最終話
目に強烈な光を感じ、綾子はまぶたを開いた。
さわやかな朝の青空が顔を出していた。
ゆっくりと起き上がると、綾子に絡み付いていた蔦も花畑も消えていた。
村木の姿も、香苗の姿もそこにはなかった。
ベンチに近づくと、2枚の写真が置かれていた。
1枚は汚れてしまった村木の写真、そしてもう1枚は香苗の写真。
綾子は写真をコートのポケットにしまうと、その場を後にした。
タクシーに乗ると綾子はうろ覚えの住所を告げた。
正確に覚えていたわけではなかったので、途中でタクシーを降り、住宅街を高いマンションを目印に探した。
昼間見るマンションには洗濯物や布団が干され、どこからか子供の声も聞こえてくる。前に来た時は冷たい感じのするマンションだったが、いまは温かい何かを感じた。
鞄から封筒を取り出すと、綾子はマンションの中に入った。
記憶を辿りながらついた玄関の前には一人の女性が立っていた。
薄いピンクのカーディガンに、シフォンのスカート。栗色の髪を左側でゆったりと結び、小さな花の付いたピンをさしていた。
その女性を知っていた。
綾子の視線に気付くと小さく会釈してきた。
慌てて会釈する。
「もしかして、香苗さんですか?」
女性は真っ直ぐな眼差しで、綾子にそう聞いてきた。
違います。と答えると、再び会釈し、綾子の隣を通り過ぎようとした。
爽やかなコロンの香り。
「あの、あなた、亜季さんですよね?」
女性は少し戸惑ったように頷いた。
少し話をしてもいいか尋ねると、少し考えてから亜季は「はい」と答えてくれた。
マンションを出て、住宅街を少し歩いた所に小さな喫茶店があった。
客の居ない奥の席に座ると、コーヒーを2つ注文した。
「ごめんなさい。突然、驚きましたよね」
首を横に振る亜季はそのまま黙ってしまった。
コーヒーが車での数分間、ただ沈黙が流れた。
お待たせしました。という店員の登場で、その場の空気が少しだけ軽くなる。
「あの、村木さんのお知り合いなんですか?」
そう切り出したのは亜季の方だった。
綾子は少し考えたが、説明する事が出来ないので知り合いという事にしておいた。
「村木さん、会社を突然休職して。携帯も繋がらないし、自宅にかけても誰も出ないんです」
亜季は何も知らない様子だった。
何度か口を開きかけたが声を掛けることが出来なかった。
そして、亜季の胸に目をやると、美しい大輪の花が凛と咲き誇っていた。村木の胸に咲いていたものと同じ形をしたそれは、とても美しかった。
その姿は村木への想いの深さを知ることが出来た。
しかしその瑞々しい姿とは裏腹に、その花びらがひらりひらりと落ちていた。落ちた花びらは亜季の膝の上にふわりと乗ると、小さく溶けて消えた。
その花は枯れる訳でもなく、根が腐るわけでもなく。美しい姿のまま、散っていた。
憂い、嫉妬、寂しさ。
彼女の中に眠る淡い期待が、花びらを落とすごとに薄れていく音がした。
まるで何かの儀式のように、神聖ななにかのように、彼女は長い時間をかけて忘れていくのだろう。愛した男との未来は来ない事をかみ締めながら。
俯いている亜季は少し笑っているようだった。
だが亜季の胸の痛みを知っている綾子には、悲しげに涙を流している顔に見えた。
亜季はもう何かを綾子に質問する事はなかった。
そろそろ行きましょうか。と亜季が声を掛け、席を立った。
喫茶店の前で亜季は小さく綾子に会釈した。
透き通った秋晴れの中、亜季は一度も振り返らなかった。後姿が小さくなり、そして見えなくなっても綾子は見送り続けた。
彼女がここに来る事はもう二度とないのだろう。
舞い散る花の音だけが耳に残っているような気がした。
*
「すまない」
頭を下げる彼を綾子はぼんやりと見つめた。
自分の胸にも、彼の胸にも、もうずっと前から花は咲いていなかったと思う。気持ちがないのに一緒に居たのは惰性だったのかもしれない。
彼の胸を見ると、小さな種が芽吹こうとしていた。
自分の知らない所で知らない人に恋をしようとしている彼に、何の感情も抱く事が出来なかった。
愛していた。
何度も唇を重ね、体を重ねた。側に居るだけで心が温かくなり、笑みがこぼれた。
誰にも渡したくない。
ずっと一緒に居たい。
そう思ったのは嘘じゃない。
確かにその瞬間はあったはずなのに。
綾子は自分の手に目をやった。手のひらには一対のちいさな種が綾子の手のひらをコロコロ転がっていた。
あの日、あの高台で目覚めた時、この種を握り締めていた。
何の種なのか分からない。
恋の種か、希望の種か。
それとも憎悪の種かもしれない。
未知の種。
綾子は一粒を左手に乗せると、空っぽの自分の胸に押し当てた。
目をつぶり深呼吸する。
胸からゆっくりと左手を離すと、綾子は同じようにゆっくりと目を開けた。
左手に置かれた種は消えていた。
俯く彼に顔を上げてもらうと、綾子は右手を彼の胸に添えた。
突然の行動に少しだけ戸惑ったが、彼は黙って綾子を見つめていた。
右手を伝わって彼の胸の鼓動が綾子に伝わってきた。
ゆっくりと手を離すと、綾子は席を立った。
種はすべてが芽吹くとは限らない。
しかし、もし芽吹いたら。
それが何の種だったか分かるのは、もう少し先の事になりそうだった。
ここまで、お読みくださり、ありがとうございます。




