エピローグ
霧谷町の谷霧稲荷神社は、今、静寂に包まれている。贄の岩に刻まれた血痕と渦巻き模様は薄れ、霧は朝露のように消えていた。私は、はおり、下津家はおり。看護師の制服に身を包み、病院の廊下を歩く。患者の笑顔、苦しむ声、寄り添う家族の姿。それらが私の心に響き、かつての恐怖を遠ざける。でも、胸の奥には、霧の領域での戦いの記憶が刻まれている。
「あなたは強い子だから」
母の言葉は、私を縛り、苦しめ、そして、救ってくれた。あの言葉がなければ、私は「弱者を喰らう神」と対峙できなかっただろう。こうきと私は、佐藤清次の日記の断片を手に、霧谷町と東京—白金台、渋谷、青葉市—の儀式の真相を暴いた。ミツ、真由、彩、美穂、美咲、彩花、玲奈の叫び声、血のインク、供物の幻影、清次の目が血で滲む姿。全てが私たちの弱さを試し、向き合うことを強いた。
私たちはそれぞれの弱さと対峙した。こうきは目標を持って頑張れない自分の弱さを、私は上手く話せない苦しみと母の言葉に縛られた過去を。旅人の暗躍や「霧の支配人」の警告、格差と孤独が神に力を与えた事実。みんなそれぞれにトラウマや悩みを抱えていた。しかし、それらを自分の力で乗り越え、力を合わせて神を封じ込めた。谷霧稲荷神社の儀式場で、日記の呪文を逆唱し、贄の岩に魂を縛る鎖を打ち込んだ瞬間、霧は裂け、神の「飢え」は沈黙した。だが、それは完全な勝利ではない。
霧は消えたが、どこかで蠢いている。人間の心は脆い。災害や新型コロナウイルス感染症のような未曾有の事態が起きれば、崩れる。弱者を喰らう神は、霧の中に佇み、今も全国民の弱さを「供物」として狙っている。私は看護師として、患者の痛みに向き合いながら、そのことを忘れない。こうきは霧谷町に残り、町の記録を整理し、次の危機に備えている。私たちは知っている。神は封じられたが、消滅したわけではない。いつかまた、霧が町を覆うかもしれない。
病院の窓から見える東京の空は、今日、晴れている。だが、遠くの地平線に薄い靄が漂う。サラサラ。
「弱い子…」
一瞬、ミツの歌声が聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。白いカーテンが揺れ、窓ガラスに私の顔が映る。もう、白い着物の女は現れない。私は指を折り、「大丈夫」と小さく十回唱えた。
「強い子」母の言葉が心に響く。私は下津家はおり、強い子だから。次の戦いが来るまで、私はここで、人の命を守り続ける。




