1-4 ブルーノ
「俺でよかったら、何か力になれることがあればいいんだが…」
エマは、信じられないような言葉を耳にして、ハルを見つめ、ハルもエマを見つめ返した。
「あ、あ、ありがとう。ハルさん、そんな言葉をかけてくれるだけで嬉しいわ。でもハルさんが、私のシチューを食べにきてくれるだけで十分よ。」
「そ、そうか。出過ぎた申し出をしてすまなかった。では、せめてほんとに植物園に来ないか?」
「ええ、行けたらいいなと思います。ありがとう。」
ハルは、エマの境遇を不思議に思っていた。エマは、この辺の者と話すときは粗野な言葉を使うが、ハルと接する時は、貴族しか知らない話し方や所作をすることがあったのだ。
(エマは、貴族令嬢だったのじゃないだろうか?どうしたらこういう状況になるんだ?いや、まあ、俺も同じようなものだが…)
◇
そのとき、店の扉が開いた。
‘カラン、コローン’
ハルは、エマの顔が一瞬にしてこわばるのを見て取った。
「ブルーノ…」
エマのつぶやきにハルが振り返ると、上等な上着を着崩した遊び人風の男が立っていた。顔立ちは良いが、ややつり目でどこか信用がおけない感じだ。安っぽいポマードの匂いが鼻をつく。
「ブルーノ、まだお客さんなの。」
「ふーん、エマ早く来いよ。」
「う、うん」
男は、挨拶もせず目を細めてハルを一瞥すると、カウンター横の階段をダンダンと荒い音をたてて上がっていった。
「誰?」
「工場長の息子さんよ。ごめんなさい、そろそろ帰って頂いても…」
エマが気まずそうに言った。
「エマ、大丈夫?」
ハルには、エマが男を歓迎しているようには見えず、思わずエマの手をとった。
エマは驚いてハルを見上げたが、はっと気がついたようにハルの手を振り払って横を向いた。
「いつものことだから。私はこういう女なの。」
「エマ?」
ハルは、急に雑に言い放ったエマに違和感をもった。だが、それ以上追求する立場にもないと思い返し、いつものように銀貨を置くときびすを返した。
「わかった!ごちそうさま」
「あ、ありがとうございました。」
エマは、去って行くハルの背中に深々と頭をさげた。ハルが気分を害したような気がして無償に悲しかった。エマは、客でしかないハルに何か希望を持ってはいけないと思い直した。
◇
エマには、ブルーノがハルに激しく嫉妬しているのがわかった。ブルーノは怒りをぶつけるようにエマを乱暴に抱いたあげく、今はだらしなく寝ている。
エマは、ロイが死んだと知らされたとき自分も死にたいと思った。そんなエマに優しく言い寄ったのがこの男だ。今思えば、エマは世間知らずだったのだ。
ロイのために店を開いていたいと言えば、ブルーノは工場長に掛け合って残業を免除してくれた。ロイがいないのなら出て行けと大家に言われたが、それを取りなしてくれたのもブルーノだ。
エマは男の下心などわかっていなかった。突然ブルーノに押し倒された時、ようやく理解し諦めたのだ。ブルーノがいなければ生活が成り立たないのだから。
ブルーノはエマを抱くたび「結婚しよう」と囁くが、取引先のお嬢様と婚約したのを知っている。ブルーノは結婚してもエマをしばりつけて囲うつもりだろう。自分ではどうにもできない蟻地獄のような生活だった。
夜が白々と明けてきた。心の痛みとけだるさで、ぼんやりと天井を見つめていたエマは、ブルーノの腕を押しのけて窓際に腰掛け、そうっと窓をあけた。春とはいえ朝はまだ寒い。エマはカーディガンを引っかけるとまた同じ窓際に腰掛けた。
緑地の芝生は、日に日に緑を濃くしていく。エルベ川の流れは静かだ。川向こうには整備された樹木が並び、さらにその向こうに広大な自然公園があって誰でも行くことができた。
ロイと、子供ができたら三人でお弁当を持って遊びに行こうとよく話したものだ。自然公園はすぐそばなのに、ロイは一度も行くことなく死んでしまった。
(ロイ、ほんとに死んでしまったの…)
エマがふと緑地沿いの道路に目をやると遠くから自転車がやってくる。この頃、まだ自転車は高価で誰でも乗れるものではなかった。
(えっ、ハルさん?)
エマは慌てて乱れた髪を手ぐしで整え、カーディガンの前を合わせてかき抱いた。
(きれいな人…)
白銀の髪をなびかせながら近づいてくるハルを見つめながら、エマは思った。姿形が美しいだけではない。ハルは美しい世界で美しいものだけを見て育ったように思えた。それなのに、自分は好きでもない男に抱かれて生活をしている。なんて薄汚れてみっともないのだろう。
(ハルさんなんか…、ハルさんとなんか…)
ハルは、『ロイの店』の少し前でエマの姿を見つけたようだった。驚いた顔をして、それから真顔になりエマのいる窓の下で停まった。ハルは真顔のまま手を振り、ほんの少し笑ってみせた。寂しげな笑いだ。
(ハルさん…)
エマは胸の前で、ブルーノに見つからないように小さく手をあげた。
「何だ!朝っぱらから窓を開けたりして、寒いじゃねえか!」
ブルーノは面倒そうにそう言うと寝返りをしてエマに背を向けた。
「うん…」
エマは身を乗り出してハルの背中を追った。やがてハルは、橋にさしかかって振り返るともう一度手を振った。エマはすばやく手を振って、小さくなっていくハルの背中を見送り続けた。




