第四章 人間の答えに座敷童は応える
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四月四日——早朝
井上のばあさん宅の正反対に位置した住宅地の外れに、屋根が高い蕎麦屋がある。
この蕎麦屋と併設して松田家があるのだが、井上のばあさん宅のような豪邸ではない。
車二○台収納可能な駐車場と集客数三○人の蕎麦屋に併設した一般よりも多少大きな日本家屋が松田家の家だ。
駐車場の奥に行けば庭と住居への玄関がある。
小さな庭は、洗濯物を干すスペースと山から採ってきた山菜アイヌネギを植えた畑がある。畑はいち子の趣味だ。
因みに、井上のばあさん宅のように豪華な奥座敷は無い。そもそも、松田家にいち子用の奥座敷は無い。
何故、いち子に奥座敷を用意しないかを簡単に説明すると、いち子は松田家の子供と四六時中一緒にいるため奥座敷を必要とせず、蕎麦屋を含めた松田家がそのままいち子の部屋になっているのだ。
現在の松田家の子供とは松田翔こと俺になるのだが、それはそのまま八畳一間の俺の部屋がいち子の寝室になる。
いち子のオモチャに占領された部屋の中は、思春期男子の部屋というよりは散らかった子供部屋。俺の物といえば机の上にある教科書ぐらいだ。
そして、いち子はベッドを嫌うため畳の上に布団を敷いて俺と一緒に寝ている。……のだが、座敷童として幾年も生きてるとはいえ見た目が三歳、精神年齢も三歳、食欲と遊びたい欲望で三○秒前の事をど忘れする三歳。俺が何を言いたいかと言うと……座敷童いち子は盛大におねしょをする。それも、ほぼ毎日。
「いち子、オムツをしてくれ」
俺といち子はおねしょで濡れた布団を見ている。
現実では布団は濡れてないのだが、座敷童が見える側の人間が見れば明らか。俺のTシャツやハーフパンツにも被害が出てる。
「コレは翔の寝汗じゃ」
ランニングシャツを着たいち子のカボチャパンツからはポタポタと雫が垂れている……が、おねしょを認めない。
「脱水症状になってないのが不思議なぐらいの寝汗だな」
「うむ。健康でなによりじゃ」
「これが寝汗なら重病人だ」
バケツの水をひっくり返したように濡れた布団を畳んで持ち上げる。
「干しに行くぞ」
「うむ」
いち子がおねしょを認めないのは毎朝の恒例行事。いち子の世話役としては怒るところだと思われそうだが、座敷童のおねしょは人間のおねしょと違ってアンモニア臭を取るための洗濯は必要なく、天日干しすれば解決するので怒る事でもない。
そもそも、座敷童には日々の成長が無い。
見た目が三歳、そのままの精神年齢と身体で日常を過ごしている以上、毎朝のおねしょは茶飯事として接してないと、その度に怒ることになる。
毎日のおねしょは布団を毎日干せという【おねしょメッセージ】という事だ。
まぁ、人間の子供やペットならそんなわけにはいかないから、おねしょをした際はオムツとしつけをしっかりしてくれ。
話を戻し、俺といち子は部屋を出て廊下を進む。その間、ポタポタといち子のカボチャパンツや布団から雫が落ちていたが、気にする必要はない。毎日掃除をすれという母親へのメッセージだ。
サンダルを履いて玄関から出ると、駐車場を背中に物干し竿に向かう。すると……
「翔がおねしょしたんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
いち子が急に大声を出した。朝っぱらから近所迷惑だなぁと普通なら思うけど、近所には座敷童が見える側の人間はいないためいち子の主張は届かない。
俺はいつもどおり物干し竿におねしょ布団を干す。
(それにしても、いつもは『朝じゃぁぁぁぁぁぁぁぁ』と言うのに、今日のいち子はおねしょを俺になすり付けている。それも、いつも以上に大声で……、ん?)
ふと、いち子が見てる方向を見やる。
「うおっ!」
「お、おはよう、ございます」
「……あなた、年いくつ?」
俺の視界の先、駐車場には、灰色のデニムパンツに長袖を合わせてノースリーブのダウンジャケットを着た井上さんと、白を基調にした背広に白一色のロングコートを着たアーサーがいた。二人とも苦笑しながら、おねしょ布団を見ている。
タチが悪いのは二人の前に陣取った白の直垂を着たしずかと褌一丁の八太、悪どい顔を作りながら俺を見ている。
(おいおい、マジかよ……)
「お、俺なわけないだろ!」
「翔じゃ! 今日も翔はおねしょしたんじゃ!」
「寝汗はどこいった! おねしょの自覚があるならオムツにするぞ!」
おそらく、いち子はしずかや八慶や八太におねしょがバレたくないから俺になすり付けてる。
しかし、当事者が偽りの情報を公言して無実の者を陥れるという荒技【偽証】がある。まさかいち子にそんなスキルがあったとは……
「翔のおねしょじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「翔のおねしょでありんすぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
「翔のおねしょだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ」
俺のおねしょだと強く主張するいち子としずかと八太。
(な、なんてタチの悪いガキ共だ……)
ニヤニヤと悪どい笑みを浮かべながら主張されるとゲンコツの一つもいれたくなる。
偽証とはいえこれ以上主張されると真実は闇の中に葬られ、俺がおねしょをしたという既成事実ができあがる。そんな不名誉を背負うわけにはいかない。
「しずか、八太、コレはいち子のおねしょだ」
悪ガキ三人がピタッと止まるを確認すると、
「証拠は服の濡れた箇所だ。俺のシャツとハーフパンツは右側が濡れてる。特に上半身。だが、いち子はパンツを中心に濡らしている」
俺は事実のみを、見える現実のみを、三人に突き付ける。特にいち子に。
「な、なんじゃと⁉︎」
驚愕するいち子。
(おいおい、本気で俺がおねしょしたと思ってたのか? いや、三○秒前の事をど忘れした実績を持ついち子ならあり得る)
はぁ、とため息を吐きながらいち子に向けていた視線を移すと、しずかと八太は俺の視線から逃げるように目を泳がす。
「しずか、八太?」
「「!」」
しずかと八太は落ち込むいち子に視線を向ける。
「いち子、翔のおねしょ『も』入ってるでありんす」
肩を落とすいち子の背中をポンポンと優しく撫でる。
「そうだ。翔のチンチンは右曲がりだから右側が濡れてるんだ」
八太もしずかに続いていち子を慰める。
「……何誤魔化してんだ? お前等もおねしょしたんだろ?」
悪ガキ代表のしずかと八太が、おねしょを見かけて簡単に引き下がるわけがない。案の定、罰悪い表情を作って視線を逸らしてる。おねしょ確定だ。
(まぁ、既成事実にはならなかったし、おねしょ問題はこの辺にして……何故ここにアーサーが来たのか、何故一緒に井上さんがいるのか聞かないといけないな)
褌一丁の八慶に視線を向け、
「八慶。アーサーはともかく、井上さんがいる理由を知りたい。……ここに来たのは散歩ってわけじゃないだろ?」
散歩以外の理由は東大寺絡みの理由になるわけだが、俺の中では『井上さんがどこまで知ったか』が問題になる。
「杏奈殿の策に一考の価値ありと判断した」
「井上さんの、策?」
「対オロチの策だ」
「!」
(おいおい、オロチの事を言ったのかよ……そうなると……鱗が素材になる事も……)
あくまでも俺の予想だが、井上さんは座敷童が見える側の人間にするための素材が八岐大蛇の鱗というのを八慶から聞いて、対オロチの策を考えた。井上のばあさんを座敷童が見える側の人間にするために。
「井上さん? 一応聞くけど、なんで対オロチの策を?」
「おばあちゃんを座敷童が見える側の人間にするためです」
(やっぱりな……)
チラッと八慶を見る。
「あくまでも一考、翔殿も聞く価値はあると思う」
「聞く価値ありってなぁ……」
ため息を吐きたい気持ちを抑えながら井上さんに視線を戻す。
「三人のワガママに付き合ってる事はないよね?」
「私の意思です」
「ばあさんは望んでないよ?」
「孫のワガママです」
「そうか……、……」
孫のワガママと言われたら何も言えない。俺も井上さんの気持ちはわからないでもないし。
「あんたさ、カッコつける前に着替えたら?」
「アーサー、お前は帰れ」
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俺は今、蕎麦屋の大部屋で朝食を取りながら、プレゼン下手なアーサーの話しを聞いてる。
朝風呂でスッキリしたのに下手くそなプレゼンを聞かせやがって……とは思ってない。前日に俺から「判断すれ」と言った事だからな。それ以前に、俺の不満はアーサーではなく母親に向けられている。
その不満とは食事だ。
松田家の食事には御膳台はなく、一般の食事風景と同じくテーブルに皿を並べている。
そして、本日の朝食のメニューは、もりそばと白米とフキノトウの天ぷら。
前々日の晩と前日の朝にも見た三品であり、それはそのまま井上のばあさん宅や火葬場以外では食べてる物が変わらないという事だ。その前の日を言えば野菜炒めだったな。
俺の正面では、井上さんがお茶請けにフキノトウの天ぷらを食べてる。その隣では、しずかと八慶と八太が本日二回目の朝食を食べてる。しずかだけが黒飯を食べてるが、チラチラと小豆飯を見ているもののフキノトウの天ぷらに満足しているようだ。
(まぁ、蕎麦屋の天ぷらだから美味いんだけど……たまに食べるから美味いんだよな)
視線を隣に向けると、いち子はフキノトウの天ぷらを飽きもせず食べている。いや、前日に食べたメニューを覚えてない可能性が高いな。
とりあえず、俺が母親に何を言いたいのかと言うと……息子は現在成長期という事だ。
食わしてもらってる立場だから文句は言いたくないが、朝からガッツリした肉とは言わないから鮭と納豆というたんぱく質を出して欲しい。
そもそも、蕎麦屋で余った野菜を使うバリエーションの少なさは成長期には致命的だ。エビ天は余らないから諦めてるが、野菜の天ぷらに野菜炒めに野菜のみのカレー……肉を出せ肉を。肉無しの回鍋肉を回鍋肉と言うな。それは回鍋肉のタレを使った野菜炒めというんだ。
そろそろ俺からの文句があると勘付いた母親は、俺といち子が風呂に入ってる間に仕入れがどうとか言って朝食を出して逃げたみたいだ。
(俺のたんぱく源、井上のばあさんの料理はジョンの忌明けまでは精進料理だろうし……、またキロ単位で牛肉を仕入れてやるかな)
母親への不満と当て付けを考えてると、アーサーの下手なプレゼンが終わった。
「————というわけだから、しずかちゃん•八慶君•八太君と東大寺に行ってもらいたいのよ。座敷童管理省の特務員として」
アーサーはお茶を一口飲んで喉を潤すと、フキノトウの天ぷらに塩を一つまみ分ふりかけ、箸でつまむ。
アーサーの天ぷらを食べる所作は日本人の俺から見ても完璧だ。いや、今はそんな事を考えてる場合じゃないな。とりあえず、アーサーの話をまとめると。
「鱗が欲しい井上さんの策に八慶•しずか•八太の三人が賛同。アーサーとしては梅田にチャンスをやりたいから、松田家としてではなく井上さんの策に賛同した特務員として俺を東大寺に……って事か」
プレゼンの内容は、井上さんが考えた策と今回の件に限りアーサーの参謀になるという内容だった。
「とりあえず、井上さんの策だけど……しずかがオロチの動きを制限して、主軸の吉法師とその軍がオロチと闘う。その間のサポートを八慶と八太……でいいの?」
「オロチがどの程度かわからないので簡単な策しか練れません。通用するかわかりませんが、昨日聞いたしずかちゃんや八慶君や八太君の力から下手な策を講じるよりも、正面対決の方が被害を最小にしながら……」
「少し勘違いがあるかな……」
俺は井上さんの言葉に被せる。理由は、八慶の言ったとおり『一考の価値』しかなく、俺に聞く価値ありと言った理由を理解したからだ。
「勘違い、ですか?」
井上さんは疑問符を浮かべる。
(勘違いに気づいてない……いや、あくまでも一考だったな)
八慶は東大寺をオロチから守る八童として『一考の価値』があると思っただけで、井上さんの策には吉法師の『都合』が抜けているのだ。その『都合』を、自分から話すよりも『俺が井上さんを諭す』のが妥当だと判断したのだろう。
(井上さんに追い込まれたからオロチの事だけは話したって事だな。俺に聞く価値ありとは上手く言ったもんだ……)
八慶が追い込まれたならこの場で俺が嘘を並べても、一考の価値のまま井上さんに動かれる結果に終わるだけ。俺も八慶と同じく詰まれた事になり『吉法師の都合』を説明するしかなくなった。
「井上さんは、吉法師がその方法を浮かばなかったと思う?」
「いえ、浮かんで当たり前です」
間髪入れず返答、ですが、と加えると、
「織田信長……いえ、座敷童吉法師なら三人を追い出したと見せて実は松田さんといち子ちゃんを東大寺に呼び込む策だったと考えられます。理由は、三人を自分の元でサポートさせるよりも松田さんといち子ちゃんの元でサポートさせる方が確実ですから」
「八慶と八太に傷を負わしてまで俺といち子を東大寺に呼ぶ策を吉法師が実行した。そこまでわかってるなら御三家での梅田の必要性が無い事もわかってるよね?」
「座敷童吉法師が放浪型座敷童と各地を回ってオロチの対処をしてるようなので、現代では保身で動いてる梅田家に存在価値はありません」
「その吉法師が松田家に連絡一つしないで、三人を追い出した事実のみを見せてきた。俺といち子を呼び込む策なら三人を追い出さずに松田家ではなく『いち子の世話役の俺』に言ってきたらいいだけだよね?」
「! ……なるほど……」
井上さんは勘違いと言われた意味を理解すると同時に、自分の策が一考の価値しかなかった事に気付く。
「座敷童吉法……、吉法師さんの策はしずかちゃんや八慶君や八太君の代わりにオロチを倒す『だけ』ではなかったのですね……。私は、オロチを倒すことしか考えてませんでした」
しずか•八慶•八太を東大寺から追い出し座敷童同士の縄張り争いを主張する回りくどい策を実行した吉法師、その真意を井上さんは見逃していた。
すなわち、縄張り争いを仲裁する役割がある御三家は松田家でも竹田家でもなく……残りの一家になり、松田家と竹田家はその一家が縄張り争いの仲裁ができないその時まで観察するしかないのだ。
「アーサー。上に立つ人間なら井上さんみたいに幅広い視野を持ち、吉法師ぐらい面倒見がいい人間になれ」
「どういう意味よ?」
アーサーは吉法師の真意に気づいてない。そこを一つ一つ説明するのはめんどくさいが、俺と井上さんだけがわかっていてもアーサーが理解してないと意味がない。
「吉法師は『昔の梅田家』のように放浪型座敷童と各地を回ってる。そして、自分や各地の八童の手に負えない問題が発生した場合、松田と竹田に協力を要請する。一方、梅田はソレを忘れて保身しか頭に無い。ここまではわかるな?」
「わかるわ」
「吉法師は梅田の跡取りを昔の梅田家のようにするため、松田家と竹田家が介入できない策を実行し、オロチという危機を利用して梅田家の教育をしようとしてるんだ」
「……、回りくどいわね」
アーサーは吉法師の真意が梅田家への教育だと理解はする。
「その回りくどさがなければ、松田と竹田の当主が動いて梅田はさよならだった。吉法師だから、三人を東大寺から追い出した理由があると考えて、観察する事を選んだ。その観察役が座敷童管理省の特務員として東大寺に赴ける俺だ。……コレでわかっただろ? 井上さんの策は吉法師が考えた策とは対極、『梅田家のためにならない』って」
井上さんが考えた対オロチの策が未完成という意味ではなく、梅田家を教育したいという吉法師の作戦とは対極という意味だ。
「ちょっと待って。それだと問題があるわ……、……」
アーサーは目を閉じて三秒ほど思考すると、頭の中を整理するように口に出す。
「杏奈ちゃんの策は室町時代と戦国時代にオロチと戦った八慶君のお墨付き、あくまでも封印するための策。でも、吉法師君の教育はオロチという危機に対して梅田家……今、奈良県にいるのは特務員梅田達也だから彼が考えを改めるまで続く……、……問題あり、問題ありよ!」
問題ありと言葉を強くするアーサー。座敷童管理省の大臣として吉法師の教育には了承できない。
「なんだ問題って?」
「?」
俺と井上さんは疑問符を浮かべる。
「危機を利用しての教育なんて改心しなかったらどうなるのよ? 倒せる時に倒さないで特務員梅田は改心しないオロチは手に負えないってなったら?」
アーサーの懸念はオロチが自分達の手に負えなくなった時に起こる被害。『手遅れ』になった後の対処に保険が無いのだ。だからこそ、座敷童管理省の特務員ではなく松田家としての俺に聞くしかなくなる。
「あんたが松田家として行く理由は?」
手遅れになった時の保険は松田家と竹田家になるからこそ、端的に聞く。
話の流れから俺といち子が東大寺に赴く時点で保険になるのだが『松田家として』と聞くという事はアーサーには懸念しかないようだ。だが、そんな大臣の都合は俺には関係ない。
「吉法師が対処できなかった場合の代わりだ」
「万が一、吉法師君と杏奈ちゃんの策が失敗した時の松田家と竹田家からの増援は?」
「それは東大寺の倒壊を意味する。松田と竹田の当主はソレを理由に梅田の失脚を狙ってるんだ。増援なんて無い。それ以前に、東大寺が倒壊したらオロチ一匹程度ならしずか•八慶•八太でツリがくる」
「東大寺倒壊なんて大問題よ。倒壊させないで対処する事は?」
「……あのなぁ、松田や竹田には座敷童管理省や梅田や国の都合なんて関係ない。それに、お前は甘すぎだ」
「甘さじゃなく教育という私情に費やすリスクが高すぎるのよ」
「リスク、ねぇ……座敷童の世界で確信を得てから行動したいなら国に帰れ。策に組み込める駒が歩兵しかいなくても、その歩兵を信用するのが王将の勤めだ。そもそも、松田や竹田みたいな飛車や角を天才的な参謀が動かしても敗北するのが実践。吉法師はソレを人間だった時に経験してる……とりあえず……」
ゆっくりと立ち上がり、
「俺が学校から帰ってくるまでに考えておけ」
「学校に行くの?」
「当たり前だろ。本音を言えば、梅田が本来の役割を果たしていればオロチ一匹で松田の人間といち子が動くなんてあり得ないんだ。俺としては普段の日常となんら変わらない」
「あんたから見て吉法師君と梅田家で対処できると思う?」
「無理だから俺を呼んでるんだろ」
「そうよね……」
アーサーは大臣として確信が欲しい。それは社会人が一つの仕事に確信が欲しいのと同じであり、学生のテスト問題や愛の告白も同じ。確信があれば人間は迷わずに一歩を踏み出せるのだから。
だが、そんな確信は都合よく転がってない。だからこそ、人間には何事にも悩めるという崇高な知能があるのだ。
従って、アーサーには悩みに悩んでもらう。
「俺が東大寺に行った時点で梅田の跡取りはプライドがズタズタだろうな。あと、オロチの鱗を手に入れても八岐大蛇の鱗にするには加工が必要だ。座敷童管理省として井上さんに協力を頼んだなら、座敷童管理省として加工も松田に頼まないとならない。ますます松田あっての座敷童管理省になっちまうな」
「なんか悔しいわね」
「手遅れになる前に判断するんだな。吉法師が兵を集めて旗揚げしたって事は機は熟してるってことだ」
「…………」
「東大寺が倒壊したら大変だぞぉ。オロチを封印しても復興に時間が掛かるし、その間は放浪型とノラの食いぶちがなくなるって事だ。座敷童管理省ができて一年経たない内に梅田のプライドの都合で座敷童が路頭に迷う。座敷童管理省の必要性も無くなるな」
「…………」
「アーサー。手遅れになる前に大臣として判断するんだ。とりあえず、学校から帰ってくるまでに答えが出てなかったら松田家として動く。そして、松田家は梅田を御三家から外し、吉法師を代わりにする。座敷童管理省は吉法師に全面的な協力をする組織になり、松田と竹田の手足となる」
アーサーよ。悩むんだ。悩んで悩んで悩んで答えを出すのだ。その末に出した答えが、座敷童の世界で生きていく糧になるのだ。
座敷童の縄張り争いや八童同士の喧嘩を飛び越えて、初めからオロチという難題は運がなさすぎるが……残念な女が大臣としての一歩を踏み出すには丁度いい試験だ。
内心の俺が悪どく高笑いしていると、黒縁眼鏡を右手中指で押し上げた井上さんが口を開く。
「梅田家が御三家から外れるだけでwinwinですね。今回の件だけの参謀ですが、座敷童管理省の将来を考えると松田さんに松田家として協力要請するのが吉だと思います。座敷童保護の会の初心を貫徹できない梅田家の存在はただの確執ですから」
(意外にも……いや、意外じゃないな。井上さんなら簡単にこの答えを出す。梅田達也が教育で改心する確証は無いし)
「私も同感だわ……でも、梅田家は座敷童管理省を分裂させて座敷童保護の会に戻るだけだから何も変わらない。特務員のいない座敷童管理省じゃ吉法師君の手伝いなんてできないし……」
アーサーは深いため息を吐く。
「座敷童管理省の意味の無さが理解できただろ? 梅田は、松田と竹田を国からの要請として動かしたかっただけなんだ。国に金を出してもらって行動範囲を広げたかっただけだ。アーサーや国は良いように利用されてただけって事だ。良かったな、手遅れになる前に気づいて」
「……、私一人で手伝いできるかしら?」
「…………」
今まで一人で座敷童を探してたんだろ。何弱気になってんだ。と言ってやりたいが、調子に乗られたらめんどくさいため、
「吉法師が梅田を更生できれば御の字。できなかった場合は俺が介入して座敷童管理省は分裂。分裂後は、吉法師の手伝いをアーサーができなかったら国に帰る。簡単な問題だろ?」
「そうね。……」
「ギリギリまで待つという方法もあります」
井上さんは黒縁眼鏡を右手中指で押し上げながらアーサーを見やる。
「どういうこと?」
アーサーは疑問符を浮かべる。
「オロチという危機があるので私達には余裕がありませんが、松田さんといち子ちゃんがいれば最悪な事態は阻止できます。最悪な事態は阻止できるんです。アーサーさんが吉法師さんの教育を見て、梅田家の方に更生の意思がなければ切る。大臣として判断するなら、そのギリギリのラインをどこに敷くか……それが松田さんの言う大臣として判断です。もしくは、人間側のそれも座敷童を昨日今日知った私が梅田家を教育する……これには吉法師さんの了解が必要ですが」
「正解。アーサーに一人で手伝いする覚悟があるなら、手遅れになるギリギリのライン、境界線を見極めて判断しろ。後者は吉法師次第だな。井上さんがいて良かった……アーサーだけだとバカすぎて学校を休むところだった」
「学校から帰ってくるまでに境界線をどこに引くかを考えておくわ」
「考えるのもいいけど……八慶と八太が傷を負ったという事はその先もあるという事だ。吉法師の軍は座敷童一○○人。境界線を一人が死んだ場合か一○○人が死んだ場合かは自分で……」
「一人でも傷ついたらよ」
(こんなところだけ合格しやがって……。それが本来の梅田家、座敷童保護の会の精神なんだ。決まった座敷童を守る事しかできない松田や竹田の代わりに全国の座敷童を守る……自己犠牲。どこまで座敷童に好かれやすいバカなんだ……)
もう十分だな、とアーサーを内心では賞賛し、
「そうか。とりあえず、地下の書庫に座敷童の真実があるから読んでおけ。オススメは【御三家初志】という平安時代に書かれた本だ。その中に、座敷童保護の会を一人で設立した女丈夫の話がある」
「それって……」
「その女丈夫が初代梅田家当主って事だな。……変人で色物の残念な女には参考になるぞ」
「?」