第一話 尾張の妹
第一話 尾張の妹
尾張の朝は、いつも土の匂いがした。
夜露を含んだ畑の土。
竈から立ちのぼる煙。
井戸からくみ上げた水の冷たさ。
鶏の声に追い立てられるように、家々の一日が始まる。
旭が生まれ育ったのは、そういう土地だった。
後世の人々は、彼女を豊臣秀吉の妹と呼ぶ。
天下人 秀吉の妹。
徳川家康の妻。
駿河御前。
けれど、その名のどれも、彼女が幼い頃から持っていたものではない。
旭は、ただ旭だった。
朝になれば起き、家の仕事を手伝い、母の声に返事をし、兄たちの様子を眺める。腹が減れば食べ、疲れれば眠る。明日のことを心配する日もあれば、何も考えず笑っていられる日もあった。
その頃の彼女にとって、天下などというものは、遠い山の向こうにある話だった。
尾張の一角に生きる人々にとって、世の中を動かすのは、京の公家でも、遠国の大名でもない。
明日の天気であり、米の出来であり、隣村との境をめぐる揉め事であり、そして、家族が今日も無事に帰ってくるかどうかだった。
旭の家も、そうした暮らしの中にあった。
母は忙しかった。
家の者たちの食事を整え、身の回りを気にかけ、時には家計のやりくりに頭を悩ませる。子どもたちが大きくなれば、心配の種がなくなるわけではない。むしろ、身体が大きくなるにつれて、心配は家の外へと広がっていく。
とりわけ、兄の藤吉郎は落ち着かなかった。
じっと一か所に収まっているような男ではなかった。何かを見つければ近づき、人の話を聞けば、その裏にあるものまで知りたがる。人が気にも留めないことを面白がり、面白がったかと思えば、次の日にはもう別のことを考えている。
旭には、兄の考えていることが分からない時があった。
けれど、不思議と、兄が何かを決めた時の顔だけは覚えていた。
目の奥が、少し変わるのだ。
いつもの軽口が消えるわけではない。笑う時には笑うし、冗談も言う。それでも、心のどこかで、すでに次の場所を見定めている。
その目は、家の中にいる時でさえ、家の外を見ているようだった。
「藤吉郎、また何を考えておる」
母がそう尋ねると、兄は決まって、たいしたことではないという顔をした。
「なあに、ちょっと先のことをな」
「先のことを考える前に、目の前のことを片づけなさい」
母の言葉に、旭は思わず笑った。
兄は叱られても、あまり堪えた様子を見せない。むしろ、叱られたことまで、何かの役に立てるつもりなのではないかと思うほどだった。
旭には、それが少し羨ましかった。
自分は、そんなふうにはできない。
誰かに何かを言われれば気になるし、家の中の空気が悪くなれば、なるべく早く元に戻したいと思う。明日どうなるか分からないことよりも、今日の暮らしが滞りなく続くことの方が大切だった。
兄と自分は、同じ家に生まれたのに、見ているものが違う。
旭は幼いながら、そんなことを感じていた。
*
藤吉郎が家を離れるようになってから、家の中には、時折、奇妙な静けさが訪れた。
兄がいないからといって、暮らしが止まるわけではない。
飯は炊かねばならない。洗い物は残る。明日のための支度もある。誰かが出ていけば、その分の仕事は、残された者の手に回ってくる。
旭もまた、そうした日々を送った。
兄の消息が届くこともあった。何をしているのか、どこへ向かったのか。話は人から人へ伝わるうちに、少しずつ形を変える。
ある者は、藤吉郎は変わった男だと言った。
ある者は、あの男は口がうまいと言った。
またある者は、いずれ大きなことをするかもしれぬと、半ば冗談のように口にした。
旭は、そうした話を聞くたびに、家にいた頃の兄を思い出した。
母に叱られ、笑ってごまかし、次の瞬間にはもう何かを思いついている兄。
あの兄が、いったいどこまで行くつもりなのか。
それは、旭にも分からなかった。
ただ、遠くへ行く人間は、遠くへ行った分だけ、帰ってきた時の顔が変わる。
人は、同じ家に生まれたからといって、同じ場所にとどまるわけではない。
旭はそのことを、少しずつ知っていった。
それでも、兄が遠くで何をしていようと、旭自身の暮らしは、尾張の地面から離れなかった。
彼女には彼女の一日があり、家の仕事があり、身近な人々との付き合いがあった。
やがて、旭もまた、嫁ぐことになる。
それは当時の女性にとって、珍しいことではなかった。
生まれた家を離れ、夫の家に入り、その家の者として暮らしていく。誰もが当然のこととして語る道だった。
けれど、当然であることと、何も感じないことは違う。
慣れ親しんだ家を離れる時、人は初めて、自分がそこにどれほど多くのものを置いてきたのかを知る。
旭もまた、そうだったのかもしれない。
母の声。兄たちの姿。見慣れた道。季節ごとに変わる畑の色。
それらは、嫁いだからといって、記憶から消えてしまうものではなかった。
ただ、毎日の暮らしの中で、少しずつ遠くなる。
旭は、妻となった。
そして、妻としての暮らしを始めた。
その生活がどのようなものであったのか、後世に残る記録は多くを語らない。誰とどんな話をし、何に笑い、何を悲しんだのか。日々の小さな出来事の大半は、歴史の外へ消えてしまった。
歴史は、大きな出来事を覚えている。
誰が城を落としたか。誰が戦に勝ったか。誰が誰と手を結び、誰が裏切ったか。
けれど、そこで生きていた人々が、夕餉に何を食べ、夜にどんな夢を見たのかまでは、なかなか記録されない。
旭の人生もまた、その多くが記録の向こう側にある。
だからこそ、忘れてはならないことがある。
後に彼女が兄のために嫁ぐことになったとしても、その時までの彼女の人生が、すべて兄の出世のために存在していたわけではないということだ。
旭には、旭の暮らしがあった。
誰かの妹になる前から、誰かの妻になる前から、彼女は一人の人間として、この世に生きていた。
*
時が流れ、藤吉郎の名は、以前とは違う響きを持つようになった。
かつて家の中で母に叱られていた男が、武士たちの間で名を知られるようになったのである。
戦があり、主君があり、城があり、人が集まり、また去っていく。
尾張の片隅で暮らしていた旭の目には見えない場所で、兄の世界は広がっていった。
もちろん、その道は、ただ上へと続く階段ではなかったはずだ。
人に頭を下げる日もあれば、人の機嫌をうかがう日もあっただろう。思いどおりにいかないこともあれば、失敗すれば命にかかわる場面もあったに違いない。
けれど、兄は歩き続けた。
そのうち、家族の間でも、兄の話をする時の口調が変わっていった。
「藤吉郎殿は、今や大変な御身分になられた」
そんな言葉が聞こえるようになる。
旭は、そのたびに、少し不思議な気持ちになった。
大変な御身分。
そう言われる兄は、たしかに自分の知っている兄なのだろう。
けれど、遠くの人々が語る藤吉郎と、家の中で母に叱られていた藤吉郎とでは、同じ名前を持ちながら、別人のようにも思えた。
人は、名を上げると、周囲の目を変える。
昨日まで笑い話だったことが、今日には武勇伝になる。小さな失敗は語られなくなり、うまくいったことばかりが残る。
そして、本人の知らないところで、その人間の姿が作り替えられていく。
旭は、兄の名が大きくなるにつれて、そんなことを感じるようになった。
それでも、彼女はまだ知らなかった。
兄の名が、やがて自分自身の人生を大きく変えることになるとは。
藤吉郎が天下を望むようになった時、妹である旭の存在もまた、政治の世界から見られるようになる。
家族というものは、時に、本人の意思とは関係なく、結びつけられる。
兄が何を望むのか。
兄が誰と手を結ぶのか。
兄が、どの家を味方に引き入れようとするのか。
その一つ一つが、旭の暮らしにも影を落としていくことになる。
だが、この時の旭は、まだ尾張の女だった。
天下人の妹ではない。
徳川家康の妻でもない。
駿河御前という名で呼ばれることもない。
ただ、兄の出世を遠くに聞きながら、自分の暮らしを続けている一人の女性だった。
彼女の人生は、まだ、彼女自身の手の中にあるように見えた。
その手から、何がこぼれ落ちていくのか。
旭は、まだ知らなかった。




