第10話 デート
手をつなぎ、一ヶ月ぶりに新居の門をくぐったアリアとイグニスは、しばらく歩いて街の賑やかな大通りへと出た。
人通りはそれなりに多く、活気に満ち溢れている。街道沿いには様々な露店が軒を連ねていた。きらきらとした安価なアクセサリーを売る店、異国の織物や素朴な食器などの小物を並べる店、そして香ばしい匂いと煙を上げる串焼きの店。どこを見渡しても、前世の近代社会とは大きく異なる、幻想的で力強い異世界の生彩が躍動している。
「何だか新鮮だね」
アリアが軽やかに足を止め、露店に並べられた商品に興味深げな視線を注いだ。色とりどりのガラス玉や、簡素な銀細工のアクセサリーが日光を反射して輝いている。しかし、前世の精密な機械工業や熟練の職人技術を知るアリアの記憶と比べると、その作りはどうしても粗雑に思えた。
「我のストレージにあるガラクタの、さらに何千倍も劣るゴミだな」
隣に立つイグニスが、吐き捨てるように容赦のない評価を下す。そのあまりに率直すぎる口ぶりに、アリアは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そこまで言わなくてもいいじゃない。でも、見てるだけでも結構楽しいよ」
「理解できん。お前が欲しがるなら宝玉で飾られた装飾品をいくらでも与えてやるというのに、なぜそのような砂利のようなものを眺めるのだ」
呆れ顔のイグニスだったが、アリアの手を握る力は決して緩めようとしない。アリアはふふっと微笑み、露店を離れて再び歩き出した。
今日の散策には、二人の時間をゆったり楽しむという目的があった。新居での落ち着いた生活が始まって一ヶ月。お互いに多忙な日々を送っていたこともあり、こうして気兼ねなく街を歩くのは久しぶりのことだったのだ。
「あっちの小路にも店がたくさんあるみたい。行ってみようよ、イグニス」
「ふん、お前が付き合えと言うなら行ってやる。道に迷うなよ」
露店街を抜けて細い路地に入ると、そこには生活感あふれる小規模な市が広がっていた。地元の農家が持ち寄った新鮮な野菜や果物が山積みにされており、甘酸っぱい果実の香りが鼻腔をくすぐる。
「見て、イグニス。この果物、すごく色が綺麗」
アリアが指差したのは、鮮やかな朱色をした拳大の果実だった。表面には薄っすらと魔力の残光のような輝きがある。
「『シュカ』だな。ありふれた果実だが、水気を多く含んでおる。……おい、店主。それを二つ寄こせ」
「はいよ! まいどあり!」
イグニスは懐から小銭を取り出し、素早く買い求めると、そのうちの一つを手際よくナイフで二つに切り分けた。断面から甘いジュースが滴り落ちる。イグニスは手元を乱すことなくアリアにその半分を差し出した。
「ほら、食え」
「えっ、ありがとう。イグニスって、なんだかんだ親切だよね」
「戯言を言うな」
素直になりきれないイグニスの態度に愛おしさを感じながら、アリアは果実を口に含んだ。みずみずしい甘みと爽やかな酸味が口いっぱいに広がり、歩き疲れた体に染み渡っていく。
「美味しい! イグニスも食べてみて」
「……普通だな」
そう言いながらも、イグニスはアリアが嬉しそうに食べる姿をどこか満足気に眺めていた。
二人は果汁を拭い、再び賑やかな街道へと戻った。
街の喧騒を楽しみ、いくつかの小物を冷やかしながら進むうちに、アリアの足取りはある特定の方向へと向かっていった。
実はアリアには、今日どうしても行きたい場所があった。
一ヶ月前、この街に初めて足を踏み入れた時に見かけて、ずっと気になっていた場所――「錬金術師ギルド」だ。
前世では、錬金術を題材にしたゲームをよく遊んでいた。その影響もあって、アリアはこの世界の「錬金術」に非常に強い興味を持っていた。
「あっちだね」
やがて、賑やかな大通りの喧騒が少し引き、独特の乾いた薬草の匂いと、微かな硫黄のような化学物質の匂いが漂う区画へと辿り着いた。重厚な石造りの建物の上に、フラスコと天秤を組み合わせた紋章が掲げられている。そこが目的の錬金術師ギルドだった。
ギルドの重い木製の扉を開けて中に入ると、外の賑わいが嘘のように静まり返っていた。薄暗いロビーには静寂が満ちており、壁際に並べられた棚には意味深げな壺や未知の鉱石、乾燥させた謎の植物が所狭しと並べられている。奥にある受付カウンターには、神経質そうな眼鏡をかけた女性の受付嬢が座っていた。
足音を響かせて近づいてくる二人を視線だけで捉え、受付嬢は機械的な笑みを浮かべた。
「錬金術ギルドへようこそ。どのようなご用件でしょうか」
「あの、錬金術に関する本や、初心者向けの手引書のようなものは販売していますか?」
アリアが気後れしながらも尋ねると、受付嬢は表情を変えずに立ち上がり、背後の厳重に鍵がかかった棚から一冊の分厚い本を取り出した。革塗りの表紙には金文字でタイトルが刻まれており、いかにも「専門書」といった重厚な雰囲気を醸し出している。
「はい。こちらの『錬金術入門』が、一冊金貨1枚で販売しております」
金貨1枚。この世界の物価感覚からすれば、一世帯がしばらく暮らせるほどの額だ。一般人にとってはかなりの高額である。
現在、自由にできるお金を持っていないアリアは、隣に立つイグニスの服の袖をきゅっと引っ張り、上目遣いでおねだりした。前世の男としてのプライドなど、この際どこかへ投げ捨てていた。
「イグニス……これ、欲しいな」
「ふん。お前が欲しがるものなら何でも構わん」
イグニスは何の躊躇もなく、不機嫌そうな顔のまま懐から輝く金貨を1枚取り出すと、カウンターの上へと滑らせた。受付嬢は驚きで少し目を見開いたものの、手際よく金貨を確認し、分厚い本をアリアへと手渡した。
「毎度ありがとうございます。……お客様、ギルドへの正式な登録はなさいますか? 登録していただければ、錬金部屋の利用や素材の購入権などの特典がございますが」
商魂たくましく聞いてくる受付嬢に対し、アリアは本を大事に抱え込みながら首を振った。
「いえ、今回はしません。本を読むだけにします」
「左様ですか。では、またのご利用をお待ちしております」
受付嬢に軽く一礼し、アリアはイグニスと共にギルドを後にした。手にズシリと伝わる本の重みに、アリアの胸は高鳴っていた。ついに自分も錬金術の扉を開くのだという期待感が、体中を駆け巡る。
手に入れた本は、家に帰ってからの楽しみにすることにして、二人は夕闇が迫る街の路地をのんびりと家路につく。
その途中、香ばしい焼き上がりの匂いに誘われて、ふと街角の小さなパン屋に立ち寄った。店頭の籠には、前世でいうフランスパンによく似た、細長くて硬いパンが積み上げられている。
「『長焼きパン』かい? お姉さん、一つ買っていくかい?」
気さくな店主の言葉に、アリアは頷いた。
「はい、一つください」
焼き立ての香ばしいパンを紙に包んでもらい、アリアは満足そうに微笑んだ。夕暮れ時の赤く染まった街並みを背景に、二人は静かに新居へと足を向けた。影が長く伸び、街灯の魔導具がぽつぽつと温かい光を点灯し始めている。
◇
家に帰る頃には、すっかり日が暮れて夜の静寂が周りを包み込んでいた。
今夜の夕食は、アリア特製の温かいクリームシチューだ。台所に立ち、丁寧に作っていたスープを温め直す。じっくり煮込んだ大ぶりの野菜と鶏肉の旨味が溶け込んだシチューの香りが、リビングいっぱいに広がる。
ダイニングテーブルにつき、さっき買った長焼きパンを手でちぎって深皿のシチューに浸しながら食べる。カリッとした固いパンの皮に濃厚なホワイトスープがじわっと染み込んで、絶妙な食感と味わいを生み出していた。
「……悪くない」
普段は人間の食事に対して冷淡な評価しか下さないイグニスも、アリアの手料理には満足そうに頷き、出されたシチューを綺麗に平らげてくれた。その姿を見るだけで、アリアの心は温かい幸福感で満たされた。
食後、二人で交代でお風呂に入り、日中の汗と疲れをさっぱりと洗い流した。湯上がりの心地よい火照りを纏ったまま、二人は広々とした寝室の大きなベッドの上へと移動する。
柔らかいシーツの上に腰を下ろした瞬間、イグニスの雰囲気がガラリと変わった。妖しく輝く赤金の瞳を細め、早くも「夜の運動」を始めたそうに、アリアの細い腰へとすり寄るように手を回してくる。
「アリア……」
「待って、イグニス。今日はこれを読むって決めてたんだから」
アリアはその熱を帯びた手を優しく、しかし確固たる意志を持って制した。膝の上には、昼間に金貨1枚という大金を払って購入したあの『錬金術入門』が載せられている。
「チッ……その紙切れの束が、我との時間より優先されるというのか」
あからさまに不満そうな表情を浮かべ、イグニスは枕に頭を埋めてベッドに寝そべった。そんな彼の機嫌を伺いつつも、アリアの探究心は抑えきれなかった。期待に胸を膨らませながら、革塗りの重厚な表紙をめくる。
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『錬金術入門』
はじめに
錬金術とは、万物の理を知り、それを正しい形へ導く高貴なる学問である。
多くの者は「鉛を金へ変える術」や「不老不死の秘薬」を思い浮かべるだろう。しかし、それは錬金術の本質ではない。
本書では、錬金術という壮大な学問の入り口に立つための知識を紹介する。
さあ、あなたも錬金術師への第一歩を踏み出そう。
第一章 錬金術とは
錬金術とは、「変化」の学問である。
世のあらゆるものは常に変化し続けている。
木は灰となり、水は蒸気となり、鉄は錆びる。
錬金術師とは、その変化を理解し、自然の法則を探究する者である。
変化を知ることは世界を知ることに繋がる。
まずは身の回りの変化に目を向けることから始めよう。
第二章 錬金術師の心構え
優れた錬金術師には共通する資質がある。それは探究心である。
目の前の現象を疑問に思い、答えを探し続ける姿勢こそが重要だ。
また、失敗を恐れてはならない。錬金術での失敗は確かに危険だ。しかし多くの発見は失敗の先にある。知識を積み重ね、経験を重ねることで、一歩ずつ錬金術師へと近づいていく。
第三章 魔力について
錬金術と魔力には深い関わりがある。
魔力が豊富な者ほど、高度な錬金術を扱えるという説もある。
しかし、魔力だけで錬金術を成功させることはできない。重要なのは知識と理解である。魔力はあくまで一つの要素に過ぎず、それだけでは何も成し得ない。
第四章 錬金術の可能性
錬金術は非常に幅広い分野へ応用できる。
素材の加工、薬品の精製、魔道具の開発、建築技術、農業、医療など、ありとあらゆる分野で錬金術の知識は活用されている。世界の発展を支えている学問の一つ、それが錬金術なのである。
第五章 学び続けること
錬金術は、一冊の本を読んだだけで習得できるような学問ではない。
知識を学び、経験を積み、何度も考え続けることで少しずつ理解が深まる。焦る必要はない。日々の積み重ねこそが、未来の大錬金術師への道となる。本書が、その第一歩となれば幸いである。
おわりに
ここまで読んでいただき感謝する。
あなたは今、錬金術という壮大な世界の入り口に立った。
学び続ける姿勢を忘れないでほしい。
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最後のページを読み終え、パタン、とアリアは虚しく響く音を立てて本を閉じた。
「……何、これ」
呆然とした呟きが、静かな寝室にポツリとこぼれ落ちた。
読み進めた実際の中身。そこには「錬金術は素晴らしい学問」「勉強を続けよう」「魔力は大事」「可能性は無限」といった、当たり障りのない精神論や啓発本のような大雑把な概要ばかりが書き連ねられていた。
アリアが心から期待していた具体的な調合のレシピ、ポーションを作るための薬品の手順、素材の組み合わせ理論、具体的な必要素材の名称、あるいは錬金術における魔力の具体的な使い方などは、最初から最後までただの一行すら説明されていなかったのだ。
「完全に無駄な金を出した……」
あまりの中身の無さに、アリアは頭を抱え、深い精神的ダメージに打ちひしがれた。金貨1枚――一般家庭の数ヶ月分の生活費に相当する大金を、文字通りのゴミに注ぎ込んでしまったという強烈な後悔と羞恥心が激しく押し寄せてくる。
「どうした、アリア。そんなに不機嫌な顔をして」
横で寝そべっていたイグニスが、首をかしげて不思議そうに覗き込んできた。アリアはがっくりと大きく肩を落とし、手にしていた『錬金術入門』という名の紙くずを脇へと投げ捨てた。
「もういい、寝る!」
悔しさと情けなさで胸がいっぱいになったアリアは、掛け布団を頭まですっぽりと被り、完全にふて寝の体勢に入った。
急激なアリアの心境の変化と、その怒りの矛先が本に向かったことを察したイグニスは、待ってましたとばかりに妖しく口元をほころばせた。
「ふっ……お前がその気になったのなら、我は一向に構わんぞ」
嬉しそうに低く微笑むと、イグニスは躊躇なく布団の中に潜り込んできた。そして、背後からアリアの華奢な体を力強く、しかし大切そうにぎゅっと抱きしめる。
無駄な買い物をしてしまったという猛烈な悔しさと恥ずかしさ。そして、背中から伝わってくるイグニスの熱く心地よい体温とドクドクという鼓動。それらに包まれながら、アリアは抗うことも忘れ、そっと静かに瞳を閉じた。




