【第6話】赤い糸、切ったり結んだりしておりません。
金婚式の奇跡から、数日が過ぎた。
私は仕事終わりに、缶ビールを一つだけ買って、あの裏山の寂れた神社へと足を運んでいた。
真っ二つに割れた奇岩の前に立つ。
「……来たわよ、クズ神様。ノルマ、終わったんでしょ?」
ポンッ、と気の抜けた音がして、白い煙と共にアロハシャツの男が現れた。
相変わらずの胡散臭いサングラス姿だが、今日はなぜかポテトチップスを持っていない。その代わり、彼自身の輪郭が、月光を浴びて淡く発光しているように見えた。
『おう人間。……いや、結衣。ご苦労だったな』
「神様らしく労うなんて、明日は雪でも降るんじゃないの?」
私は憎まれ口を叩きながら、バッグから「ハサミ」と「セロハンテープ」を取り出し、縁様に向かって放り投げた。
神具は縁様の手の中で、キラキラと光る砂になって、夜風に溶けて消えていく。
『これで契約完了だ。お前が100組の縁を結び直してくれたおかげで、俺の神力もすっかり元通りってわけだ』
「そ。じゃあ、私の目にかけられたこの呪いも解いてくれるわよね? 毎日他人の小指から出てる毛糸を見せられる身にもなってよ。満員電車とか、マジで地獄だったんだから」
『フン、神の眼をタダで使わせてやったんだ、感謝しろっての』
縁様は呆れたように肩をすくめると、パチン、と指を鳴らした。
その瞬間、私の視界からフッと『色』が抜け落ちたような感覚があった。
目を凝らしても、もう世界には「赤い毛糸」なんて一本も存在しない。ただの、見慣れた、少し退屈な日常の景色に戻っていた。
「……あ、見えなくなっちゃった」
『もう必要ないだろ。お前はもう、テープなんか使わなくても、自分の手と、言葉と、心で……最高の縁を作れるプランナーになったんだからな』
縁様の体が、下から少しずつ光の粒子になって、天へと昇り始めていた。
「ちょっと、消えるの?」
『神力が戻ったからな。俺は上(高天原)に帰って、何百年かぶりの有給休暇を満喫するわ。……寂しくなるな、可愛げのない女。明日から誰にツッコミを入れればいいんだよ』
「こっちのセリフよ。二度と石に引きこもってサボるんじゃないわよ、ニート神」
縁様は最後に、サングラスを少しだけずらして、悪戯っぽく笑った。
その瞳は、神様というよりは、等身大の青年のように優しかった。
『あばよ、結衣。……いい縁(人生)をな』
光が弾け、静寂が訪れる。
境内に残されたのは、綺麗に元通りに修復された大きな岩と、夜風の音だけだった。
私は空になった缶ビールを握りしめ、夜空を見上げて、小さく「ありがとう」と呟いた。
* * *
それから数ヶ月後。
私は相変わらず、ブライダル・アースのチーフプランナーとして忙しい日々を送っていた。
「葛城くん! 先日の式も素晴らしいアンケート結果だったよ! いやあ、君が心を入れ替えてくれて、私の胃もすっかり健康を取り戻した!」
宮本部長が、太田胃散の代わりにプロテインシェイカーを振りながら豪快に笑っている。頭頂部の砂漠化も、心なしか進行が止まったような気がする。
「心を入れ替えたわけじゃありません。ただ、お客様の『バグ』を、二人で一生抱えていけるように調整するコツを掴んだだけです」
私はふっと笑って、資料に目を落とした。
もう、赤い糸は見えない。
でも、目の前のカップルが今どんな状態で、どこがすれ違っているのか、不思議と手に取るように分かるようになっていた。切ったり貼ったりしなくても、私には彼らの想いを聞き出し、寄り添うことができる。
「葛城くん、新規のお客様だ。飛び込みなんだが、どうしても君にお願いしたいと言っていてね」
「私に? 承知しました」
私はバインダーを抱え、ヒールの音を響かせて打ち合わせサロンへと向かった。
指定されたテーブルには、一人の青年が背を向けて座っていた。
アロハシャツではない。パリッとした、仕立ての良さそうなネイビースーツを着こなしている。しかし、その背中のシルエットには、どこか強い既視感があった。
「お待たせいたしました。本日ご案内を担当させていただきます、葛城と申します」
私が声をかけると、青年はゆっくりと振り返った。
サングラスを外した素顔。
生意気そうで、だけどどこか憎めない、あの悪戯っぽい笑顔。
「初めまして。ここで式を挙げたくて、見学に来ました」
心臓が、トクンと大きく跳ねた。
人間として目の前に座っている彼からは、もう神様のようなオーラはない。それでも、私は彼が誰なのか、一瞬で理解した。
「……有給休暇を満喫するんじゃなかったんですか?」
私が呆れたように小声で言うと、青年は悪びれもせずニカッと笑った。
「上(高天原)の連中が堅苦しくてさ。地上でちょっと、人間でもやってみようかと思って。……あ、でも一つだけ問題があってさ」
「問題?」
「相手は、これから探すんだよね」
なんてふざけたオーダーだろう。
結婚相手もいないのに、式場の下見に来るなんて。
数ヶ月前の私なら、「冷やかしか、脳のバグが深刻ですね。お帰りください」と塩を撒いて追い返していただろう。
でも。
私は、これまでで一番素晴らしい、心からの営業スマイルを作って、バインダーを胸に抱え直した。
「かしこまりました。当式場に、すべてお任せください。──必ず、素晴らしい『ご縁』を、ご提案させていただきます」
赤い糸は見えない。
けれど、私の右手の小指が、じんわりと温かくなったのを感じた。
愛なんて、脳内のバグかもしれない。
でも、そのバグを一生愛おしく思いながら、毎日毎日、二人で糸を結び直していく。
それこそがきっと、「奇跡」と呼ぶにふさわしいものなのだ。
私の小指から伸びた見えない糸は、目の前の生意気な青年に向かって、ピンと真っ直ぐに、力強く繋がっている。そんな気がした。




