第二話 兄 秀吉の出世
第二話 兄 秀吉の出世
兄の名が大きくなるにつれて、尾張の空気まで変わったように、旭には思えた。
もちろん、空の色が変わったわけではない。朝になれば日が昇り、夕方になれば山の向こうへ沈む。畑には季節が巡り、家々では竈に火が入り、女たちは家の仕事に追われる。
変わったのは、人々の口だった。
「藤吉郎殿が、また手柄を立てられたそうだ」
「いや、今度は城を任されたとか」
「ずいぶんと出世なされたものだ」
そんな話が、以前よりも頻繁に聞こえてくるようになった。
旭は、その話を聞くたび、兄の顔を思い浮かべた。
人を笑わせるのが好きで、じっとしていることが苦手で、思いついたことをすぐ口にする男。母に叱られても、どこか飄々としていた男。
その兄が、今では武士たちの間で名を知られ、主君のために働き、戦の行方を左右する人間になりつつあるという。
不思議なことだった。
家族というのは、毎日顔を合わせているうちは、相手の変化に気づきにくい。昨日までと同じように見えるからだ。
けれど、離れて暮らすようになり、人づてに話を聞くようになると、知らない顔が少しずつ増えていく。
旭にとって、兄の出世は、そんな出来事だった。
*
兄の名が世に知られるようになったのは、ただ運がよかったからではないのだろう。
人の心をつかむこと。相手が何を望んでいるかを察すること。機会が来れば、ためらわずに動くこと。
そうしたものが、兄には備わっていたのかもしれない。
ただし、旭が兄の戦場を見ていたわけではない。
どのような働きをし、誰の判断によって出世したのか。後世の記録は、兄の歩みをさまざまな形で伝えている。けれど、その一つ一つを、旭がその場で見届けたわけではなかった。
彼女のもとへ届くのは、いつも結果だった。
兄が認められた。
兄が新しい役目を得た。
兄が、さらに遠くへ行った。
知らせが届くたびに、家族の者たちは喜んだことだろう。
身内が出世するのは、誇らしい。暮らしが楽になるかもしれない。家の名が知られるかもしれない。これまで頭を下げてきた相手が、今度は自分たちに丁寧な言葉を使うかもしれない。
人は、身内の成功を、自分の喜びとして受け取る。
それは、決して不思議なことではなかった。
けれど、旭の胸には、喜びだけでは言い表せないものもあった。
兄は、いったいどこまで行くのだろう。
遠くへ行くことが悪いわけではない。兄が自分の力で道を切り開いているのなら、誇らしいことでもある。
ただ、遠くへ行けば行くほど、戻ってくる場所は変わってしまう。
同じ家に生まれ、同じ母の声を聞き、同じ食卓を囲んだ兄であっても、いつまでも昔のままではいられない。
それは兄だけではない。
旭自身も、嫁いで暮らしが変わった。
人は誰でも、時の流れとともに変わっていく。
それでも、兄の変化は、あまりにも大きかった。
*
やがて、藤吉郎は織田信長の家臣として、重要な役割を担うようになった。
信長は、古い秩序に安住せず、各地の大名や勢力を打ち破りながら、その支配を広げていた。戦は絶えず、人々の暮らしは、いつ何が起きてもおかしくない緊張の中にあった。
その信長に仕える兄もまた、戦と政治の渦中にいた。
旭の知る兄は、家の中で笑う男だった。
けれど、武将としての兄は、笑っているだけでは務まらない。
人を動かし、結果を出し、失敗の責任を負う。味方の期待に応え、敵の動きを読み、時には自分の望まない決断もしなければならなかっただろう。
兄が何を考え、どのような苦労をしたのか。
旭には分からないことが多かった。
ただ、兄の名が知られるようになるにつれ、その名は、単なる家族の呼び名ではなくなっていった。
藤吉郎。
その名を聞けば、人々は一人の武将を思い浮かべるようになる。
かつて家の中で母に叱られていた男を知る者と、戦場での働きだけを知る者とでは、同じ名前から思い描く姿が違っていたはずだ。
そして、名が大きくなるほど、人はその名に期待を寄せる。
もっと手柄を立ててほしい。
もっと高い地位へ進んでほしい。
もっと大きなことを成し遂げてほしい。
期待は、褒め言葉の顔をして、人を縛ることがある。
旭は、兄がどのようにその期待を受け止めていたのか、知らない。
けれど、兄が歩みを止めなかったことは、歴史が伝えている。
*
天正十年(一五八二)。
その年、天下の形を変える大事件が起きた。
本能寺の変である。
織田信長が、京都の本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、命を落とした。
信長の死は、彼に仕えていた武将たちに、ただならぬ衝撃を与えた。主君を失った家臣たちは、誰がその後を継ぐのか、誰が主導権を握るのかという問題に直面することになった。
兄もまた、その渦中にいた。
備中高松城を攻めていた藤吉郎は、信長の死を知ると、毛利方との講和を急ぎ、軍を引き返した。そして山崎の戦いで明智光秀を破り、信長の仇を討つ立場に立った。
歴史の教科書なら、ここにはいくつもの年号と地名が並ぶ。
本能寺。中国大返し。山崎の戦い。
それらは、後世の人間にとって、天下の行方を変えた出来事として記憶されている。
だが、その時代を生きた者にとって、戦や政変は、記録の中だけにあるものではなかった。
ある日まで当然だと思っていた主君が、翌日にはいなくなる。
昨日まで味方だった者が、今日には敵になる。
誰が生き残り、誰が新たな力を握るのか。それを確かな言葉で説明できる者は、ほとんどいなかっただろう。
旭が、どこまで詳しい知らせを受け取っていたのかは分からない。
兄がどのような決断をしたのか、その一つ一つを彼女が知っていたと断言することもできない。
それでも、兄の名が、ますます大きなものになっていったことは確かだった。
信長の死後、兄は織田家中で主導権を握るために動き、やがて柴田勝家らとの対立を深めていく。
天正十一年(一五八三)、賤ヶ岳の戦いで勝家を破ったことで、兄の立場はさらに強まった。
そして、近江の長浜や大坂を拠点としながら、その勢力を広げていく。
藤吉郎は、もはや一介の家臣ではなかった。
その名は、天下を論じる人々の口に上るようになっていた。
*
兄の出世を、旭はどう受け止めていたのだろう。
喜びがあったことは、想像に難くない。
自分の家族から、これほど大きな人物が現れたのだ。身内として誇らしく思うことがあっても、不思議ではない。
だが、彼女の胸の内を、そのまま伝える記録は残っていない。
だから、ここから先は、歴史の空白に置かれた一人の女性を想像する物語になる。
兄の成功を喜びながらも、昔の兄が遠くなっていく寂しさを覚えたかもしれない。
兄が大きくなるほど、自分の知らない兄が増えていく。そのことに、戸惑ったかもしれない。
あるいは、そうした感傷に長く浸る暇もなく、日々の暮らしに追われていたのかもしれない。
いずれにせよ、旭の人生は、兄の出世とは別のところにもあった。
彼女には彼女の家があり、夫婦の暮らしがあり、身近な人々との関係があった。
兄が天下を目指しているからといって、妹の暮らしまで、ただちに天下の問題になるわけではない。
少なくとも、この時点では。
しかし、戦国の世では、家族のつながりそのものが、政治の力を持つことがあった。
誰の娘であるか。
誰の妹であるか。
誰の妻であるか。
それは本人が選んだわけではない、生まれや婚姻によって定まる関係だった。それでも、その関係が、大名同士の交渉を左右することがある。
兄の名が大きくなるにつれて、旭の立場もまた、少しずつ変わり始めていた。
彼女自身が何かを成し遂げたからではない。
兄が、天下に手を伸ばし始めたからである。
*
天正十三年(一五八五)、藤吉郎は関白に任じられた。
武士として出世を重ねてきた男が、公家社会の最高位に近い地位を得たのである。
やがて豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉と名乗るようになる。
藤吉郎という名を知っていた者たちは、豊臣秀吉という新しい名を、どのような思いで聞いたのだろう。
出世したものだと驚いた者もいたはずだ。
あの男が、ここまで来るとは思わなかったと、舌を巻いた者もいたかもしれない。
そして、かつて彼を軽く見ていた者の中には、態度を改めた者もいただろう。
人の世は、そういうところがある。
相手の力が小さいうちは、見向きもしない。
力を得れば、昔からその価値を知っていたかのように振る舞う。
旭にとっては、兄の名が変わったこと以上に、周囲が兄を見る目を変えたことの方が、不思議だったかもしれない。
兄は兄である。
どれほど高い地位に就こうと、同じ母から生まれた兄であることに変わりはない。
けれど、世の中は、そうは見てくれない。
関白の妹。
その言葉が、彼女の人生にどれほどの重みを持つのか。
旭は、まだ知らなかった。
兄が関白になったからといって、彼女がすぐに何かを命じられたと断言することはできない。史料が伝えるのは、政治の動きや婚姻の結果であって、彼女の日々の胸中すべてではないからだ。
ただ、秀吉の勢力が広がるにつれ、身内の結びつきが政治に利用される可能性は、確実に大きくなっていった。
兄には、味方が必要だった。
天下を手に入れるためには、戦に勝つだけでは足りない。敵を減らし、味方を増やし、力のある者たちと関係を結ばなければならない。
婚姻は、そのための手段の一つだった。
娘を嫁がせる。
姉妹を嫁がせる。
血縁を結び、相手の家との関係を深める。
その時、婚姻は、二人の男女だけの問題ではなくなる。
当人たちが何を思うのか。
どのような暮らしを望んでいるのか。
そうしたことが、政治の判断の前で、後回しにされることもあった。
秀吉が旭の人生に手を伸ばすのは、もう少し先のことである。
その時、彼女は四十を過ぎていた。
すでに妻として暮らした経験を持つ、一人の女性だった。
兄が天下を目指していることと、自分がそのために嫁ぐこと。
この二つが結びつく日が来るとは、旭はまだ知らない。
ただ、兄の名は、遠くへ、遠くへと広がっていた。
その名が広がるたび、尾張の家で母に叱られていた男の姿は、人々の記憶の中で、少しずつ遠ざかっていく。
そして、その名の陰に、妹の人生が静かに置かれようとしていた。
旭は、まだ旭だった。
けれど、世の中は、彼女をいつまでもその名だけでは呼んでくれない。
やがて人々は、彼女を「関白の妹」と呼ぶようになる。
その呼び名が、彼女に何をもたらすのか。
それを知るまでには、もう少し時間が必要だった。




