悪役令嬢、私で四十三人目だそうです 〜断罪の「その後」だけを引き受ける、国境の館へようこそ〜
「セラフィナ・オルグレン。聖女を大階段から突き落とした罪により、国外追放を命ずる」
婚約者だった王太子殿下のその声を、私はこの数日で百回は思い出した。
婚約破棄の宣言は、その一つ前にあった。悪役令嬢の断罪には、決まった順番があるらしい。
百回思い出しても、腹の足しにはならない。追放とはそういうものらしい。
国境の検問を出て、三日目の昼。
私は街道の枯れ草に座り込み、自分の靴が煮て食べられないかを、かなり真剣に考えていた。革靴は煮れば柔らかくなると、何かの本で読んだ気がする。あの本はたしか、遭難記だった。
つまり私は、遭難している。
パンは昨日の朝で尽きた。水は農家の井戸で分けてもらった。物語は、悪役令嬢が追放されたあとの食事について、何も教えてくれなかった。
車輪の音がしたのは、そのときだった。
一台の幌付き荷馬車が、私の前でゆっくり停まった。御者台から、毛織の肩掛けを羽織ったおばさんが降りてくる。
歳は四十をいくつか過ぎたくらい。パン屋の女将さんのような、丸い顔だった。
おばさんは私の前に膝をつき、深々と頭を下げた。
「お迎えに上がりました、セラフィナ様」
「……お迎え」
「ええ。追放された方は、だいたいこの街道へ流れ着きますので」
おばさんは私の顔色を確かめ、それから、ほっと息を吐いた。
「ああ、よかった。今回は、間に合いました」
今回は。
その言い方が少しだけ引っかかった。けれど、続けて差し出された水筒と、布に包まれた丸パンの前で、疑問は音を立てて崩れた。
悪役令嬢の末路に、お迎えの予定はなかったはずだ。
私はパンを受け取り、けれどかじる前に、一応尋ねた。
「あなたは、どなたですか」
「マルタと申します。丘の上で、館をやっております」
マルタさんはにこりと笑った。
「ようこそ、国境へ。……まずは、食べてしまいなさいな。お話は、その後で」
◇◇◇
荷馬車に揺られて丘を登ると、石造りの大きな館が見えた。
畑があり、鶏が歩き、洗濯物が風に膨らんでいる。玄関の脇に、古い木札が掛かっていた。
『追放された悪役令嬢の皆さま、まずは温かい三食と寝床から』
二度読んだ。三度読んだ。
「……ここは、何の館ですか」
「読んだとおりの館ですよ。名前は、ひばり館。朝いちばんに鳴く鳥から取りました」
マルタさんは扉を開けながら、こともなげに言った。
「断罪には、立派な台本があるでしょう。大広間、証人、婚約破棄の宣言。ところが『その後』には、何にもない。ですから、その後だけを引き受けております」
広間の食堂で、私は帳面へ名前を書くよう言われた。革表紙の、分厚い台帳だった。
セラフィナ・オルグレン、と書きかけて、指が止まる。
家名を書いていいのだろうか。私はもう、あの家の娘なのだろうか。
「お好きなように。家名は、書いても書かなくてもいいんです」
マルタさんは横からそう言って、備考の欄に短く書き足した。
『迎え、間に合う』
変わった記録をつけるものだと、そのときは思っただけだった。
私は少し迷い、「セラフィナ」とだけ書いた。第四十三号、と番号が振られた。
「規則は三つです」
マルタさんは指を折った。
「一つ、三度の食事をとること。二つ、夜は眠ること。三つ、人を傷つけないこと。……以上です。多すぎると、覚えられませんから」
「それだけ、ですか」
「それだけです。ああ、それと、これは規則ではなくてお願いですけれど」
マルタさんは、台帳を閉じて言った。
「ここでは、役は降りていいんですよ」
意味は、よく分からなかった。
その晩、私は湯気の立つ豆のスープを出された。塩気が、舌に染みた。
二口目で、視界が滲んだ。理由は自分でも分からなかった。マルタさんは何も訊かず、パンを一つ、私の皿の横に足した。
「新入り?」
向かいの席に、そばかすの娘が座った。歳は私と同じくらい。袖をまくった腕が、粉で白い。
「あたしはリタ。二年前の悪役男爵令嬢。今は麓のパン屋で働いてる。……あんた、何年目の悪役?」
「……まだ、一週間も経っていません」
「初々しいわねえ」
リタさんはしみじみと言って、私の皿へ自分のパンを半分割って寄越した。
食堂には、他にも何人かいた。
窓際で薬草を束ねている物静かな人は、毒殺未遂の罪で追放された伯爵令嬢だという。冤罪と分かった今も薬草係を続けていて、館の常備薬は彼女の棚から出てくる。皮肉が効きすぎている気がするが、本人は気に入っているらしい。
誰も、家名で呼ばれていなかった。名前だけが、湯気の上を行き交っていた。
部屋は二階の東側だった。扉に小さな木の札が掛かり、「セラフィナ」と私の名前だけが書いてあった。
家名のない自分の名前を、私はしばらく眺めていた。
寝台は固くて、清潔だった。私は規則の二つ目に従って、泥のように眠った。
◇◇◇
翌朝は、鳥の声で目が覚めた。
窓の外はまだ薄青い。屋根の上で、小さな鳥がせわしなく鳴いている。
「ひばりよ。この丘の朝は、いつもあの子たちが最初」
廊下で会ったリタさんが教えてくれた。館の名前は、看板ではなく目覚ましだった。
ひばり館へ来て三日目の朝、私は「聞き取り」に呼ばれた。
マルタさんの小さな執務室。机を挟んで座ると、罪人の尋問のようで、少しだけ背筋が伸びた。
ところが、机に置かれたのは、まっさらな白い紙だった。
「罪状の記録なら、王国が立派なものを作っています。ここで作るのは、あなたの記録です」
マルタさんはペンを取り、紙に線を引いた。縦に二本。欄が三つできた。
「やったこと。やっていないこと。やらされたこと。……この三つに、分けていきます」
「分ける……?」
「ええ。ゆっくりでいいですよ。まずは、罪状とされたものから」
私は膝の上で手を組んだ。追放の日から百回思い出した声を、百一回目に思い出す。
「聖女様を、大階段から突き落とした罪。……これは、やっていません。私はあの場にいましたが、聖女様は御自分で足を滑らせました」
「はい。『やっていないこと』へ」
マルタさんは疑いもせず、驚きもせず、ただ書いた。それが、かえって私の口を軽くした。
「ただ……その前の月に、聖女様の祈祷書を、庭の池に落としました。これは、わざとです」
言ってしまってから、心臓が縮んだ。誰にも言ったことがなかった。断罪の場でさえ、この件は誰も知らなかった。
「殿下が、聖女様の書き写した祈祷書ばかり褒めるのが、悔しくて。……子供じみた、意地悪でした」
「はい。『やったこと』へ」
ペンは同じ速さで動いた。
「それから、聖女様の身辺を見張って、父へ報告していました。誰と会ったか、何を話したか。……父に命じられて、二年間」
マルタさんのペンが、三つ目の欄の上で止まった。
「断りたいと、思ったことは」
「……分かりません。家のためだと言われれば、そういうものだと」
マルタさんは少しだけ考えて、それから言った。
「これは、二つの欄に書きます」
「二つに……?」
「見張ったのは、あなたの目と手です。命じて、断る余地を奪ったのは、お父上です。したことと、させられたことは、同時にあるんですよ」
「では……どこまでが、私の罪なのでしょう」
「それを考えるために、分けるんです。何もかもあなた一人の罪にしないために。何もかも、他人の罪にもしないために」
書き終えて、マルタさんは紙をくるりと回し、私へ向けた。
三つの欄に、私が仕分けられていた。
「まっ白な子も、まっ黒な子も、めったに来ませんから」
マルタさんは静かに言った。
「分けないと、背負えません。分けないと、降ろせません。全部まとめて『悪役令嬢の罪』にしてしまうのが、いちばんいけない」
「……私は、悪役令嬢です。国中が、そう呼びました」
「それは役名ですよ」
マルタさんは、初めて少しだけ、声を低くした。
「罪は、行いにつけるものです。役につけるものじゃありません。祈祷書の一冊分は、あなたが背負う。階段の分は、まず、あなたが『やっていない』と話したこととして書いておきます。見張りの二年分は――あなたと、命じたお父上とで、分け合うものです」
白い紙の上で、私の十九年が、初めて正しい場所に置かれた気がした。
「この紙は、あなたのものです。王国の記録と違って、あなた自身の手で、書き足しも書き直しもできます」
マルタさんは紙を畳んで、私へ差し出した。
「背負う分だけ、背負いなさいな。残りは置いていく。……それが、ここの仕事の全部です」
その夜、私は寝台の上で、三つの欄を何度も読み返した。
やったことの欄は、思っていたより短かった。けれど、白紙でもなかった。
祈祷書が一冊。それから、見張りの二年間の、私の手が動いた分。
国を追われるほどの悪役は、紙の上のどこにもいなかった。それでも、謝るべきことは残っていた。それが妙に悔しくて、同じくらい安心で、少しだけ泣いて、それから眠った。
◇◇◇
ひばり館の暮らしは、拍子抜けするほど普通だった。
朝は鶏に餌をやり、昼は畑と洗濯、夜は繕い物。私より前に台帳へ名前を書いた人は四十二人。いま館で暮らしているのは、マルタさんを含めて七人だという。
「多くない? って顔ね」
リタさんが笑った。
「多いのよ。あの国、断罪が流行りすぎ。社交界の演目か何かだと思ってるんだわ」
厨房では、年上の女性が黙々と芋を剥いていた。かつて「傾国の側妃」と呼ばれた人だと、後で聞いた。傾国の手つきで剥かれた芋は、皮が紙のように薄かった。
私に割り当てられた仕事は、帳簿付けだった。字が綺麗だから、という理由だった。
侯爵家で仕込まれた教養の中で、役に立ったのは結局、字の稽古だけだった。あの家庭教師に教えてあげたい。
帳簿は正直な仕事だった。
小麦が何袋、蝋燭が何本、鶏卵がいくつ。書いた数字の分だけ、館の冬が暖かくなる。舞踏会の一晩より、蝋燭の一本の方が、書き留める価値があるとは知らなかった。
帳簿の次は、麓の村の代書を頼まれた。息子へ手紙を出したいという門番のおじいさんの口述を、便箋二枚に整えた。
翌日、館の台所に、林檎が三つ届いていた。
「セラフィナさん宛てですよ」
マルタさんが言った。仕事の対価に自分の名前がつくのは、生まれて初めてだった。
二件目の代書は、村の若い奥さんだった。出稼ぎに出た旦那さんへの手紙だという。
「その……好きだとか、そういうことは、書いていいものでしょうか。変でしょうか」
「書いていいと思います。手紙は、そのためにあるものですから」
私は澄まして答えながら、内心で冷や汗をかいていた。婚約者に好きと書いたことなど、一度もない。書く理由が、あの婚約のどこにもなかったからだ。
奥さんの「好き」を一行書き取って、私は自分の白い紙のことを考えた。あの三つの欄の外に、いつか書き足すものがあるとすれば、たぶんこういう行なのだろう。
リタさんのパン屋にも、時々使いに出た。
「男爵令嬢さんの、お友達の……侯爵令嬢さん?」
竈の前の職人カイさんが、覚えたての口上のように言った。
「違うわよ。セラよ、セ・ラ」
リタさんが訂正した。カイさんは頷いて、焼き網から一つ取った。
「セラさん。……はい、焼きたて」
余り物だから、と言い張る丸パンは、どう数えても毎回一つ多かった。
夜、寝る前に、リタさんが私の部屋で爪を切りながら言った。
「役は降りていい、って言われてもさ。最初は降り方が分かんないのよね」
「……分かります」
「あたしなんて三か月、癖でオホホ笑いが出てたもの。パン屋でオホホよ? 親方が粉まみれのまま固まってたわ」
私は吹き出した。追放されてから、初めて声を出して笑った。
笑ってから、気づいた。ここへ来てまだ半月なのに、百回思い出したあの声を、今日は一度も思い出していなかった。
◇◇◇
父から手紙が届いたのは、ひと月が過ぎた頃だった。
王都で政変があった。王太子殿下の派閥が失脚し、聖女様の周辺の証言に、虚偽の疑いが出ているという。
『階段の一件は、近く冤罪と訂正される見込みである。復権の目が出た。即刻戻れ。東部辺境伯との縁談を進める。今度の役は前より大きいぞ』
便箋一枚。私の体を案じる言葉は、一行もなかった。
今度の役は。
父は悪気なく、そう書いていた。
「戻るの?」
リタさんの声が尖った。
「冤罪が晴れるのは、いいことよ。でも、それとこれとは」
「……分かっています」
分かっていた。それでも、便箋を持つ手は震えた。
名誉が戻る。家名が戻る。母のお墓は、王都の教会にある。もう二度と参れないと思っていた。
母は、私が七つの頃に亡くなった。
覚えているのは、庭で髪を編んでくれた手のことだ。あのときだけ、母は「侯爵家の娘らしく」と言わなかった。編み上がるまでの短い時間だけ、私はただの娘だった。
あの庭も、あのお墓も、戻れば手が届く。
それに――怖かったのだ。
私は十九年、侯爵令嬢しかやったことがない。役を降りた私が何者なのか、まだ答えを持っていなかった。帳簿と林檎と焼きたてのパンは、答えの入り口にすぎない。
その入り口で立ち止まる私に、父の手紙は、よく知った道を示していた。戻ればいい。役は用意してある。何者かなんて、考えなくていい。
「考えなくていい」が、あの家の言葉でいちばん恐ろしいのだと、私はもう知ってしまっていたけれど。
その晩、私は眠れなかった。規則の二つ目を、初めて破った。
◇◇◇
眠れないまま、私は階下の帳簿部屋へ下りた。仕事をしていれば、気が紛れると思った。
古い台帳の綴じ直しを頼まれていたことを思い出し、革表紙の一冊目を開く。
最初の頁で、手が止まった。
『第一号 マルタ』
家名の欄には、横に一本、線が引いてあるだけだった。
入所の日付は、二十六年前。
そして備考の欄に、あの見慣れた筆跡で、短くこう書いてあった。
『迎え、なし』
頁をめくる。第二号、迎えあり。第三号、迎えあり。第四号――間に合う。どの頁にも、同じ項目が几帳面に記されていた。
私の頁の『迎え、間に合う』が、まったく別の意味で立ち上がってきた。
「夜更かしは、規則違反ですよ」
振り向くと、燭台を持ったマルタさんが立っていた。私の手元の頁を見て、少しだけ眉を下げる。
「……ああ。見つかってしまいましたね」
「マルタさん。これは」
「読んだとおりですよ」
マルタさんは向かいに腰を下ろした。燭台の火が、丸い顔に影を作った。
「二十六年前、私も断罪されました。筋書きは、あなたとよく似ています。婚約破棄、身に覚えのない罪状、国外追放。……当時は、この街道に迎えなんて、ありませんでした」
「それで……どうなさったのですか」
「三日目に、倒れました。あなたと同じあたりです。運よく、羊飼いのご夫婦に拾われました。運がよかっただけです」
マルタさんは、台帳の一頁目を、指の腹でそっと撫でた。
「セラフィナさん。私には、前の世の記憶があります。……信じても、信じなくてもいいのですけれど」
「前の、世」
「ええ。前の世で、私は罪を償い終えた人が、塀の外で最初の夜を過ごす家で働いていました。行き場のない人に、寝床とご飯と、次の仕事を探す時間を渡す仕事です」
聞いたこともない仕事だった。けれど不思議と、絵は浮かんだ。この館そのものだったからだ。
「向こうでもこちらでも、罪を裁く仕組みは立派なんです。台本つきでね。けれど、裁かれた後の人を引き受ける場所は、いつだって足りない。……足りないままにしておくと、人は、街道で倒れます」
マルタさんは、燭台の火を見つめた。
「拾われた私が、今度は拾う側に回った。それだけの話です。羊飼いのご夫婦の家を継いで、部屋を増やして、木札を掛けました」
国境の検問所と宿場には、追放された人が出たら名前と街道を知らせてもらう約束があるという。二十六年かけて、一軒ずつ作った約束だそうだ。
「報せが来たら、その日のうちに馬車を出します。……昔は、間に合わなかったこともありましたから」
今回は、間に合いました。
街道で聞いたあの言葉の底が、ようやく見えた。私は何も言えなかった。
「ここでは、役は降りていい。――あの言葉はね」
マルタさんは、少しだけ笑った。
「若い頃の私が、誰かに言ってほしかった言葉なんですよ。誰も言ってくれなかったので、自分で言うことにしました」
私は台帳の一頁目に目を落とした。迎えのなかった第一号が、四十二人分の迎えになった。
気がつくと、口が動いていた。
「マルタさん。私、家には戻りません」
言葉にした瞬間、震えは止まっていた。
「冤罪の訂正は、受け取ります。あれは事実の話ですから。でも、家へは戻りません。あの家に戻るのは、私ではなくて、役ですから」
「はい」
「それから……聖女様に、手紙を書きます。祈祷書のことと、見張りの二年間のこと。誰も知らないままでは、私が、降ろせませんから」
マルタさんは頷いて、一つだけ付け足した。
「謝るなら、お返事はいらないと書き添えなさいな。受け取るかどうかは、あちらが決めること。返事を待つ謝罪は、半分は自分のためですからね」
私は、はい、と言った。
その夜は、朝までよく眠った。規則違反は差し引きで許してもらえると思う。
◇◇◇
手紙は三通書いた。
一通目は聖女様へ。
祈祷書の一件を詫びた。それから、見張りの二年間も詫びた。父に命じられていたとはいえ、あなたを見張り、報告していたのは私の目と手です、と。報告の行き先も、全部書いた。
最後に、返事は不要です、と書き添えた。
二通目は父へ。
書き出しに、癖で「お父様におかれましてはご機嫌麗しく」と書きかけて、やめた。あの挨拶も、役の台詞だった気がしたからだ。
『縁談は、お断りいたします。訂正は、事実の問題ですので、ありがたく受け取ります。娘の役は、家へお返しします。長らくのご指導に、お礼は申しません』
三通目は、王都の役所へ。訂正記録の写しを、ひばり館気付で送ってほしいという事務の手紙。これはマルタさんに書式を教わった。マルタさんは、こういう手紙だけは異様に手際がよかった。
聖女様からの返事は、来なかった。
それでいい。読むか、捨てるか、返事をするか。その全部を、あの人に渡したのだから。私はもう、手紙の行方を追わなかった。
ひと月後、王都から写しが届いた。
『大階段の一件につき、証言の虚偽が確定した。よって、セラフィナ・オルグレンに対する国外追放処分を取り消し、その名誉を回復する』
紙一枚だった。十九年の家と、二年の見張りと、一冊の祈祷書は載っていない。それでいいのだと、今なら分かる。記録が引き受けるのは、記録の分だけでいい。
残りは、私が暮らしで引き受ける。
春になったら、母のお墓へ行こうと思う。侯爵家の娘としてではなく、ひばり館の帳簿係のセラフィナとして。処分が消えた今、あの教会までの道に、もう誰の許しもいらない。
私はひばり館の帳簿係になった。給金が出た。初めての給金で、リタさんのパン屋の丸パンを七つ買い、館の全員で食べた。カイさんはやっぱり一つ多く包んだ。リタさんが「それ、余り物って言い張るのやめなさいよ」と笑い、カイさんは竈の方を向いてしまった。
そのリタさんは、春からパン屋の二階へ移ることが決まった。住み込みの職人として、正式に雇われるのだという。
「二年かかったわ。……あたし、ちゃんと降りられたのよね」
「とっくにです。オホホ笑いも、もう出ていませんし」
「それを蒸し返すの、あんただけよ」
リタさんは笑って、それから少しだけ泣いた。カイさんはその横で、意味もなく竈の火を強くしていた。
その日の夕方、麓から報せが来た。
「東の王国で、また一人ですって。今度は『傾国の悪女』だそうよ」
「流行ってるわねえ」
リタさんが呆れた。マルタさんは、もう肩掛けを羽織っていた。
私は前に出た。
「マルタさん。私も、行きます」
マルタさんは私の顔を見て、それから、何も訊かずに御者台の隣を空けた。
荷台には毛布を二枚積んだ。水筒と、丸パンと、湯たんぽも。
「湯たんぽ、ですか。まだ秋口ですけれど」
「三日歩いた体は、季節に関係なく冷えているものですよ」
マルタさんは手際よく藁を敷きながら言った。二十六年分の手際だった。
私は毛布の位置を覚え、水筒の栓の固さを確かめた。この積み荷の並びを、いつか一人でも組めるように。
◇◇◇
夜明け前に、私たちは東の街道へ発った。
丘を下りるとき、薄青い空でひばりが鳴いた。朝いちばんの声だった。
街道は、よく晴れていた。
枯れ草の上に、うずくまる背中が見えた。上等な旅装が土で汚れ、靴は片方脱げかけている。三日目、と私は見当をつけた。靴を煮ることを考え始める頃だ。
私は荷馬車を降り、その人の前に膝をついた。
顔を上げた瞳は、乾いていた。泣く水分も残っていないのだ。知っている。
「お迎えに上がりました」
私は、水筒と丸パンを差し出した。
「……大丈夫。間に合いました」
彼女がパンを握ったまま泣き出した。私は急かさず、それを待った。丘の上へ戻れば、温かいスープが待っている。
「まずは、温かいご飯と寝床から。――お話は、その後で」
(了)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
物語を読んでいると、ふと気になることがあります。この人はどうして、こういう人になったのだろう。物語が終わった後は、どこで、どう暮らすのだろう。
現実でも、人と向き合う仕事をしていると、つい相手を「一つの案件」として見てしまいます。ある程度は仕方のないことですが、その人には、こちらへ来る前にも、去った後にも、その人の人生が続いています。人は、一色で塗りつぶせるものではないのだと思います。
そこで今回は、「悪役令嬢」と呼ばれた人たちの、断罪の前と後を書きました。断罪の台本は立派なのに、その後のことは、あまり書かれることがないからです。
彼女たちの過去と未来に、少しだけ思いをはせていただけたら幸いです。
評価やリアクション、感想をいただけたら、作者はとても喜びます。




