【第5話】すり切れた赤い糸と、50年目のオムライス
厄病神の襲撃から数ヶ月。
私は、ブライダル・アースの『伝説のプランナー』として名を馳せていた。
見えないハサミとテープを駆使し、時には物理的に(シャドーボクシングで)悪縁を叩き斬りながら、次々とカップルを成約に導く日々。
私のノルマ達成数は、いつの間にか【99組】に達していた。
(あと1組。あと1組で、このブラックすぎる神様代行業から解放される……!)
『おい結衣、油断するなよ。最後の1組は、間違いなく大ボスだ』
(大ボスって何よ。厄病神がまた来るの?)
脳内でアロハ神と軽口を叩き合っていた、その時だった。
「葛城くん。次のお客様なんだが……少し、特殊な案件でね」
宮本部長が、珍しく胃薬を持たずに、神妙な面持ちで私のデスクにやってきた。
案内されたサロンにいたのは、若いカップルではなかった。
車椅子に座る小柄な老紳士と、その後ろで車椅子を押す、白髪の上品な老婦人。
「初めまして。本田正治と、妻の文子と申します。……あの、結婚五十周年の『金婚式』を、こちらで挙げさせていただきたくて」
文子さんが、少し疲れたような、けれど優しい笑顔で頭を下げた。
「金婚式ですね。おめでとうございます! 喜んでお手伝いさせていただきます」
私が営業スマイルで応えながら、ふと二人の小指を見た瞬間。
全身の血の気が、サッと引いた。
(……え?)
正治さんと文子さんを繋ぐ『赤い糸』。
それは、厄病神が弄ったような黒い濁りでも、マザコン男のような異常な結び目でもなかった。
ただ、信じられないほどに【細く、すり切れていた】のだ。
五十年の歳月を共に生きてきた夫婦なら、本来は太く、強固な綱のようになっているはずの糸。それが今、無数の繊維がブチブチと千切れ、風が吹けば今にもプツリと切れてしまいそうなほど、限界まで摩耗していた。
『……結衣』
脳内の縁様が、かつてないほど静かな、そして重い声を出した。
『あれは、寿命の限界じゃない。心が、折れかけている音だ』
(心が折れる?)
『夫の正治は、重度の認知症だ。そして妻の文子は、長年の介護で心身ともに限界を迎えている。あの糸が完全に切れた時……二人が五十年間紡いできた「夫婦としての魂の繋がり」は、完全に消滅する』
私は息を呑んだ。
打ち合わせを進めるうち、縁様の言葉が残酷な現実であることを思い知らされた。
「……あなたは、誰だね? 帰してくれ、妻が家で待ってるんだ」
正治さんが、ふと虚ろな目をして、隣にいる文子さんに向かってそう言ったのだ。
「あなた、私ですよ。文子です」
「嘘をつくな! 私の妻は、もっと若くて綺麗だ! こんなシワだらけの婆さんじゃない!」
正治さんが車椅子の上で暴れる。文子さんは慣れた手つきでそれを宥めながら、私に向けて悲しそうに笑った。
「ごめんなさいね、葛城さん。最近、こういうことが増えてしまって。……主人が私のことを完全に忘れてしまう前に、もう一度だけ、綺麗なドレスを着せてやりたいんです。私の、ただの自己満足なんですけどね」
文子さんの小指の糸が、また一本、プツンと音を立てて千切れた。
愛なんて脳内のバグだ。そう思っていたはずなのに、どうしてこんなにも、胸が締め付けられるのだろう。
* * *
そして迎えた、金婚式の当日。
式場の小さなチャペルには、本田ご夫妻の親族が数名だけ集まっていた。
文子さんは、シンプルながらも美しい純白のドレスに身を包んでいた。シワの刻まれた顔に引かれた薄紅色のリップが、とてもよく似合っている。
車椅子の正治さんも、タキシード姿だ。
しかし、扉が開く直前。
正治さんの様子が急変した。
「ここはどこだ! 知らない人間ばかりじゃないか! 帰る! 家に帰してくれぇっ!!」
パニックを起こした正治さんが、車椅子から立ち上がろうとしてバランスを崩す。親族たちが慌てて駆け寄り、チャペルの前は騒然となった。
「あなた、落ち着いて……っ、今日は私たちの金婚式……!」
「触るなっ!!」
正治さんが、文子さんの手を力強く振り払った。
純白のドレスを着た文子さんが、冷たい大理石の床に力なくへたり込む。
「……あ、あぁ……」
文子さんの目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「もう、限界です……。あの人は、私のことを完全に忘れてしまった……。綺麗なおべべを着たって、虚しいだけですわ……っ!」
その瞬間。
文子さんの小指から伸びていた赤い糸が、ついに残り一筋の繊維だけを残し、悲鳴を上げた。
プツン、と切れる寸前。
私は無意識に、右手のポケットに手を入れていた。
そこには、神具のハサミがある。
(私が……このハサミで残りの糸を切ってあげれば。文子さんは、夫を愛していたという苦しい記憶から解放される。ただの「介護人」として、感情を殺して生きていける……!)
文子さんを苦しみから救うため。私はハサミを握りしめ、二人の間へと踏み出そうとした。
『結衣!!』
脳内で、縁様の声が雷のように響いた。
『神具を使うな。お前は神じゃない。……ただの、ウェディングプランナーだろうが!!』
ハッとして、足が止まった。
そうだ。私は神様じゃない。愛を引き裂く厄病神でもない。
二人が望んだ「最高の式」を作るための、プランナーだ。
私はハサミから手を離し、脱兎のごとく走り出した。
「部長! 五分だけ、五分だけ時間を稼いでください!」
「えっ!? 葛城くん!? どこへ行くんだ!」
私はヒールを脱ぎ捨て、式場の裏にある厨房へと全速力で駆け込んだ。
「シェフ! 今すぐ、オムライスを作ってください! 少し焦げ目をつけて、ケチャップで不格好なハートを描いて!」
打ち合わせの時、私は文子さんから預かった『正治さんの古い手帳』を隅から隅まで読み込んでいた。
そこには、五十年前、二人が初めてデートした小さな純喫茶のことが書かれていたのだ。
『文子と初めての食事。少し焦げたオムライス。鼻の頭にケチャップをつけた彼女が笑う顔を見て、絶対にこの人を幸せにしようと決めた』と。
「頼む……間に合って……!」
三分後。
私は湯気を立てる皿を両手で持ち、チャペルの前の控室へと飛び込んだ。
そこには、ドレス姿でうつむく文子さんと、怯えたように壁際にうずくまる正治さんがいた。
「正治さんっ!」
私は息を切らしながら、二人の間の小さなテーブルに、その皿を置いた。
「……なんだ、これは」
「オムライスです。ケチャップでハートが描いてあります。五十年前、文子さんがこれを見て笑ってくれたって、あなたの手帳に書いてありました」
正治さんが、ビクッと肩を震わせた。
彼は、震える手をゆっくりと伸ばし、スプーンを握った。そして、少し焦げたオムライスをすくい、口へと運ぶ。
じっとそれを見つめる文子さん。
一口。二口。
モグモグと動いていた正治さんの顎が、ピタリと止まった。
焦点の合っていなかった濁った瞳に、すーっと、湖の底から太陽の光が射し込むように、確かな『知性』と『記憶』の光が宿った。
「……文子」
掠れた、しかしはっきりとした声だった。
正治さんのシワだらけの手が、ゆっくりと伸び、文子さんの頬に触れた。
「お前、また泣いてるのか。……鼻の頭、赤くなってるぞ。昔、ケチャップをつけた時と同じだ」
文子さんが、ハッと息を呑んだ。
「正治さん……っ。あなた、私が、私がどなたかお分かりになるの……?」
「忘れるわけないだろう。俺の、世界一可愛いお嫁さんだ」
正治さんが、不器用に微笑んだ。
文子さんは子供のように声を上げて泣き崩れ、正治さんの胸に飛び込んだ。正治さんもまた、その細い背中を、愛おしそうに強く抱きしめた。
その時だった。
私の「神の眼」が、信じられない光景を捉えた。
千切れる寸前だった二人の赤い糸。
それに、私は神具のテープを貼っていない。
それなのに、二人が抱き合い、体温を重ね合わせた瞬間。
ボロボロだった繊維の一本一本が、まるで熟練の職人が機織り機で布を織り直すように、スルスルと絡み合い、優しく温かい光を放ちながら、新しい、一本の『太い糸』へと生まれ変わっていったのだ。
それは、神様の奇跡なんかじゃない。
二人が共に笑い、共に泣き、共に乗り越えてきた【五十年】という途方もない時間が、彼ら自身の力で、途切れかけた縁を繋ぎ止めた瞬間だった。
『……見たか、結衣』
脳内で、縁様が優しく笑う気配がした。
『愛はバグなんかじゃない。人が毎日、毎日、自分の手で少しずつ結び直していくものなんだ』
「……うん」
私は両手で顔を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
他人の結婚式で泣くなんて、鉄のプランナーと呼ばれた私にとっては、一生の不覚だ。でも、涙は一向に止まってくれなかった。
五十年前の想い出の味が、奇跡を起こした十分間。
正治さんの記憶の明瞭な時間は長くは続かなかったが、その後のチャペルでの二人の笑顔は、私がこれまで見てきたどの新郎新婦よりも、輝いて、美しかった。
──ピロリン♪
チャペルの鐘の音に重なるように、私の脳内で軽快なファンファーレが鳴り響いた。
『祝! 縁結びノルマ100組達成!!』
ついに、長かった私と神様の『ブラック代行業』が、終わりを迎える時が来たのだ。




