「“君なら耐えられる”と言われ続けたので、私は婚約者を見限りました」
重苦しい沈黙が、夕暮れのカフェの片隅を支配していた。窓の外では激しい雨がアスファルトを叩きつけ、むっとする土の匂いが湿った空気と共に店内に流れ込んでくる。目の前で冷めきったコーヒーをかき混ぜているのは、私の婚約者だ。
「本当に君には感謝しているんだ。母さんも、君のように我慢強い嫁なら安心だって喜んでいたよ」
彼は満足げに笑い、テーブルの上の分厚い契約書に目をやった。実家の会社を手伝う同意書だという。私の目が泳ぐのを、彼はいつものように「照れている」と解釈したのだろう。
「君なら耐えられる。今までも大変な仕事を文句一つ言わずにこなしてきたんだから」
その言葉が、耳の奥で嫌な金属音のように響いた。
彼は知らない。私が文字を読むことに人一倍時間がかかる識字障害であることを。彼がスマホを操る隣で、私はいつも、歪んで躍る文字の群れと必死に格闘していた。スマホを持たないのも、あの小さな画面に並ぶ文字が恐怖だったからだ。
「……ねえ。私はそんなに強い人間じゃないわ」
絞り出した声は、激しい雨音にかき消されそうだった。胸の奥が冷たく冷えていく。彼は私を愛しているのではない。都合よく耐えて、自分の家族に尽くす存在を求めているだけだ。メニュー選びに時間がかかる私を「優柔不断だね」と笑うだけで、私の瞳の奥の怯えに気づこうともしなかった。
「何を弱気なことを。君なら大丈夫さ。じゃあ、そこにサインを頼むよ」
彼は万年筆を差し出した。紙の上の黒いシミのような活字が、私を嘲笑うように歪んで見える。視界がぼやけ、心臓が早鐘を打った。手のひらに嫌な汗がじっとりとにじむ。
「……嫌よ」
「え?」
「もうあなたとはいられない。この婚約はなかったことにしてください」
私は万年筆を奪い取り、テーブルに叩きつけた。カツンと高い音が響く。彼は呆然と私を凝視している。
「何を言っているんだ? 君なら耐えられるって、ずっと……」
「その言葉に、もううんざりなの」
私は立ち上がり、バッグを肩にかけた。不思議と、文字を見ている時のような目眩は消え去っていた。
「私はあなたの都合の良い人形じゃないわ」
店を飛び出すと、冷たい雨が容赦なく肌を刺した。傘も差さずに走り出す。肌を叩く雨の冷たさも、泥の匂いも、全てが今の私には心地よかった。もう無理をして耐え忍ぶ必要はない。私を呼ぶ彼の声は、雨音の中へと完全に掻き消されていった。




