない農夫に囲まれ、一緒に農作業してきたことで、身分の違いを一切気にしない。

 逆に、師である庭師の老人など、好意を向ける平民を罵倒する貴族には家族だろうと食ってかかったものだ。

「気にしてないからいいわ。凄いわね。そんなに小さいのに盗人に立ち向かえるなんて」

「小さくねえよ!」

「だからやめろっての。本当にごめんなさい、どうか気を悪くせず……」

 鼻息荒くして弟が怒鳴る。

 兄の方は困ったように何度も謝罪している。

 こんなことで彼女が怒るようなことは絶対にない。

 しかし、それはそれとして不思議だった。

 この兄弟も極めてみすぼらしい格好をしている。

 袖も裾も破け、汚れが衣服にも肌にもこびりついて一体化している。

 彼らはどうやってあの軽業を学んだのだろうか。

「どうして助けたの? あなたには関係がないことでしょう。それも、気づいてるでしょうけどあたしは貴族よ。それくらいのお金なんて、取られても困らないわ」

 素朴な疑問を口にした。

「どうして?」

 ジェーン・エルロンドは自分から民を虐げたり害したりする人間ではない。

 同時に、自分に関係がなければ、やりたいことだけに熱中するタイプだった。

 そんな彼女にしてみれば、貴族から物を盗んだ貧民を倒そうとするのは、理解できないことだろう。

 自分から大事なものを盗んだら王族だろうが棒で殴るタイプだからだ。

 聖女になっていなければ処刑されている。

「だってここは僕の住んでるところですよ? 近所に悪いことしてる奴がいたらイヤじゃないですか」

「スラムなのに? ここを出たくはないのかしら」

「ないですね。ここは僕の居場所です。出ていくよりは、少しでも良くしたいです。せめて、悪いことをして当たり前なところにはしたくない。みんなのために」

 キッパリと、少年は言った。

 ジェーンは子供の頃、お米の才能……前世の知識にリンクする前、スラムを遠くから見たことがある。

 彼女の父が社会勉強と言って覗き見させたのだ。

 遠見の魔法で見たものは、絶望と失意。

 エリアを歩く人々はみんなが同様に、一切の希望と活力を失っているようだった。

 しかし、この少年は違った。

 瞳に希望と意志がある。

 僕も感動に瞳が潤み、胸が詰まった。

 どんな所にも、どんな時代、世界でも、こうして世界をより良くしようという希望を抱く人々がいるものだ。

 死後でも、世界の希望に巡り会えた光栄に、僕は鼻をすすった。

「うーーーーん、立派ねえ」

 前世が感に入っているのに今世はリアクションが軽い。

 今いる環境を良くする。

 みんなが過ごしやすい場所にしようとする。

 前世で見た光景と同じじゃないか。

 スゲーマンである僕を初めとしたたくさんの人が荒れた社会で希望の灯りを燃やそうとしてきた。

 目の前の少年たちもそうなのに、どうして気づかないのか。

 彼らこそがまさしく──

「適当に歩きながらお話してもいいですか? ここは一箇所にじっといると標的にされます」

 少年達に促されるままに、お米の聖女と尊ばれた者は歩き出す。

 兄弟が危なげなく歩を進め、それについていくおかげで、穴や崩壊した家屋、突き出した釘、誰かの糞尿と吐瀉物を避けられる。

 現地の人が持つ土地勘。

 こういった所を汚れずに歩くために必要なのは超聴力や超視力ではない。

 土地を熟知した、空気も人も動物も虫も……いわばリズムを知っていることだ。 

「やあ、ふたりとも。いつも世話になってるね」

「ちょっと聞いてくれよ、最近、おかしな連中がいてね」

「うちの子といつも遊んでくれてありがとう」

 貧民窟の少年に助けられた。

 それだけのことにジェーンは思っていただろうが、歩いていると大勢の人達が兄弟に声をかけるのを目にした。

 まだ幼い二人に敬意を払う者さえいた。

 この兄弟はジェーンが聖女と呼ばれるようになった時よりもずっと幼い年齡なのにだ。

「悪者退治がんばって! でも無理は禁物だからね! あんたら兄弟はあたしらの太陽だ!」

 兄弟、特に兄が愛想よく手を振っている。

 貴族ではないが、明らかに人に好かれる術を修めた者だけが持つ所作。

 生まれはどこなのか気にならなくもなかった

「悪者退治?」

「……みんな豊かになったおかげで飢え死にの心配はなくなりました。けど、そうなると自己実現をしたくなって悪いことをしようという人間が大勢いるんです。それをできるだけやっつけてます」

「やっぱいるんだ! 後で出現スポット教えて!!」

「何故……?」

 少年が訝しむが、僕には納得だ。

 発展した都市において、犯罪者と遭遇しやすいエリアはつきものだ。

 これからジェーンがヒーローをやるなら、耳に入れておいても損はない。

「……いえ、どんな理由でもダメですよ。危ないです」

「どうして? ただ聞くだけよ」

「そこに行きたがってるのが目を見ればわかります!」

 優れた洞察力だ。

 ますますただ者ではない。

 違うのかな? 僕が鈍いからそう見えるのか? いや違うはず。

「でも貴方達が行くのも危なくない?」

「それでも今だけこんなに揉め事が増えていると自分に言い聞かせれば、乗り切れますから」

「…………そうかもねえ」

 ──君のやってきたことだけでは足りないと思い始めてきたんじゃないかい?

 気づけば彼女の横に半透明の前世が戻った。

 ──ようやく言葉が届いた……!

 やっとのことで思わず呟いてしまう。

 相手は返事をせず、振り返りもしない。

 でも僕としては嬉しい。

 話したい時に自由に話せるのは素晴らしいことだ。

 話を戻そう。聖女ジェーンは前世から受け継いだ知識を活かして幼くして国から飢餓を消した。

 人々は農業に人生の大半を捧げる必要はなくなった。

 土地、土壌の管理が進歩したことで、純粋にさまざまな事業を展開する可能性も生まれた。

 それにより、発生したのが農民の余剰人口。

 学問や知識、工芸、芸術、魔法学に傾倒するのなら健康的だ。

 しかし、全員が全員、健全なやりたいことを見つけられるわけでもない。

 そうでない者は、犯罪をすることで暇をつぶしていた。

 または、犯罪組織を作ることで。

 お米の聖女の功罪とすら言えないが、それでもジェーン・エルロンドに端を発していたのは事実でもある。

 兄弟と出会うことで、今まで一切振り返ろうとしなかったこと、目を凝らすことのなかった世界に、意識が向いてきた。

 だから、僕の声が聞こえるようになったに違いない。

 魂がまた重なり始めた。

「まあ、あなたの人助けはあたしには関係ないことだわ」

 興味が湧き始めても、ジェーンは追求を打ち切った。

 無理矢理にでも悪人出現スポットを聞こうとするのかと思った。

「でもね? きっといつかは思うわ。あの時に、このジェーン・エルロンドに話しておけばよかったぁ……てね」

 ──また本名言ってるよ!

「いいでしょ別に! どうせ素顔丸出しじゃない! 貴方もそこまで熱心に隠してなかったんでしょ!?」

 ──僕は私生活時にイメチェン変装してたの!

「うーん……めんどくさ!!!!!」

 僕のノウハウがあっさり切り捨てられた。悲しい。

 前世との言い合いをしているジェーンだが、他人には虚空に語りかけている異常者に見えている。

「こいつ頭おかしいよ」

「しっ、そういうこと言っちゃダメ!」

「まあいいわ! またこの辺に来るから、その時に教えてもらうから! それまでは、あたし抜きの徒労をしてるといいわ!」

 凄いぞ。言葉遣いは最低だが、ジェーンが我慢という高等技術を繰り出した。

 彼女の気の短さ、我慢の効かなさは5歳児にも劣るのに大したものだ。

 使えるお金と時間はすべて自分のやりたいことだけに注ぎ込む。

 それで問題ないというのがジェーンの人生論。

 なのに追求を我慢して引くことができた。

 ──偉いねえ。

「バカにしないで! こんなおちびさんだけじゃすぐ音を上げると知ってるからよ!」

 僕への反論だが、バッチリ相手にも聞こえている。 

「兄ちゃん、こいつ性格悪くない?」

「コラっ! 本当でも言ったら駄目!」

 べつに彼女の心は痛くも痒くもならない。ジェーン自身が自分をそういう人間と自覚している。

 僕はそこまでは思わないが、両親にそう言われてきたのだから、その評価を受け入れても無理はないのかも。

 悲しい話だ。どうにか力になれないものか。もう死んでいる僕が口出ししていいことなのかはわからないけれど。

「まあでも気まぐれに質問するわ。ここをもっと良くするのに必要なのってなに?」

「人手」

 一番無理なものが出た。

 聖女の権限によって、この国の王室や貴族が使える労働者、かつては騎士をしていた者も含む人材の大半は稲作に従事している。

 国が管理している土地だ。

 そこでどれだけ凶作でも、国と民が死なない最低限の収穫量は確保できるようにしている。

 僅かな残りは他の産業に従事しているが、それでも稲作が国の主要産業。

 ジェーンはこれを変える気はないし、変えるのも難しい。

「とにかく治安を維持する人がいないんです。ここが特にひどいだけで、どこも似たようなものらしいですよ」

「わかった」

「あんたがなにかしてくれるってのか?」

「あなたの名前は?」

 弟を無視して、兄に名前を訊く。

 良い話を聞いた。

 正確には、何度もシスマや部下、領民に陳情されても無視してきたことだが、直接話を聞くのは大きい。  

「ジョナサンです」

「ありがとう、ジョナサン。これは良い出会いだったわ」

 タイミングよく、貧民窟を一通り歩き終えて出口についた。

 貴族として育ち、ずっと研究室と農場の行き来だけでまともに人と関わったこともない少女には、実に最適な交流相手だった。

 底抜けに良い子な長男と、程々に生意気な次男。正義感がとても強く、今の社会に危機感を持っている。

「あなたに会えて光栄よ! とりあえずは色々できることを考えてみる」

「あんたになにかできるとは思わねーけど」

「お前、そのままだと処刑されるぞ。お礼しとこう。ありがたいお言葉です。貴族様にそう言ってもらえるのは希望が見えてきます」

 口を尖らせ、そっぽを向く弟の頭を無理やり下げさせた。

 兄弟のつむじを見ても、ジェーンにはなんの意味もない。

 やるべきことがわかった。

 治安を向上させる。

 そのために何ができるのかを考えるのだ。

 ──具体的には?

「誰かに相談する!」

 ──まあ大事なことだね

 僕は頷く。

 一人で考え込んでも思いつかないものは思いつかないものだ。

 仮に何かが浮かんでも、それは往々にして悪い考えだったりする。

 考えは周りに出力した方が良い。

 それを理解できずに僕も含めて多くのヒーローがやらかしてきた。

 僕らの犯した過ちを思うと、よく宇宙が滅びなかったと背筋が凍る。

「兄ちゃん、こいつさっきからqどこを見て何に何の話をしてるの?」

「お姉様には大事なことがあるのよ! とりあえずこれからの一年を楽しみにしてなさい。あなたたち兄弟二人もハッピーになれるわ!」

「あの、他にも兄弟と姉妹います!」

「全員ハッピーよ! 何人家族なの?」

「5人兄弟と3人姉妹の親なし一家です!」

「多すぎぃ! まあお米の聖女に任せときなさい!」

 彼女は気づいているのだろうか。

 それは人生を賭けても足りない一大事業だということを。


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