悪魔召喚
「おまえはどこもかしこも旨そうだなぁ」
青白い指が私の首をきつく絞めて、ギョロリとした黒い目玉が琥珀色の瞳を覗き込む。
男は陶酔したようにうっとりとした笑みを浮かべ、呼吸もままならない私に優しく語りかけている。しかし、彼の寄越すとろけるような眼差しは、虎視眈々と私の肉体だけに向けられている。
私は被食者だった。
「なぁ、あんたは一体、オレにどこを食べさせてくれるんだ?」
血色の悪い唇の間から、肉食獣を彷彿とさせる鋭い牙が覗く。そして、男はまるでご馳走を前にした獣のように、涎を垂らして舌舐めずりをした。
黒い爪の生えた指先が私の拍動する胸元に触れる。肌に爪が突き立てられ、肉を抉るように引っ掻かれた。
痛みに顔を歪ませると、それを見た男の瞳孔が開いた。男は食い入るように顔を近づけ、興奮した強い語調で「なぁ」と私に呼びかける。
「この薄皮から滲む鮮やかな血か?」
「この姿を形作る柔らかな赤身か?」
「その涙が溢れる瑞々しい目玉か?」
「それとも、この旨そうな器の中身をくれるのか?」
「嗚呼……でもなぁ、どれも素晴らしいご馳走だが、オレはあんたが一番失いたくない物が欲しいんだ」
「なぁ、あんたの大切な物を教えてくれよ」
矢継ぎ早に並べられた言葉に、底知れない恐怖を覚える。この男は人間ではないのだ。
ぼやけた視界の隅には石畳の床に動物の血で魔法陣が描かれており、赤い火を灯した蝋燭に囲われている。
薄暗い地下の密室は私が選んだ場所で、彼は紛れも無く私が呼び出した『悪魔』だ。
誰に強要されたわけでもなく、私自身が決めて作り出した状況。それでも今更ながらに怖気付いている。
私は選択肢を間違えてしまったのかも知れない。
当事者であるにも関わらず、この異様な光景をどこか冷静に眺めながらそんな事を考えていた。
せめてもの抵抗で目一杯睨みつけるけれど、男はケタケタと壊れた人形のように嗤うだけだ。
「苦しいか?ごめんな。女の悲鳴は煩わしくてキライなんだ。だってほら、頭が痛くなるだろう?」
私の首を絞めながら困ったように言う男。動機は単純だけれど、正気の沙汰じゃない。
悪魔は私の耳元で優しく言い聞かせる。
「これからあんたの望みを聴いてあげるけれど、オレのキライな声を出したら、その喉を裂いてしまうかもしれない。オレ、そんなことしたくないから……静かにね?」
少しずつ私の首を絞めていた手の力が緩められる。途端に肺が空気を欲して息を吸う。呼吸のリズムは酷く乱れていた。
「だいじょーぶ。オレはあんたの為なら何でもできちゃう。きっと、叶えてあげられるから。ねぇ、あんたはオレに何をして欲しい?」
吊り上がった口角で熱烈な言葉を吐き、ちっとも笑っていない目で男が詰め寄る。
「さあ———言って」
狂った男に促され、私は呼吸を整えながら視線を上に動かした。
男の仄暗い瞳を見返して、意を決して薄く唇を開き、まだ幼い声で力強く音を発した。
「『ブライデン・イントル』」
一瞬で空気が凍りつく。途端に男の作られた表情が消え失せ、大きな右手が鷲掴むように私の顔面に迫った。
こうなる事は予想していた。だから、次に何をしたら良いのかは知っている。
「止めて!!」
私が悲鳴のような言葉を発すると、寸前のところで男の動きが停止した。視界を覆う手を眼前に控えて体を固くする。
少しでも声を発するのが遅くなっていれば、私は確実に殺されていただろう。この男にとって私はそれ程のことを言ったのだから。
「何故だ……何故その名を知っている!!」
牙をむき出しにして声を荒げる。先程までの強者の余裕はもう何処にも無い。
私はよろよろと足元をふらつかせながら立ち上がり、一歩ずつ後退して男から距離を取った。
震える自分を心の中で叱責し、虚勢を張りながら努めて冷静に話を続ける。
「私の望み、聞いてくれるんでしょう」
この為に私は危険な橋を渡って、悪魔なんかを呼んだ。他に方法は無いと、苦渋の決断をした。
何度も何度も『私は間違っていない』のだと言い聞かせてきた。
訝しげな視線を感じながら、自身の強い願いを目の前の悪魔に明かす。
「私を元の世界に帰して」
ブライデン・イントル。
と、再びその名を口にすると、悪魔は苦々しい顔をした。