第一章 高坂診療所
部屋の中に狐火が灯る。
中央に浮かび上がるのは裸の若い妊婦。
身を覆うものは何一つ無く、荒い息をもって布団に横たわる姿はどこか艶かしささえ感じさせる。
女の腹は大きく、いつ子供が産まれてもおかしくない。
だが、その表情には痛ましいほどに深い苦しみが広がっていた。
この女性は、この大事な時期に、あろうことか熱病を患ったのである。
女性の横に、周囲に様々な機材を置いた一人の若い男が座っていた。
「お婆様、お玉、始めます」
その男から見て、布団越しの対面に座るのは一人の老婆。肌には深い皺がいくつも刻まれ、かなりの年齢である事を感じさせるが、その瞳に宿るものは確かな知性である。
さらに部屋の隅には、若い一人の女。ただし両耳の部分は獣の耳であり、たまに尻からいくつもの尻尾のようなものが見え隠れしている。
黄金色の長い髪は異世界の輝きであり、細面の美しい顔は、油断していたらいつまでも眺めていたくなるような、そんな女性であった。
「お玉、しばらくこの温さを保ってくれ。あと、灯かりをこの人に」
「あいよ」
その、お玉と呼ばれた獣耳の女が頷く。
ついぃと軽くお玉が指を躍らせると、突如狐火が現れて妊婦の真上にふわふわと移動し、仄かな明かりは彼女の姿を優しく照らし出した。
「お婆様、この人に探り水を」
「うむ」
老婆は一つ頷くと、大きな樽に入っていた、これまた大きな刷毛を取り出した。
樽の中には透明な水。ただし若者が探り水と呼んだ事から、何かの薬剤が入っているのだろう。
そして若者は懐から大きな紙を取り出すと、それを床に広げた。
紙には女の姿が描かれていた。妊婦である事や、細部の特徴が似ている事から、この絵はそこに横たわる女の絵姿のようである。
刷毛を握った老婆が、妊婦の体に探り水を塗っていく。
その動きに、妊婦の口から吐息が漏れた。
「お坊、でてきたよ」
老婆の言葉通り、探り水が塗られた女の体からいくつもの文様が浮かび上がってきた。
「全身の反応に熱、基本的にはただの風邪か」
だが、と若者の表情に苦いものが走る。
妊婦の体は細く、肌色も良くない。
栄養状態が良くないのだ。
だがこれは彼女の夫がろくでなしというわけではない。
この若者もよく知っているが、彼女の夫は大工の見習いで働き者の、むしろ評判の良い男である。
だが、戦乱の終結からそれほど時が経っていない今、大工見習い程度の職で満足な稼ぎを得るのは難しい。
それでも、この二人は必死に生きてきた。
そして腹に子供を宿し、さらなる未来へと繋げようとしている。
貧乏であるがゆえに満足な食事も得られず、熱病にかかった彼女を医者に連れて行くことも叶わず、最後に若者の所へ泣きついた二人。
まだ若造と呼ばれるこの若者をもってしても、その必死さは言われなくともよくわかっていた。
だからこそ、使える手は限られているといっても、全力は尽くすと誓った。
「ふむ、この状態、お坊よ、まだお腹の子供は無事じゃの」
老婆が探り水の反応を見て言った。
「はい。しかし時間の問題です」
「うむ」
「まずは身体の力を底上げします。さらにこの高い熱を取り除き、可能な限り体の中に大地の気流を取り込ませます」
若者は次々と治療のための方針を告げながら、傍らにあった女の絵にすらすらと何かを書き込んでいった。
それは、探り水の反応を書き写したものと、いくつかの丸印。さらに別の色筆でいくつかの文様をその絵に描き込んでいく。
次に若者は周囲に置いてあったいくつかの木箱を次々と開けていった。
中には様々な文様が描かれた札と、色のついた粉末が入れられた瓶。そして使い込まれた絵筆各種。
これが若者の商売道具。
そして、目の前で苦しむ妊婦を救うための道具である。
「では、いきます」
若者が筆を取った。
長い夜が始まった。
長屋の昼下がり。
疲れ果てて自室で横になっていた高坂新兵衛は、突如鳴り響いた赤子の元気な鳴き声に飛び上がった。
「産まれたのか!」
昨日の夜中に担ぎ込まれた若い妊婦。
熱病にかかり母子の命すら危ぶまれる事態に、新兵衛は夜通しの看病をもってそれに対処した。
貧乏から栄養状態こそ良くなかったものの、もとが芯の強い女性であった事もあり、その努力は見事に実を結んだ。
朝方には小康状態まで持ち直してやれやれと一息ついた頃、今度は妊婦が破水、産婆を叩き起こす羽目となった。
妊婦の全身に治癒文様を描き、札を貼り続けた新兵衛は、産婆が到着した時点で力尽きて隣の自室で待機、そのまま眠っていたのである。
お婆などからは十六の若さでその体たらくとは情けないと嘆かれたが、その表情は笑っていたので、おそらくは冗談のつもりだったのだろう。
自室から出ると、隣の診療所では既に長屋の人々が喜びの声を上げていた。
「ああ、先生!」
新兵衛が出てくるのを見つけた長屋の一人が声を上げた。
「中の様子は?」
「まだお産の穢れが残ってるので、もうしばらくは。ただ、手伝いの人によれば、母親も子供も無事だそうですよ」
はあああ、と新兵衛が息をついてしゃがみこむ。
手には文様を描いた時の疲れがまだ残っているが、今となってはこれも心地よい。
「お婆様は二人が無事なのを見届けて、いま自室に戻られましたわ。あ、源次郎さん!」
「先生、先生!」
大声で、若い男が新兵衛の前に土下座する。
「ありがとうございます、先生の、先生のおかげでおみねも子供も無事に!」
「いえいえ、顔を上げて下さい。私は介添えしただけ、あれはお二人、いえ、三人の力ですよ」
「それでも、何とお礼を言っていいか」
「それに源次郎さん、奥方と子供の話はまだ終わってませんよ。持ち直したとはいえ、奥方は病後である事に変わりはありません。きついかもしれませんが、しばらくは精のつく柔らかい食事をとって、良いお乳が出るようにしないと」
「はい、はい!」
「念のため、背中に張るお札を何枚かお渡ししておきます。一日に一度、奥さんの背中にこれを張ってください。心身の気の流れを整えるものです」
本当は薬があれば一番なのだが、とは新兵衛は言わなかった。
それができるのなら、この男も、その妻も、そもそも新兵衛の診療所へなど駆け込んで来ない。
師匠が生きていればもう少し違ったことができたのかもしれないが、その望みはもう今は叶わない。
「それで先生、あの、お礼の方は」
不安げに源次郎が顔を上げる。
無理もない。この規模の患者を治したとなれば、普通なら一年分くらいの稼ぎに匹敵するお金を取られてもおかしくない。
もちろん、それが支払える状態ではないために新兵衛の所へと駆け込んだわけだが、それでも無料というわけにはいかない。
診療に対する報酬は必ず求める、それが、この診療所の取り決めであった。
「高いですよ」
「えっ」
「お産で診療所の中は大変でしょうからね。畳とかは大丈夫だろうけど、穢れは祓わないといけないし、板も張替えかな」
話の内容に、源次郎の表情に喜びが広がる。
それは、彼が最も得意とする大工工事の内容であった。それならば、彼の腕ならさほどお金をかけずとも対処できる。
「ああ、はい、まかせてください!女房と息子の縁ができた診療所、この源之助、身命を賭してあたらせて頂きやす!」
よろしく、と新之助が笑った。
高坂診療所は、東都の西町にある貧民町の中心部において、お金の無い人たちに対して治療活動を行うための施設である。
まだ戦乱の余韻が残る今の時代、お金も仕事も無く流れ着いた人々を救うため、新兵衛の師匠である榎本良信という男が、貧乏人向けの診療所を設立したのが始まりである。
診療所の運営方針はこうである。
榎本とその弟子の新兵衛は札術と呼ばれる特殊な技を会得しており、その中には病気や怪我を治療する術も含まれている。二人はその術をもって、貧しい人々の怪我や病を少しでも治していくのだ。
もっとも、札術での治療はあくまで身体の活性化を促す程度のもので、その効果は決して高いものではない。だが、高価な薬などを使わないために費用を低く抑える事が可能であり、診療代は貧乏人でも何とか支払える程度の金額とすることができた。
それでも支払いが行えない人々に対しては、診療代相当となる各種肉体労働を行ってもらうことで、その代わりとした。
設立当初こそ貧民町ゆえの様々な問題が診療所に押し寄せる事となったのだが、周囲の人々の助力もあって、何とかうまく切り盛りをすることができた。
だが、ある事情から去年に師匠である榎本が死に、治療を行う札術士が新兵衛のみとなって以降、その運営は綱渡り状態が今も続いている。
産まれたばかりの赤子への対応に長屋の住人達があれこれと動いていく光景を眺めながら、新兵衛は新しい母親に渡すための治療札を用意すべく、倉庫も兼ねている自室へ戻ろうとした。
「もしそこのお武家様、すみませんが高坂療養所とはこちらでしょうか?」
不意に、後ろから若い女性の声がした。
新兵衛はその声に驚いて振り向いた。後ろに人がいたことをまったく気がつかなかったのもあるが、言葉の響きにどこかよその国特有の違和感があったからである。
「ええと、あなたは?」
そこにいたのは若い尼僧であった。
尼独特の頭巾姿で顔しか見えないが、その肌は雪のように白かった。診療所の札術士という立場から一瞬病気なのかと疑ったが、それにしては病人特有の陰鬱な感じが無い。
年のころは、顔しか見えないので何ともいえないが、肌の艶などから若い感じ、背格好から推測すると新兵衛よりは年長であろうか。
そして、唯一にして最大の特徴。
その瞳は、大海を思わせるがごとく、澄んだ青色であった。
「あら、ひょっとして別の場所でしたかしら」
「いやいや、ちょっと驚いただけです。ええと、高坂診療所は確かにここで間違いないです。ただ今日はいろいろあって、診察の方は勘弁願いたいところなのですが」
「ああよかった、間違いなかった。言葉の内容から察すると、あなたが高坂殿ですね。これは失礼いたしました。私はお夕と申します」
「高坂新兵衛です」
男性のような調子で堂々と喋るお夕の姿に、何か常識的なものがかき混ぜられる感覚があるものの、内容そのものは丁寧であったので、新兵衛は笑顔でそう言葉を返した。
「さて高坂殿、私がここに参ったのは、診察のためではありません」
「診察ではない、と?では何の御用で」
「私、このような身なりをしておりますが、実は奉行所に勤めております」
懐からちらりと十手を見せるお夕に、新兵衛は言葉を返すことができなかった。
尼僧姿の女、しかも奉行所関係。
常識では考えられない組み合わせである。
というよりも、女の同心など聞いたことが無い。十手を持っているのでお夕の言葉に嘘は無いのだろうが、公儀の隠密と言われた方がまだ納得できる話である。
「私は現在、とある事件の調査をしておりまして、その件で高坂殿にお聞きしたい話があるのです」
「事件、ですか」
新兵衛の声に不信が混ざる。
もともと怪しい事件に関わるようなことは何もしていないし、何より奉行所とはいくつもの因縁がある。
とはいえ、表立って公儀に逆らうのは得策ではない。
「わかりました。立ち話もなんですから、とりあえず中で」
「そうですね、では」
周囲にいた長屋の住人達には、騒ぎを大きくしないために、この尼僧は緊急の患者の相談ということで話をした。
さらに、自室で横になっているであろうお婆にこの件を伝えてもらうよう、長屋の住人の一人に新兵衛はお願いをした。
また、源之助については妻子の件でまだまだ伝えなくてはならない話が残っていたので、明日また尋ねてくるようにと言って帰らせた。
新兵衛にとって急な患者の相談という話は別に珍しいものではない。これだけ話をしておけば、尼僧の姿を見た長屋の人々も納得して変な噂話に発展するようなことは無いだろう。また、奉行所が関係する以上、なにかと知恵がまわるお婆にも同席してもらった方が安心である。
あとは万が一に備えるべきかであるが、下手に札などを用意して相手の心証を悪くするのは得策ではないと考え、新兵衛はとりあえずそのままお夕と話をすることに決めた。
たかだが聞き込み程度の話に神経質過ぎる話だが、それだけ新兵衛には奉行所への因縁というものが存在した。
かつての新兵衛の師匠である榎本が奉行所の役人に連れて行かれる光景が、頭をよぎっていく。
そうだ、慎重にならねばと新兵衛は心に強く思う。
お夕を部屋に入れた新兵衛は、彼女を客人用の座布団に座らせた。
「いまお茶を出しましょう。貧乏暮らしゆえ味は期待しないで下さい」
「ありがとうございます」
にっこりと微笑むお夕。
その人形のような美しい表情に思わずどきっとする新兵衛だが、いかんいかんと心の中で気を引き締めた。
「まあ、それほど難しい話ではないので、そのままで聞いて下さい。高坂殿は、先月に起きた南町での火事の事は覚えておいでですか?」
「ええ、それはもう。私も診療所にあった札を持って治療の手伝いに行きましたから」
一ヶ月ほど前、ここから少し離れた南町においてやや大きな規模の火事があった。
一つの長屋を灰にし、その周囲を黒こげにした所でその場にいた町人達の活躍もあって火事はなんとかおさまった。一歩間違えば長屋どころか南町全てが灰となる大火になったかもしれなかった事件であり、その後の調査は南町奉行自らが陣頭で指揮をするほどであったという。
「ならば話は早いですね。南町奉行所では妖怪を使役する者たちも動員して、犯人を捜している状態です」
「犯人、ですか?」
お茶をお夕の前に置きつつ、新兵衛はそんな声を上げた。
お夕の話はつまり、南町で起きた火事は事故などではなく、何者かの火付けによるものと言っているのである。
「火の妖怪を操る術者によれば、最初に火が出たのは長屋の隅に置かれていた枯れ枝の束だったそうです。さらにその場所には油の匂いもあったとか。そこは火の気から離れた場所にあり、まして油などかけるはずもないと長屋の人々は言っています」
「火付けですか。それはまた大事ですね」
新兵衛の言葉に、お夕が頷く。
火付けを行った者は基本的に死罪である。
この東都という都は、昔から火が燃え広がりやすい乾いた気候となっており、それゆえに火への対応は奉行所も神経質な部分があった。
町民達に対する細かな指示はもちろん、些細な事故でも厳しく咎めるほどであり、町民からはそのあまりの厳しさに陰口も出ているが、大火一つで発生する深刻な被害を考えればこれはもう仕方がない話である。
伝え聞くところでは、火事への対応を専門とする組織を新たに作ることを幕府や奉行所が検討していると言われており、東都における火事対策がどれほど急務であるのかをそれは物語っていた。
「遅くなったの」
連絡を受けたか、ようやくお婆が部屋の中へと入ってきた。
「高坂殿、このお方は?」
「お婆様です。私の診療所の手伝いなどをして頂いております」
「お志乃と申しますじゃ、よろしゅう」
「お夕です」
お婆が自分専用の座布団に座ったのを確認した新兵衛は、今までのお夕の話をかいつまんで伝えた。
「ほほう、火付けとな。何とも鬼畜の所業じゃな」
「奉行所としても事態を重く見ておりますゆえ、お二人にはぜひともご協力を」
「しかしお夕殿、協力といってもここは西町で事件は南町、南町の事情など我ら何も知りませんが」
「二つ、あります」
お夕の視線が鋭いものになる。
どこか、獲物を狙う細い瞳になったのは気のせいだろうか。
「一つは高坂殿と共にある九尾の狐です。かの者は火を得意とすると、奉行所の記録にあります」
それを聞いた新兵衛が、呆れたように頭を掻いた。
「お夕殿、確かにお玉は火を得意とする。だがそのような力を発揮すれば、カンの鋭い者であればすぐにでも気がつくぞ。それに、私には火をつけても何の得もない。むしろ只働きが増えるだけだ」
「はい、私も、そして奉行所も同じ意見です。わざわざ南町まで出て高坂殿が火付けをする理由がない、と」
「ではなぜそのようなことを?」
「ただの確認です」
涼しい顔で言い切るお夕。
失礼だなと思う一方で、このお夕、どこか感情の変化に乏しいところがある。新兵衛は彼女を前にしてそう思った。
「そして本題は次の話です」
お夕が顔を上げた。
今度は背筋に冷たいものが走るほどの張り詰めた表情が、そこにあった。
「火事の数日前、見るからに浪人とわかる何名かの男がその長屋周辺で見かけられております。さらにその言葉には、西方の訛りがあったと」
沈黙が流れた。
お夕がその反応を見て言葉を続ける。
「この診療所、その開祖である榎本殿や高坂殿は、もとは西方の出であり、かつては西方宗家とも縁が深い方々です」
「疑っている、ということか」
新兵衛の言葉に怒気が混じる。
だが、お夕はそんな姿に動じる風もなく、言葉を続けた。
「奉行所は全てを疑います。この東都に住む西方に縁のある方々のうち、高坂殿は疑われるに十分なお立場であることを理解して下さい」
「しかしお夕殿、それはあまりに乱暴ではありませぬかな?」
お婆が静かに言った。
「我ら、確かに西方よりこの東都に流れ着いた者ですじゃ。しかしこの子の師匠も、この子も、天地神明に誓って人を傷つけるような行いはしておらぬ」
「しかし榎本殿はかつて西方宗家の侍医として活躍され、高坂殿の家も元は西方の勘定方を勤めております。そして榎本殿は……」
「誤解じゃ!師匠はただ人を助けていただけで、西方とはあの時なんの繋がりもありはしなかった!それなのに、あのような、磔など」
抑えよ新兵衛、とお婆の叱責が入る。
新兵衛は顔を真っ赤にし、震える拳を隠そうともしなかった。
「お夕殿、新兵衛にとって榎本様は師匠であり、もう一人の父親も同じ。察して下され」
「はい。誤解という話では、お二人とも私の事を誤解されている様子。私はお二人が無実であるという証人となるため、ここに参ったのです」
「証人?」
お夕の話が理解できず、思わず聞きなおす新兵衛。
「奉行所も、怪しき者全ての首を切り落とすような鬼ではありませぬ。高坂殿はこちらにあって、貧しい人々を助けるべく尽力されているお方です。ただ、西方浪人達の繋がりを否定できないだけ」
「ありもしないものを否定する事なぞ、できはしませんからの」
軽い皮肉を混ぜたお婆の言葉に、お夕は涼しげな顔のまま頷いた。
「お志乃殿の仰る通り。しかし先も話した通り、高坂殿のお立場は極めて微妙。さらに、今は何も無くとも、この後で西方浪人達が接触を図ることも考えられます」
「今更、西方と私は何の縁もない。追い返しますよ」
「ですが、追い返したことを証明する手段はありません」
「そんな、それではどうしようもない」
「はい、ですから私がこうしてここに」
新兵衛とお婆が顔を見合わせた。
とりあえず先ほどの怒りの感情は、今の新兵衛からは消えている。
もともと新兵衛は落ち着きのある性格であり、怒りや憎しみといった感情を面に出すような人物ではない。
ただ、先ほどの師匠の話は、新兵衛の中で最も深い心の傷だっただけである。
「お夕殿、それは、どういう?」
「私は、西方浪人達がこの火付けの犯人だったとするならば、彼らは高坂殿に協力を求めるため必ずこの診療所に来ると思っております。この診療所は人々の往来も多く、姿を隠すにはちょうど良い場所。またいざという時にさまざまな術が使える札術士は、仲間となればこれほど心強いものはありません」
褒められているのか、と新兵衛が微妙な顔をする。
その反応をまるで楽しむかのように確認したお夕は、さらに話を続けた。
「だからこそ、私が張り込む価値があるというもの」
「張り込む、ですか?」
予想できない話ではなかったが、それでも新兵衛は思わずそう問い直した。
「はい、今からしばらくの間、高坂殿のいる部屋に住まわせていただいて、西方浪人達がのこのこ現れたら一挙に捕まえるつもりです」
はい?と思わずそんな声を新兵衛は上げた。
だが、お夕はそんな新兵衛の姿を気にする風もなく、淡々と言葉を続けた。
「もちろん、食事代などは私で負担いたします。なるべく高坂殿の負担とならぬよう、そして高坂殿の無実を証明するためにも、頑張らせていただきます」
「いやいやいや!お夕殿は奉行所同心とはいえ、仏門の尼僧ではありませぬか!それが私のような若い男と同じ部屋で、それも夜を共にいたとなれば、何を言われるか知れたものではありませんぞ!」
未婚の男女が共に歩いただけで同心から睨まれる世の中である。しかもこれが若い尼僧ともなれば、密通の罪で牢屋に入れられても文句は言えない。
「大丈夫ですよ、奉行所の同心である私が言っているのですから」
「いや、そういう問題では」
「ならばお坊、このお夕殿は、この婆の家で寝泊りするというのはどうじゃ?」
「おお、お婆様、それならば!」
お婆の出した助け舟に、思わず新兵衛は表情を明るくした。これなら誰からも怪しまれるようなことはない。
だが、それを聞いたお夕は二人の前で首を横に振った。
「いえ、それでは私の見えぬところで高坂殿が誰かと会っていたと言われても、返す言葉はありません。私が四六時中、高坂殿を見張ることで、その無実を証明できるのです」
「あー、だがお夕殿、独り身の若い男女が一つ屋根の下というのは、やはりそれはいろいろとまずい話ではないのか?」
「これほど立派な診療所で人々の尊敬を集める高坂殿であれば、その心配は無用のものと思っております」
そこでお婆がくっくっくと笑い出した。
「これは一本取られましたな。お坊、このお夕殿の申し出、受けるべきじゃな」
「お婆様……」
「考えてもみい、西方出身の我ら、たとえ無実としても、公儀に疑いをかけられた時点で罪と言われれば何も打つ手は無い。だがお夕殿が我らの盾となってくれるというのであれば、これほどありがたい話は無いじゃろう」
それは新兵衛もわかっていた。
戦国最後の大決戦と呼ばれた西方決戦において西方についた武士達の多くは、いまの奉行所の手による執拗な追撃を受けて、その多くが殺された。それは人心が落ち着いた今となっても変わらない。
西方決戦時、一族が西方宗家に仕えていた新兵衛はまだ元服前で、城に残った父や兄が見送る形で、師匠である榎本に連れられて戦場から落ち延びた。
お婆の言う通り、いまの西方出身の武士の立場は非常に弱い。とくに西方宗家と縁があった師匠の榎本や新兵衛の場合、いつ何かのきっかけで奉行所に殺されても不思議ではないところを、人助けの診療所を運営することで何とかお目こぼしされていた状態であった。
もっとも榎本は最後まで奉行所に疑われ、些細な事件から反乱への加担を疑われて、そのまま捕まって磔の刑に処されてしまったのだが。
そしてその弟子である新兵衛についても、西方残党にとにかく厳しい目を向ける奉行所が、ひとたび何かの事件が起きてその加担が少しでも疑われた時に、新兵衛を捕えて殺すことを躊躇うことはないだろう。
そんな中で、新兵衛を守ってくれるというお夕の申し出は、願っても無い話であることは間違いない。
だが、その事と、若い女性と同じ部屋で過ごすことは別の話である。
「はあ、事情はだいたいわかりました。しかし本当にいいのですね?ここでの暮らしは決して楽ではありませんよ?」
自身が守られる立場にありながら、思わず新兵衛はそんな言葉をお夕に言った。
やはり心のどこかで、面倒な話になったと思っているようである。
「ご心配には及びません。かつては船の狭い船室で長い時間を過ごしたこともあります。それに比べれば何ら問題ありません」
船室?と新兵衛は首を傾げたが、とりあえず深く考えることはやめた。
とにかく、目の前に広がる状況があまりにも大きすぎる。
「よし、話はまとまったようじゃの。そろそろ日も傾いておる、夕飯の支度をせねば」
「お志乃殿、では私もお手伝いなど」
「いや、お夕殿は荷物を持ってくるなど準備もあろうて。お坊、手伝いに出るといい」
「ええ、まあ。お夕殿、泊まるための荷物の方は?」
「だいたいは持って来てあります。残りは明日でも良いかと」
「ほほ、何とも準備のよい。それなら気兼ねなく夕飯の手伝いをしてもらうかね」
では野菜を切ってもらおうかね、はいわかりましたと女子会を始めた二人に、新兵衛はただ呆然とその姿を眺めるしかなかったのであった。
十六年という年月の中で、新兵衛は女性に対して憧れもしたし恋もしたが、その想いが実ることは今までなかった。
そんな思春期真っ只中の新兵衛であったが、女性と会話をするという点で言えば、ほかの同年代と比べて遥かに多くの経験があった。若い女性にその手で触れたり、一糸纏わぬ姿を目にすることも数え切れないほどだ。もちろん、診療所での仕事の話である。
だが、そういった治療行為とは関係なく、妙齢の女性と寝食を共にするというのは、さすがの新兵衛も初めての経験であった。
「夕飯のほうは大丈夫でしたか?他と比べると質素ゆえ、中には腹の調子を悪くする者も多い。何かあれば札を作りますよ」
「いえいえ、たいへん美味しかったですよ。しかし質素と言われますが、それにしてはおかずの数が多かったですね」
「師匠の教えです。とにかく山海のものを小さく、種類多く食べなさい、と。米も、白米も良いが玄米も食せと」
「それはまた、贅沢にも思いますが」
「師匠の長い経験からなのでしょう、一汁一菜など命を縮める誤った教えだと言って聞きませんでしたから。ところでお夕殿、先ほどから何をされておるのです?」
それは、部屋で物などを引っ掛ける出っ張りを利用して、お夕が部屋の中央に一本の紐を通しているところだった。
「なにしろ突然の話ですから、お邪魔にならないようにと着物などを下げる紐を用意しているところです。また、かけた布や着物で壁を作れば、隣で寝ていても気にされることはないかと」
長屋にある新兵衛の部屋だが、診療所で使う様々なものを置く必要から、他の住人よりは広い空間であったり、二階の屋根裏部屋が物置になったりしていた。
このため、置いてあるものを整理すれば、布団二人分の広さは十分に確保することができた。
だが、布団で横になっている時に隣を向けばお互いの無防備な寝姿がすぐ間近に見えてしまう。このため、あくまで新兵衛の邪魔にならないようにと、お夕もその対策をしたということであろう。
「そうだ、忘れていた。この部屋に入るのであれば、鍵を渡さないと」
そう言って、新兵衛は箪笥から一つの鈴を取り出し、お夕に渡した。
「これは?」
「この部屋には、泥棒避けのための妖怪がいるのです。先ほどは私と一緒だったから反応しませんでしたが、お一人の時はこれが無いと戸を開けることができません」
そして懐からもう一個の鈴を取り出した新兵衛は、ちりんと一回、その鈴を鳴らした。
すると柱にあった札がぼうっと光り、うっすらと鬼の絵が浮かび上がった。
今まで何人もの泥棒を叩き出した、信頼のおける妖怪の用心棒である。
「なるほど、わかりました」
「あとは、体を洗うときは診療所を使って下さい。診療所は日々の診療のために朝と昼に湯を沸かしますので、それで体を拭く形です。湯屋に行きたい時は、近くに一軒ありますので、そちらに」
「はい。しかし朝と夕に湯沸しですか、薪代がかかるのでは」
「ああ、それはお玉がやってくれます。そういえばまだ紹介していなかったか」
新兵衛は近くにあった包みから、小さな木箱を取り出した。
その蓋を開けると、中に入っていたのは美しくも麗しい女性が描かれた短冊。しかしその女性は獣耳姿で、しかも尻には九つの尾。
「お玉、ご挨拶を」
そう新兵衛が言うと短冊から細い煙が立ち上り、次の瞬間、絵にあるような姿の美しい女が新兵衛の隣に出現した。
「呼んだかい、旦那?」
「ああ、実は今日からしばらく共に暮らすことになった人がいてね、挨拶を」
「へえ?」
そして新兵衛が、お夕の話をかいつまんでお玉に伝えた。
じろ、という感じでお玉がお夕の方を見る。
妖怪など奉行所にいたら別に珍しい存在でもないのか、お夕の表情に驚きは無い。
「仙狐の一族ですか。実際に見るのは初めてです」
「ふうん、なるほどねえ。ところであんた、水の匂いがするけど」
お夕の表情に、一瞬だけ険しいものが走る。
「まあ、旦那に害をなすものでなければ、あたしゃ構わないけどね」
そう言って、お玉が新兵衛の頭を抱くように腕をまわした。
「どうした、お玉?」
体が触れた瞬間、お玉の思考が新兵衛の頭に入り込んできた。
気をつけろ、この女は人間ではない、と。
「ふふ、もう、旦那ったらつれないじゃないさ。あたいというものがありながら他の女を連れ込むなんてさ」
「おいおいお玉、この人はそういう」
お夕の視線に、今度は何か汚らわしいものを見るような感情が混ざった。
人前で、しかも妖怪に言い寄られるような男など、さすがに浅ましいと言わざるを得ないのだろう。
「それにその人、お夕さんだっけ、香の匂いがしないねえ」
「お玉?」
「まあいいかねえ。旦那、なにかあったらすぐ呼んどくれ。じゃあ」
言うだけ言って、お玉は札に戻った。
微妙な沈黙が部屋の中を流れる。
そして何かを新兵衛が言う前に、お夕が一つため息をついた。
「さすが仙狐の一族、誤魔化せませんか」
「え?」
「いえ、いずれわかることではありましたし、ならば今のうちに明かしたほうがお互いの為といえば、その通り」
そう言って、お夕が頭巾を脱いだ。
そこから零れ落ちる髪に、新兵衛は言葉を失った。
その髪は、美しい金色の色を持っていた。
「そういえば、高坂殿の事はいろいろ話をしましたが、私のことについては何も言っておりませんでしたね」
「お、お夕殿、その髪は?」
新兵衛がまず思い浮かんだのは、お玉のような妖怪の一族。
とくに仙狐の一族であれば、地毛ともいえる金色の髪の毛を持つ者は少なくない。
だが同時に、仙狐ならば白い肌と青い目など持つはずがない。あれらは近くにいるものの姿を模す存在であり、人も妖怪も、この地にそんな肌と目を持つ者などいない。
いるとすれば、かつて勘定方をしていた父親から、遠い海の向こうにそのような人々がいる、異国の使いとして時の天下人と会う事もあった、と新兵衛は聞いたことがあった。
「高坂殿は、そうですね、この国の言葉で表現するならば、ふらんせという名の国をご存知ですか?」
「いや、その響きからすると、蘭の国の流れか?」
「蘭の国、ああ、おらんと、ですね。あそことはかなり離れていますが、まあこの地であればその理解で十分でしょう」
突然出てきた異国の話に、呆然とする新兵衛。
そしてお夕は、何かを決意したような表情を浮かべ、こう言った。
「私はその国の出身です。数年前、船に乗ってこの国に流れ着いてきました」
そういえばさっき、船旅がどうのと彼女が言っていたことを新兵衛は思い出した。
確かに驚くべき話ではあったが、その青い目と金色の髪、どこか不思議な訛りがあるような言葉遣いは、そう言われれば全ての説明がつく。
「私は生まれた地の様々な情報を知っていましたので、その知識をもって今の幕府に保護を願い出ました。幸い、理解のある老中の方に拾われて、今はこうして奉行所の同心として動いております」
「やや、いや、待ってくれ。この国にたどり着いてから老中のどなたかが後見人になった所までは良い。だが、その先の奉行所がわからん」
時の権力者が仕事を斡旋することは別に珍しい話ではない。
だが、女性である彼女の働き先がどこかの家の女中とかであればまだわかるが、さすがに奉行所の同心というのは新兵衛の理解を超える。
「その老中の方は東都奉行所の設立に尽力されたお方です。そのお方によれば、異国出身の者による犯罪も今後あるかもしれないので、その時は私の力が役立つだろうからと、私を奉行所の同心として任ぜられました」
だが実際は、幕府は外の国との繋がりを厳しく制限しており、異国の人間がこの東都まで来ることは本当に稀な話となっている。
だからといって老中の言っていることに間違いはない。異人への備えが奉行所にあるというその事実だけでも、やましい心を持つ者たちへの影響は大きい。
「ふむ、なるほど、とりあえずお夕殿が遠い国の出身である事と、幕府とも繋がりがある事は理解した」
「本当は最初にお話をすれば良かったのでしょうが、人によっては妖怪などと見なされる事もあって、なかなかできなかったのです」
確かに、改めて見ると落ち着いた輝きを持つ金色の髪と瑞々しくも白い肌、海を思わせるような深い青の目、そして何より美しく調和したその顔かたちは、新兵衛の目から見ても魅力的の一言に尽きる。だが、世の中でそういった髪や肌の色がある事を知らぬ者たちが見れば、どこの天女か妖怪かと思ってしまっても責められるものではない。
「なるほど、そのために頭巾か」
「はい。他にこの法衣も、これならば肌のほとんどを隠せますので」
高い白粉を買い求める町娘達から見れば、お夕の白い肌はさぞ羨ましい限りだろうなあと新兵衛は思ったものだが、さすがに口には出さなかった。
「御仏には申し訳ないと思いますが、これもまた慈悲であるとお世話になったお坊様の言葉もありましたので、この姿をとらせていただいております」
「ん、ということは?」
線香の匂いがしない、とお玉は確か言っていた。
「この姿は借り物です。私には神にも仏にも縋る権利はありませんので」
「まあ、そのあたりは何も言わないですよ。この混乱の時代、人それぞれに事情があるのは何もお夕殿だけではない」
その言葉に、ほっとしたような、柔らかい表情を見せるお夕。
「なるほど、高坂殿がこの診療所を続けている理由がわかる気がします」
「一応、これでも煩悩は多いつもりですけどね。さてと、私は残る灯かりで少しやることがあります。お夕殿は自由に横になって構いませんよ」
言いながら、新兵衛ががたがたと奥から木箱を取り出した。
それはやや平べったい千両箱のようなもので、新兵衛の動きを見るとそれなりに重い物のようである。箱の横には頑丈そうな大きな取っ手がつけられており、腕に力があればそれを持って運ぶこともできそうであった。
「それは?」
「師匠の言いつけですよ。一日に一度、札術の鍛錬です」
「札術ですか、見ていても構いませんか?」
「ええ、ただ半人前程度の腕前ですから、見ていてあまり面白いものではないとも思いますが」
新兵衛が箱を開けると、中には美しく彩られた何枚もの札が整然と収まっていた。
診療所で目にする薄い紙のものと違い、こちらはそれぞれが薄い木の板で作られている。やや薄汚れた感じがあるところを見ると、それなりに使われてきた道具のようであった。
「本来なら鍛錬は朝にやるものですが、なにしろ朝は診療所の準備で忙しく、このような時しかできないのですよ」
言いながら、新兵衛が手を札の上にかざす。
すると、木箱にあった札がほのかに光り、次々と空中へ浮かび上がった。
「魚鱗、蜂矢、鶴翼、偃月」
呪文のように、合戦時における陣形の名を唱える新兵衛。
それにあわせて浮かび上がった札が次々と動き回り、新兵衛の指示した陣形の名にあわせて並んでいく。
それはさながら優美な舞のようでもあり、お夕は声を出す事もできず、ただその動きに見とれた。
「衝軛、雁行、方円、長蛇」
武門の道を志す者にとってまさに基本となるこの八つの陣形だが、もともとは遠い海の向こうの武芸書にあったものをこの国の有名な武将が自分の合戦事情にあわせてまとめたものであり、その系譜は今の幕府にも伝わっているとされる。
新兵衛が師匠である榎本より命ぜられた修行、それは様々な効果を持ついくつもの札を己の力で自らの体の一部とするために、これらの陣形にあわせて札を動かし続けるというものである。
もちろん、札術の修行方法としては他にも多くのやり方が存在している。だが、榎本は札術の修行方法はこれが一番であると新兵衛に教え、新兵衛もまたそれを疑わなかった。
榎本と共にこの東都へたどり着いてから今日まで、新兵衛は榎本の言いつけを守り、よほどの事情が無い限りはこの修行を毎日続けていた。
だが、よく見ると木箱にはまだ札が残っている。その数は新兵衛が使っている札の数よりもはるかに多い。
札の制御には高い集中力と豊かな経験が必要となる。そして同時に札を操れる数は、術者の実力に比例する。
今の新兵衛では木箱にある札の一部、二十四枚を操るのが精一杯である。
それは同時に、新兵衛とこの札本来の持ち主であった師匠である榎本との、果てしなく遠い実力の差を雄弁に物語っていた。
「札術士攻防の陣形、初めて目にしました」
「いやはや、恥ずかしいところを。もはや後に継ぐものもいない、寂れた技ですよ」
本当に恥ずかしそうに新兵衛は言った。
札術士は、その技の中に戦うものも含まれている。
使役する妖怪を槍に、札を鎧にという考え方であり、普段鎧を着ることがない公家などが護身のために編み出したものが最初と言われている。
実際、歌詠みのため常に持ち歩いていた短冊に自衛のための札術の力を込めておくのはとても合理的な考えであり、昔話にはその技をもって危機を脱する人々の姿が多く伝えられている。
だが所詮は札一枚の力であり、完全武装の武士の鎧を砕くことはもちろん、彼らの放つ槍や刀の一撃を防ぐには、それはあまりに脆弱である。
このため、今の札術の主流は補助であり、武力としての札術は急速に廃れていっているのが現状であった。
「ふう、さて、ではそろそろ私は横になります。お夕殿は?」
「私も横になります。では、また明朝に」
「はい、ではおやすみなさい」
そして細く灯っていた火が消され、部屋の中は窓から漏れる月明かりのみとなった。
寝息が聞こえる。
その微かな音が悩ましく自分の両耳を震わすたびに、新兵衛の心臓がどくんと跳ねた。
時はすでに夜遅く。外から聞こえてくるのは犬の遠吠え程度のものである。
修行を終えて床に就いた新兵衛だったが、部屋のすぐ隣で若い女性が同じように眠っているという状況に、情けないことに目が冴えてしまって眠れなくなっていた。
薄く目をあけると、紐で吊るされた法衣や頭巾の隙間からお夕の美しい寝顔がちらちらと見えてくる。
何がよくなかったのか。
きっかけは、床に就くためにお夕が法衣を脱いだときだった。
お夕は法衣の下に動きやすい作務衣を着ていたのだが、その姿は彼女の美しい体の線が一目ではっきりとわかるものだった。
おそらくは、大柄といえるお夕の体に合うような程よい大きさの、女性用の作務衣が無かったのであろう。小さめの衣はお夕の胸や尻といった女性としての部分を、それはもうはっきりと浮かび上がらせていた。
さらには、法衣に隠れてよく分からなかったが、しなやかな手足は細く長く、それでいて美しい曲線を描いており、この国の女性達とはまた違った姿を見せていた。
新兵衛とて診療で女性の裸は見慣れている。だが、お夕のその姿はどこか扇情的で、一目見た時は思わず呆けてしまった。
幸いと言うべきか、お夕はそんな新兵衛の反応に気がつく事はなく、丁寧な口調でおやすみなさいと言って静かに横になった。
こうなると生殺しである。
さらに追い討ちをかけたのが、彼女の寝息。
「ん、んん、はぁ」
馴れない寝床で寝苦しいのか、そんな悩ましい声がすぐ傍から聞こえてくる。
あの作務衣を渡した奴は地獄に落ちてしまえと罰当たりなことを考えてしまう新兵衛だが、確かに女性用が駄目ならもう一回り大きい男性用を渡せばよかったのである。これはさすがに担当者は責められてしかるべきだろう。
幸いというべきか残念というべきか、新兵衛の視線からお夕の姿は寝顔だけしか見れない状態だった。これではだけた胸元など見えようものなら、その心中を悶々とさせたまま朝を迎えたことであろう。
この新兵衛の反応を痴れ者と責めるのは酷である。なにしろ新兵衛は、患者として女性と接することはあっても、それ以外ではさっぱりという状態なのだ。
例外があるとすればお玉の存在だが、彼女はあくまで妖怪なので、お夕と同一視するのは無理がある。
新兵衛は今の自分の反応が煩悩によるものというのはよくわかっていた。診療所で榎本の手伝いをしていた最初の頃、診察のため上半身が裸になっていた美しい花魁の姿を見たその日の夜は、興奮で眠れなかったものである。
ある程度の歳と経験があればそれを鎮める方法というのもあっただろうが、いまの新兵衛にそこまでの知恵はなかった。
さてどうしたものかと冴える意識に悩んでいた時、ふと窓から差し込んだ月明かりが、お夕の上で漂う何かの影を写し出した
腑抜けていた新兵衛の意識が、何事かと一気に覚醒する。
職業柄と言うべきか、新兵衛にとって物の怪の類などとくに珍しい相手ではない。
妖怪である九尾の狐を従えているのだから当然という話ではあるが、それ以外でも幽霊や妖怪に憑かれた患者のお祓いをする事もあり、新兵衛にとって物の怪は実在する何かという扱いである。
それでも半ば不意打ちに近い出現に、普通の人間ならここで悲鳴の一つも上げるところなのだろうが、新兵衛は動じる様子もなく近くに置いていた札へ手を伸ばそうとした。
「うぐっ」
新兵衛が、そんなうめき声を上げた。
体が動かない。
金縛りにされたと直感する。
布向こうの何かが、新兵衛の動きに気がつく。
「起こしてしまいましたか、申し訳ありません」
小さく、ささやかな声で、その何かは言った。
喋った、と新兵衛が驚愕する。人の言葉を喋れる物の怪となれば、それはもうかなり高位の存在である。
「ご心配には及びません、私は主を守るものでございます」
布の横から透明な姿の女が顔を覗かせた。
お夕殿に似ているな、新兵衛はそれを見てそんな感想を抱いた。
「なにしろ主の寝相が悪く、布団が乱れておりまして、かけなおそうと出てまいりました次第にございます」
守護霊なのかと新兵衛が念じると、その存在はゆっくりと頷いた。
「この国の表現となれば、その言葉が最も適当かと」
とりあえず悪意ある存在ではなさそうなので、新兵衛は緊張を解いた。
そうはいっても人と異なる理屈で動く物の怪であるため、最低限の注意は欠かさない。
人が安心した所をばっさりと襲い掛かってくる話など、この世の中に星の数ほど転がっている。
「その様子だと、私達の事を主は話していないようですね」
私達、ということはこの存在の他にもあるという事か。
「他の者達についてはいずれお目にかかることもありましょう。今は主に頼まれた、夜の警護の役を果たすのみにございます」
その何かが、新兵衛の方をまるで貫くかのようにじっと見つめた。
「お忘れなさいますな。昼も夜も、主には我らがついている事を。我ら主の影にしてその血を守る者」
なぜそんな事を言うのかと新兵衛が顔を険しくしたとき、その姿は徐々に薄くなっていった。
「驚かせたお詫びと言っては何ですが、冴えて眠れぬご様子であれば、このような形にて失礼させていただきます」
すう、と新兵衛の肌に何か湿り気のような感覚が走った。
そして鼻から涼やかな空気が体内に送られた時、新兵衛の意識が強い眠気によって塗りつぶされていった。
「では、おやすみなさいませ」
金縛りが解けると同時に、新兵衛はそのまま布団の中に沈み込んだ。
ああ、名前を聞き忘れたという思いが頭をよぎったが、甘美な眠気は抗いがたく、そのまま新兵衛は意識を闇の中へと落としていったのであった。