105話
「フィオナさん、こっちのデザインも素敵よ」
目の前に広がるたくさんのデザイン画。
一つひとつを眺めていると、向かいに座る公爵夫人が一枚を差し出してきた。
受け取って視線を落とすや否や、すぐさま別の一枚が差し出される。
「やっぱり、こっちも良いわよね」
このやり取りを何度も繰り返し、思わず苦笑いを漏らした。
春が過ぎ、夏の匂いが色濃くなった昼下がり。
結婚式で着るウェディングドレスのデザインを決めるため、公爵夫人御用達のドレスショップを訪れていた。
手にしたデザイン画に視線を落とす。
そこには、レースがふんだんにあしらわれた華やかなドレスが描かれていた。
こうしてドレスを選んでいると、本当にアディエルと結婚するのだという実感が、少しずつ湧いてくる。
「うーん……こっちも捨てがたいわ」
差し出された一枚に目を向けると、今度は刺繍が美しいドレスだった。
朝から数え切れないほどのデザインを見比べてきて、正直なところ、どれが良いのか分からなくなってきている。
アディエルは、どんなドレスを好むだろうか。
そう考えてみるが、いまひとつ思い浮かばなかった。
本当は彼の意見が聞きたくて、一緒に来ようと誘ったのだ。
けれどアディエルは、たっぷり悩んだ末に「当日の楽しみにしたい」と言い、同行してくれなかった。
一人では到底決められないと思い、公爵夫人に声を掛けたところ、快く付き合ってくれたのだった。
ちらりと夫人の様子を伺うと、私以上に真剣な表情でデザイン画を見つめている。
予想以上に時間がかかってしまい、付き合わせていることが申し訳なくなってくる。
だからといって、すぐに決められない自分の優柔不断さに、思わず溜息が漏れた。
そんな様子に気付いたのだろう。
夫人は手を止め、柔らかく微笑む。
「少し、休憩しましょうか」
「……申し訳ありません。お付き合いいただいて……」
そう呟くと、夫人はさらに笑みを深めた。
「申し訳ない、なんて言わないで。私は誘ってもらえて嬉しかったんだから」
そう言って、そっと私の手を握る。
「娘と一緒にお買い物をするのが夢だったのよ。……夢を叶えてくれて、ありがとう」
その言葉が胸に染み込み、思わず泣きそうになってしまった。
思えば、母と一緒に買い物をした記憶はない。
母が連れて歩くのは、いつもセレーナだけだったから。
「……私も、夢でした」
そう呟くと、夫人がこちらへ視線を向ける。
「私も、母と買い物に出かけるのが、夢でした」
幼い頃、セレーナと母が出掛けていく後ろ姿を、部屋の窓から眺めていた。
次は自分も一緒に行けるのだろうかと期待していたが、結局、声がかかることはなかった。
年頃になるにつれ、そんな期待を抱くことも、いつしかやめてしまったけれど。
物思いに沈んでいると、夫人が握る手に、そっと力を込めた。
「これからは、たくさんお買い物に行きましょうね」
そう笑う夫人に、私も自然と微笑みを返したのだった。
用意してもらったお茶を口にしていると、公爵夫人がふっと表情を改め、背筋を正した。
「フィオナさん……私が口を出すのは余計なことかもしれないけれど」
珍しく躊躇いを帯びた口調に、思わずこちらも姿勢を正す。
「伯爵夫人――あなたのお母様のことだけれど……あまり、恨まないであげてほしいの」
「……え?」
唐突な言葉に、戸惑いの声が漏れた。
公爵夫人はそんな私に穏やかに微笑みかけるが、その瞳には淡い影が差している。
「貴族の女はね、どうしても“跡継ぎを産まねばならない”という使命のようなものを、背負わされるのよ」
その言葉を口にする夫人の表情は、どこか痛みを含んでいた。
――跡継ぎ。
ソラリス家に生まれたのは、私とセレーナ。女児が二人だけ。
父は兄弟を早くに亡くしており、直系の後継者となる存在はいない。
「社交界なんて、蹴落とそうとする人たちの集まりだから……」
そう言って言葉を切る夫人の様子に、母に関するさまざまな噂や陰口が、夫人の耳にも届いていたのだろうと察した。
伯爵家に嫁ぎながら、男児に恵まれなかった母。
そのことで、どれほど心ない言葉を浴びせられていたのだろう。
「……母が伯爵家にいられた理由が、セレーナだったのでしょうか……」
自然と、そんな言葉がこぼれ落ちた。
セレーナが美しく、誰もが目を留める存在へと成長するにつれ、母を見る周囲の評価が、まるで掌を返したように変わっていく。
それが、母にとっての“居場所”であり、“存在意義”になっていたのかもしれない。
「それでもね」
公爵夫人は、はっきりとした声で言った。
「あなたが傷ついた理由が消えるわけじゃないわ」
そう告げて、夫人は優しく微笑む。
それはまるで、過去に負った私の傷そのものを、静かに包み込むような眼差しだった。
たとえ母なりの事情があったとしても――
母とセレーナの後ろ姿を見送ったときに胸に広がった寂しさも、セレーナと比べられるたびに突き刺さった言葉の痛みも、なかったことにはならない。
けれど……。
自分自身が嫁ぐ身となり、今こうして夫人の言葉を聞いた今なら、ほんの少しだけ、母の立場を理解しようと思える気がした。
「さあ!」
ふいに、夫人がぱっと明るい声を上げる。
「素敵な一着を選ぶまで、今日は帰れないわよ」
「……はい」
そのあまりに朗らかな声に引き上げられるように、私は顔を上げ、微笑んだ。
――いつか、母の本音が聞けたらいい。
そんな小さな願いを胸に秘めながら。




