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井上のばあさん宅までの道中、パワフルなおばちゃん等の他にもいち子の好奇心と食欲を誘惑するモノが多々ある。
本来なら徒歩二○分程度の距離だが、いち子の寄り道に付き合うと四○分以上かかってしまう。子供というのは視界に入る物が好奇心の対象になるから、仕方が無いと割り切るしかない。それに、座敷童は日々の成長が無いから精神年齢はそのまま、人間の子供とは違い、好奇心に誘われた寄り道は怒る対象にはならない。いち子の好奇心に合わせたペースで行動するのも世話役の役目という事だ。
その間、一ヶ月前にアーサーから聞いた座敷童管理省の業務内容や俺の知る座敷童事情を、いち子の寄り道に付き合いながら頭の中で纏めたいと思う。
「アリじゃ!」
いち子はちょこんとしゃがみこんで働き蟻の列に夢中になる。
とりあえず、これで五分ほど時間が伸びた。
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座敷童は家にいるだけで家内安全という御利益を与え、他にも色々な御利益を盛り沢山与える。
ただ居るだけ、ただ立ち寄るだけで御利益があるということだ。
だが、その御利益も人により個人差があり、たとえ豪華絢爛小豆飯を御供えしても、座敷童はその人の分相応をわきまえた御利益しか基本的には与えれない。
どんな神様に御供物を奉納しても、御利益は自分自身の気持ちの有り様でしかないのと同じで、都合のいい等価交換じゃないのは座敷童も同じということだ。
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いち子が歩き始めた。今日は飽きるのが早いな……いや、列から脱線したアリを追ってるようだ。
次に起こす行動が予想できないのは見ていて飽きない。
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神様なら神社、仏様ならお寺など神仏には神主や住職はいるが、一般的に座敷童には神主や住職はいない。
座敷童に神主や住職がいない理由は多々あって、その中の例を一つ挙げると——
【座敷童は自由奔放】
——いち子のような常駐型の座敷童以外は、家から家に渡り歩き、時には人の後ろに付いて行き、知らない土地に移住する。
『それはノラ座敷童でしょ?』
という質問がアーサーからあったが、その質問は座敷童を一括りにした勘違い。
座敷童には【常駐型】と【放浪型】があり、アーサーがノラ座敷童だと勘違いしたのは放浪型座敷童になる。
放浪型座敷童の生態は旅行気分で遊び回り、生まれた土地に『必ず』帰ってくる。所謂、渡り鳥や鮭と同じだ。
この渡り鳥や鮭と同じというのが重大で、渡り鳥が羽を休める湖や沼、鮭が回游する海域や生まれ故郷の川などが『汚染されていたらどうなるだろうか?』
渡り鳥は羽を休める場を変え、鮭は川に戻ってこないのは誰でもわかる事実。
生まれ故郷、自分の縄張りだった家や地域に帰ってこないのがノラ座敷童という事だ。
そのため、座敷童のノラ化を防ぐために生まれたのが、一般家庭での御供物。餌付けと言えばわかりやすいと思う。
しかし、一般家庭での御供物は文化や風習が残ってるから保てるだけで、座敷童が見えないと衰退を余儀無くされる。
簡単な例を上げると、人間の子供なら現実に見えてるから愛情を常に与えれるが『座敷童は見える側の人間にしか見えない』ため、見えない側の人間からの愛情が枯れる。現代では、東北地方の文化や風習が残る地域以外、座敷童に衣食住を与えているところは無いに等しい。
俺の家のように常駐型座敷童がいたり、井上のばあさんのように座敷童が見えなくても御供物を欠かさない人間はいるため『無い』と断言するのは尚早だが、地域レベルでは無いに等しく、座敷童にしてみれば砂漠で小豆飯を探すのと一緒だ。
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いち子がアリを追った先は草むらになった空き地。
アリを見失ったのかキョロキョロと周りを見ている。すると、視線を一点に止めて地面に指先を向けた。そこには、新芽のフキノトウ。
「翔! 天ぷらじゃ!」
「おっ、美味そうだな」
俺は三角バックの外ポケットからビニール袋を出し、フキノトウを取っていく。
いち子は至る所に生えた野草を所望してくるため、ビニール袋は必需品だ。
時期がきたらツクシやヨモギを取りに原っぱに行くのだが、座敷童が見えない側の人間がその光景を見ると『白髪ヤンキーが一人寂しく野草を取る』という可哀想な絵になる。もちろん今も。
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座敷童の文化や風習が全国的にあった昔なら奥座敷に座敷童用の部屋を作り、豪華絢爛小豆飯を御供えしていた家もあった。
この風習は、放浪型座敷童を常駐型座敷童にするために用いられた方法になる。
しかし、奥座敷がある家は今も昔も一部の富裕層だけ、それでは放浪型座敷童のノラ化が加速するので、防止策として一般家庭の縁側や仏間や子供部屋に小豆飯を御供えしていた。
だが、その風習は文化と共に下降線を辿り、座敷童が見える側の人間も減り、放浪型座敷童のノラ化が加速した。
そこで立ち上がったのが【座敷童保護の会】。
新たな組織の名前だが、座敷童保護の会は座敷童管理省の元になった組織だ。
座敷童保護の会は、平安時代に座敷童の保護を目的として開設した組織になり、戦争や貧困、農業氷河期などから日本が這い上がって来れたのは、座敷童の御利益と『表上』は座敷童保護の会の活動があったからだ。
しかし、その『表上』の保護活動にも限界があり、見える側の人間も時代と共に減って文化や風習は衰退。国が協力しなかったツケが現代にのしかかった……という事になっている。
座敷童保護の会は、後々に起こるであろう座敷童問題からの経済的な被害を国に訴えていた。しかし、座敷童を見えない側の人間には妄想話にしかならないのが現実。
当たり前の事だが、実利の見えないモノに対して国税を使うことはできない。
そんな折、歴代総理大臣の中に座敷童に出会った人や見える側の人間がいたらしく、座敷童保護の会の『ノラ座敷童を今のまま野放しにしたら後々に大被害を生む』という発言を無視できず、座敷童管理省が国民の知らぬところで出来上がった。
この情報から俺は一つの予想をした。
国民の知らぬところで作られた暗黙の組織、妄想から生まれた組織では統括する人間を内閣や閣僚から出すわけにはいかない。
政府は学者関係者の中から専門家を探したと思うが、座敷童が見えなくては意味がない。
そもそも見えない側の人間が大半になった日本では政府が座敷童と言葉に挙げる事は不可能。言葉を変えれば、座敷童管理省に国税が使われてると知れば批判の嵐が飛び交う。
そこで現れたのが、座敷童だけを専門に研究し、座敷童研究家として日本に高度専門職ビザを申請していたアイルランド人、変人妄想家アーサー•ペンドラコ。
政府はこう言ったに違いない。
『座敷童管理省の大臣になれば、今日から君はアーサー•横山•ペンドラコだ』
『座敷童に日本が救われたあかつきには、高度専門職ビザではなく、永住許可を検討することを協議しよう』
所謂、何かあった時の尻尾切りには丁度いいアーサー•横山•ペンドラコが、座敷童管理省の大臣に任命されたのだ。
あくまでも俺の予想だが、近からず遠からずだと思う。
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住宅地の中にも少なからず自然が残り、春には野草が生える。食いしん坊ないち子には宝の山に見えてるだろうな。夏前に草刈りをしないと害虫問題が勃発するけど……
ふと離れた所に目を向けると、高さ二○センチほどのフキが生い茂っていた。
「いち子、フキがあるぞ」
「フキはまだじゃ。もう少し大きくなってからじゃ」
生い茂ったフキをチラッとだけ見て返答する。
「そうか」
いち子がまだと言うなら取らない方がいい。何故なら、いち子の野草知識は山で遭難しても暮らしていけるレベルだからだ。
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俺は座敷童管理省に入省はしたけど国を護ろうとは微塵も思っていない。
理由は、座敷童管理省の実績が表になる時が来たら『座敷童に依存した社会が完成』し、平安時代•戦国時代のような領土の取り合いと称した座敷童争奪戦が、欲深い人間の間で起こるからだ。
座敷童保護の会のような率先した保護活動は肯定も否定もしない。だが、現代まで文化や風習をおろそかにしといて、都合が悪くなれば掌を返して座敷童の御利益にあやかろうとする政府には否定の言葉しか浮かばない。
座敷童『管理』省が座敷童『保護』省だと少しは協力的になれるが、前提で管理という言葉を使う時点で座敷童を勘違いしてる。
座敷童保護の会のメンバーが管理という言葉に対して何も言わないのは、座敷童問題の現状打破そして行動範囲を広げるためという自己都合だろうな。
座敷童保護の会でも座敷童管理省でも何でもいいが……、くだらない。の一言だ。
座敷童の小さな御利益を小さな幸せに繋げる。
その小さな幸せを大きな幸せにするのは座敷童の御利益ではなく、人間の努力。
だから、座敷童の御利益は人により個人差があるのだ。
そもそも、御利益は管理や保護するモノでなく、たまたま得るモノ。
例えば、今のいち子の行動からたまたま小さな幸せを誰かが得る事も出来る。
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考え事をしながらの新芽のフキノトウ採りはビニール袋を満杯にしてしまった。どうやら空き地に生えた新芽のフキノトウを全て採ってしまったようだ。
ビニール袋を縛って三角バックに入れる。
「いち子、行くぞ」
「うむ」
いち子は首から下げた紐を引っ張り、小袖の中に入れてあった【大盤振舞】と刺繍された御守りを出す。
御守りの紐を緩めると、生い茂った三つ葉の中から一本の三つ葉を取って、御守りに入れる。
「フキノトウを独り占めしてごめんなさい」
両手を合わせて一礼。
いち子は自分がフキノトウを食べることで、誰かがフキノトウを食べれなくなったと思い、一礼している。
だが、そこは座敷童。
いち子が抜いた三つ葉は現実では抜けていなく、いち子の御利益を与えられたように三つ葉からゆっくりと【四つ葉】になった。
もしも誰かがこの四つ葉を採る事があれば、雀の涙ほどの御利益がある。
その小さな幸せを大きな幸せにするのは、四つ葉を採った本人次第だ。
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座敷童管理省の主な仕事は、座敷童の監視と更生そして座敷童が見える側の人間の勧誘。
監視とは、放浪型と常駐型のノラ化を防止する事に勤め。
更生とは、ノラ座敷童の放浪化と常駐化に勤め。
勧誘とは、そのままの意味だ。
座敷童保護の会のように【座敷童を保護する】と言った方が正しいかもしれない。
保護という言葉でなく、管理や更生という言葉を使った理由は、政府の御都合と文化や風習の衰退が関係する。
時代が生んだ習性になるが、ノラ座敷童は御供物がない家には一切寄り付かなくなったのだ。
言葉だと大した事ないと思われるが、コレは大問題。
座敷童がたまたま立ち寄った家でも、個人差はあるが小さな御利益から大成する人間もいる。
その存在だけで、無自覚に一日一善をしてるのが座敷童なのだ。
その無自覚の一日一善が、御供物しか見なくなったら?
御利益にあやかれる人が減り。
個人差からの大成が無くなり。
結果、御利益の減った人間が支える経済は下降線を辿る。
座敷童管理省は人間が作ったこの結果を、人間目線で懸念している。
俺から見れば身から出た錆としか思わないし、御都合主義の政府の目線から御利益を授かれる人を増やすのは身勝手極まりないとしか思わない。
座敷童管理省(座敷童保護の会)の調べでは——
常住型座敷童が全体の〇.五%
放浪型座敷童が全体の一○%
ノラ座敷童が全体の八九.五%
例として、座敷童を二○○人として計算すると、いち子のような常住型座敷童は一人、放浪型は二○人、残りがノラ座敷童。これが、千人万人いたとしたら……
常駐型と放浪型はともかく、ノラ座敷童は御供物がない家には一切寄り付かない反抗期真っ只中。座敷童保護の会が現状に切羽詰まり、国に援助を求めたのもわかる。
しかし……今までの歴史の中で一○.五%の座敷童しか保護できてない時点で、焼け石に水だと思う。
それはそのまま、座敷童管理省の存在意義は『表上』では必要という自己都合に他ならない。