総大将・毛利輝元の自覚-その3-
10月1日。
此度のいくさにおいて
家康打倒の立場に立ったモノのうち。
関ヶ原後捕らえられ大坂・堺などを引き回しされた
石田三成・小西行長。そして安国寺恵瓊の3名は
京都六条河原の地において斬首。首は三条大橋に晒されるのでありました。
その翌日10月2日。
吉川広家
(以下広家):「黒田殿!これは如何なることでありますか!!」
黒田長政
(以下長政):「此度の広家殿の働き。
関ヶ原における毛利の不戦並びに大坂城の開城により
内府(家康)殿は勝利を修めることが出来ました。
これは偏に広家殿の働きがあったからであります。
この功に報いるため内府殿は広家殿に対し、
これまでの出雲12万石から周防・長門2ヶ国29万8千石への加増並びに
西国の監視役をお願いしたい。
そのように内府殿は広家殿のことを申しておりましたが
……何か御不満な点でもございますか?」
広家:「私が言いたいのはそこでは無い。私が言いたいのは
何故主君・輝元は『改易』となっているのであるか!?である。
そなたは私に対し、『
内府殿は輝元のことを粗略に扱わない』
と申しておったではないか。」
長政:「確かにそのように申しておりました。」
広家:「では何故輝元は改易されなければならなくなったのでありますか!?」
長政:「……いや……あの。内府殿が大坂城に戻られてから
様々な書状が出て来まして……。」
「その中から……実は輝元様は担ぎ上げられただけの神輿では無かったことが……。」
「……発覚してしまいまして……。」
大坂に入城した家康は
論功行賞と処罰を吟味すべく
大坂より発給された文書を押収。
内容を精査したところ
輝元はお飾りでは無く、反家康に積極的に関与していたこと示す書状。
具体的には
諸大名に対し家康打倒を呼び掛ける書状の発送に始まり、
家康方についた加藤嘉明の居城の攻撃。
更には大友義統を豊後の国に派遣したことなどについて
輝元の御墨付きが与えられていた。と……。
長政:「これまで広家殿が内府殿に対し説明されて来られましたことは。」
「……事実では無かったことが判明してしまいまして……。」
「残念ながら輝元様は今回。『改易』の御沙汰が下されることに相成りました。」
「その上で、このような輝元様のふるまいに心を痛め、
御家存続を図るべく粉骨砕身奔走されました広家殿の……。」
「『律儀さ』を内府殿は惜しみ、広家殿に防長2国を下賜し、
これまでの労をねぎらいたい……。
そのように申しておりました。」
広家:「謀反人の罪を着せられた家の宿老である私が
『律儀さ』が故に加増される……。
このようなこと。受け容れることは出来ませぬ。
毛利があって初めての私であります故……。」
長政:「何を申して居られます。
そなたが大事に思っておられます『毛利』の名を穢したのは
輝元殿ではありませぬか……。
その名を穢した輝元殿が仮にこのまま毛利の当主であったとしても
広家殿の気苦労が絶えることはございませぬ。」
「内府殿は。」
「広家殿に毛利を継がせるべき。」
「……と御考えになられているのかもしれませぬな。」
南宮山で兵を動かさなかったこと。
大坂を開城したこと。
これらは毛利を安泰に導くがための行動である。
と堅く信じ、家康と内通して来たこれまでの労の全てが
水の泡と帰し、
進退窮まった吉川広家。
こう言った事態の時にこそ役に立つ
舌先三寸で引っ繰り返すことの出来る
恵瓊は既に刑場の露と消え。
その恵瓊が居ないことを良いことに大坂城で
『所領安堵の御墨付きがある。』
と大見えを切り、
秀元や立花などの徹底抗戦論を封じ込めてしまったことの全てを
(……家康は見抜いていた……。)
見抜いていた上。
(……泳がされていた……。)
しかもこれまで輝元は担ぎ上げられただけ。
と言い続けていたがため。
(『輝元の関与に付いて広家は知っておりました。
知っておりましたが
私・広家の力で持って毛利の動きを封じておりました故
輝元の免責を願えますでしょうか。』
と前言を翻し交渉することも出来ない……。)
その難しい交渉が出来る
(……恵瓊を京で追い払ってしまった……。)
思い悩んだ広家が採った行動は
『自分への加増分を輝元に与えてください。
私は毛利を見捨てることは出来ません。
もし認めて頂けないのでありましたら
私・吉川広家も改易に処してください。
この願い。聞き容れて頂けるのでありましたら
今後、輝元に何か不届きなことがあった場合。
即座に私・吉川広家が輝元の首を取り、内府殿に差し出します。』
と認めた起請文を提出する。
と言うモノでありました。
これを受け取った家康は、
関ヶ原では勝ったとは言え
四国・九州地方で反家康を掲げた勢力の戦力が維持されたまま。
彼らの動向がまだ不明確であったこともあり
これ以上毛利を追い詰めることは得策ではない。
と判断。
広家の嘆願を聞き容れ、広家に与える予定であった防長2国は
毛利本家に与えられることになるのでありました。
かたや主君・輝元を反家康の盟主に掲げるべく奔走した安国寺恵瓊。
こなたその輝元の行動に危機感を抱き、家康に近づいた吉川広家。
その後、敢え無い最期を遂げることになった恵瓊に
3万石を与えられることにはなるも
毛利家中において肩身の狭い思いをすることになってしまった吉川広家。
共に毛利家のために行動した両者。
どちらが……。
と言うのはあくまで結果論でありますし、
彼らは言うならば雇われ人の立場でしかありません。
出来ることは雇用主である輝元を如何に良い方向に導くことにより、
自身の安泰を図るか。
雇用主が居なくなれば食い扶持を失うことになりますので。
そうならないように意見を戦わせ、行動に移す。
このこと自体を責めることは
働いているかたでありましたら
出来ないことであると思います。
彼らにとって不幸であった点を1つ挙げるとするならば
彼らの主君である毛利輝元も
広家・恵瓊同様。
どこか雇われ人の意識があったのかもしれません。
彼・輝元にとっての雇用主は誰であるのか?
答えは豊臣秀頼。
厳密には
徳川家康であった。
この意識が
関ヶ原前の石田三成のコーディネートに従っているだけ。
正しくは従っているフリ。
積極的な行動に出なかったため
肝心な勝負所となった関ヶ原に関わることが出来なかった。
家康とは違い、
本当に自分のために動いてくれる駒が関ヶ原のすぐ近くに居たにも関わらず。
そして
『家康が安堵すると言ってるのだから』
と交渉を有利な状況に持って行くことの出来る条件である豊臣秀頼と
それを担保するだけの戦力である毛利の主力部隊と大坂城を
なんら抵抗を見せることも無く放棄する。
こんな無防備なこと。
自分で支払いをされているかたでありましたら
絶対にしないことであると思います。
それをしてしまったのが主君であったことが
広家・恵瓊並びに
毛利家に仕えて来たもの全てを不幸な目に遭わせることになってしまった……。
関ヶ原から14年後の大坂の陣において
輝元は家臣を大坂城に派遣しました。
夏の陣で大坂城が落城したのち
京でその家臣は捕らえられまして。
当然、徳川幕府は主家である毛利の関与について問い詰めるのでありましたが
その家臣は
『あくまで個人の行動であって主家は無関係』
と言い続けることにより、
毛利に対する疑いは収まったのでありましたが、
その後。幕府が無罪放免としたその家臣の息子2人に対し、
輝元は自刃を命じたのでありました。
理由はその家臣が大坂に入った事情をその家臣の息子2人は知っているから。
その2人が生きていると不都合であったから。
……のリーダーを支えなければならなかった
広家と恵瓊の苦労は……。
(閑話休題)