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ケイジー・ストレイト・アヘッド  作者: 刀根 貴史


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20/20

大宴会 軽音コンパ

1994年5月。


 ライブが終わって、機材を片付けて、部会で怒られて。


 今日一日で、関学軽音楽部というところがどういう場所なのか、少しだけ分かったような気がしていた。


 演奏ができるだけでは駄目。楽器が弾けるだけでも駄目。ステージを作るための仕事もできなくてはいけないし、仕事ができなければ怒られる。


 それはまあ、わかる。


 今日のライブが、先輩たちの期待していた水準に達していなかったことも、なんとなくわかる。


 ただ、もう少し優しく言ってくれても良いのではないか。


 などと考えながら、僕は部室の床に座っていた。


 今日の運営を仕切っていたのは、主にC年とD年。新入生のC年にとっては初めてのコンサートで、D年にとっても後輩を指導しながらライブを運営するのは簡単ではなかったのだろう。


 しかし、先輩たちにしてみれば、そんな事情は言い訳にならない。


 特にD年は、C年を指導する立場でもある。今日の失敗は、自分たちの責任でもある。


 それはわかる。


 わかるのだけれど……。


 もう、いいのではないだろうか。


 そう思い始めていた頃、ようやく部会も終わりに近づいた。


 それまで厳しい言葉を投げかけていた先輩たちも、ひととおり言いたいことを言い終えたらしい。


 そんな重苦しい空気の中、部室の外から聞こえていた澤田さんの話が、僕の耳に残っていた。


 テープ審査を通過してステージに立つことは、決して当たり前ではない。


 今日のライブを残念に思う気持ちはあるけれど、ステージを作ってくれたヤーボには、まずありがとうと言いたい。


 そんな話だった。


 僕は、少しだけ考えた。


 今日のライブが失敗したことと、今日のライブを成功させようと頑張ったことは、別の話なのかもしれない。


 失敗したからといって、頑張ったことまでなくなるわけではない。


 そう思うと、先ほどまでの怒鳴り声も、ほんの少しだけ違って聞こえる気がした。


 ……まあ、それでも、あんなに怒らなくても良いとは思うのだけれど。


「はい! じゃあ、今日の部会は以上!」


 誰かがそう言った。


 ようやく終わりか。


 肩の力が抜けた、その瞬間だった。


「……というわけで!」


 部室にいたE年さんの一人が、急に大きな声を出した。


「本日のコンパ!」


「……は?」


 何人かが顔を上げた。


「竹久! 竹久集合!」


 一瞬の沈黙。


 そのあと、部室のあちこちから歓声が上がった。


「おおー!」


「やったー!」


「早く行こうぜ!」


 ……コンパ?


 今から?


 さっきまで、あんなに怒られていたのに?


 E年さんたちは、何事もなかったかのように笑っていた。


 D年さんたちは、まだ少し疲れた顔をしていたけれど、それでもコンパという言葉には反応せずにはいられないらしい。


 C年の僕たちは、ただただ顔を見合わせていた。


「隼人、今の……」


「コンパだよ。」


「いや、それはわかるけど。」


「竹久。学校のすぐ近くにある居酒屋。お座敷があるんだ。」


「……行くの?」


「行くだろ。」


「……そうか。」


 どうやら、今日という日はまだ終わらないらしい。


     *


 竹久は、関学から歩いてすぐのところにあった。


 店に着くと、先輩たちは慣れた様子で奥のお座敷へ入っていく。


 広い座敷とはいえ、これだけの人数が集まれば、当然ながらぎゅうぎゅう詰めになる。


 先輩の隣に座り、その隣に別の先輩が座る。少し空いた隙間には、後から来た人が無理やり滑り込む。


「おい、そこ詰めろ!」


「もう詰めてます!」


「もっと詰めろ!」


「これ以上は無理です!」


「いけるいける!」


 いけるわけがない。


 僕は大きな体をできるだけ小さくしようとしたが、そんなことをしても限界がある。


「ホーネット、邪魔!」


「すみません!」


「いや、冗談だよ!」


 坪内さんが笑っていた。


 この人は、本当にどこにいても僕を見つける。


 隼人と並んで座ろうとしたものの、気がつけば僕の周りには上級生が集まっていて、隼人は少し離れたところに押しやられていた。


 ……置いていかないでほしかった。


 料理が並び、飲み物が配られる。


 あちらこちらから聞こえる笑い声。


 ビール瓶の栓が抜かれる音。


 そして、誰かが大きな声で言った。


「おい、そろそろ乾杯するぞ!」


 その声に合わせて、みんながグラスを手に取った。


 黒田さんが立ち上がり、周りを見渡した。


「今日はみんな、お疲れ様! いろいろあったけど、これからも頑張っていこう! それじゃ、乾杯!」


「乾杯!」


 座敷いっぱいに声が響いた。


 マイクなどない。


 狭い座敷で、すぐ隣にいる人に聞こえるように話すだけでも大きな声が必要だ。少し離れたところに何かを伝えようとすれば、自然と声も大きくなる。


 それでも、誰も聞き返さずにはいられないほど騒がしい。


 僕も手元のグラスに口をつけた。


 ビールは苦かった。


 苦いというか、正直、何が美味しいのかよくわからなかった。


 しかし、周りの先輩たちは実に美味しそうに飲んでいる。


 世の中には、知らないことが多すぎる。


 サックスのキーも知らなかったし、バリトンサックスが何なのかも知らなかった。


 ジャズもよく知らなかったし、ビッグバンドというものも知らなかった。


 そして、ビールの美味しさもわからない。


 大学に入ると、今まで知らなかったことを、これほど一気に知ることになるとは思わなかった。


 ただし、これから始まることについては、できれば知らないままでいたかった。


     *


「はい、皆さん! ちょっと聞いてくださーい!」


 座敷の向こう側から、鈴木佳恵さんの大きな声が響いた。


「本日は、オリエンテーションコンサート、お疲れ様でした!」


 周囲の会話が、少しずつ収まっていく。


「皆さん、いろいろあった一日だったと思いますが、ここからは楽しくいきましょう!」


「おー!」


 鈴木さんの隣では、沢入さんが笑っていた。


 沢入さんは、チャリオのコンマスであり、ギターを弾き、歌い、場を盛り上げることにも長けた人だった。


 F年の中でも、とにかく目立つ。


 そして、面白い。


 面白いというのは、別に冗談が上手いというだけではない。


 何をしても、それなりに人の目を引く。


 僕が同じことをやっても、ただの変な人で終わるようなことを、沢入さんがやると、なぜか面白くなる。


 理不尽だ。


「さて、本日のコンサートでは、素晴らしい演奏を披露してくれた人もいれば、ヤーボとして大活躍した人もいました!」


 沢入さんが、周りに負けないくらいの大声で話し始めた。


「もちろん、良い意味でも、悪い意味でもです!」


 どっと笑いが起こった。


 ……嫌な予感がする。


「注目すべき演奏をした人! そして、ヤーボで注目すべき活躍をした人には、ここで皆さんの前に出てきてもらいましょう!」


 座敷の真ん中にいた人たちが、少しずつ場所を空ける。


 といっても、舞台などあるわけではない。


 ぎゅうぎゅう詰めの座敷で、ほんの少し人が動いただけの空間だ。


「一発芸でも何でもいいから、みんなを楽しませてください!」


 鈴木さんが、笑顔で声を張り上げた。


 周りの先輩たちは、もう楽しそうだった。


 僕は、嫌な予感がした。


 こういうものは、嫌な予感だけはよく当たる。


「それでは、早速参りましょう! まずはベジタブルブルース、素晴らしい歌声を披露してくれました菊池倫さん!」


「えーっ、私?」


 菊池さんが立ち上がった。


 周囲から拍手が起こる。


「いやあ、今日のリハーサル、歌が入った途端に人が集まってきたからねえ! さすがだねえ!」


「やめてよ、もう!」


 菊池さんは恥ずかしそうに笑いながら、座敷の真ん中へ移動した。


 そして、沢入さんから何かを耳打ちされた。


 次の瞬間。


「おーひるやーすみはーーー!」


 昼間のリハーサルで歌っていた、軽音ライブの宣伝のメロディーだった。


「軽音ライブーーー!」


 鈴木さんが、すかさず声を合わせる。


「……って、もう終わったやないの!」


 菊池さんが関西弁で突っ込んだ。


 座敷は爆笑に包まれた。


「はい、ありがとうございました!」


 沢入さんが両手を叩いた。


 菊池さんは笑いながら、自分の席に戻っていった。


 なるほど。


 これが一発芸というものなのか。


 何か面白いことをやらされる。


 しかも、司会をする人と担当するF年が、面白くなるように場を盛り上げる。


 ただ、問題は。


 それを、自分もいつかやらされるのではないか、ということだった。


「さあ、次はPAヤーボの皆さん!」


 沢入さんが、またもや大きな声を上げた。


「本日の活躍、大変ご苦労様でした!」


 拍手。


「いやあ、本日は色々とありましたねえ!」


 笑い。


「特に、管楽器3番!」


 ……あ。


 そういえば、あそこは最後まで音が出なかった。


「シールドを交換しても、交換しても、音が出ない!」


「いや、あれはマイクが……!」


 PAヤーボの誰かが叫んだ。


「おっと! 今、重大な証言が飛び出しました!」


 沢入さんが大げさに驚いてみせる。


「これは詳しくお話を伺わなければなりませんね!」


 鈴木さんも負けじと声を張った。


 PAヤーボのC年が、周囲に背中を押されながら前へ出てきた。


 顔が真っ赤だった。


「えー、本日の反省を踏まえまして、今後は機材の確認を……」


「真面目か!」


 沢入さんの一言で、座敷が揺れた。


「違う違う! そういうことじゃないの! 今日はコンパなの! 反省会はさっき終わったの!」


 鈴木さんも笑っていた。


「では、気を取り直して参りましょう!」


 二人が顔を見合わせた。


 沢入さんが、勢いよく手を上げる。


 鈴木さんが続けた。


「3!」


「2!」


「1!」


「キュー!」


 座敷全体の声が、掛け声に合わせて弾けた。


 PAヤーボのC年は、どうやら事前に用意していたらしい一発芸を披露した。


 何をしたのかは、正直よくわからなかった。


 ただ、思い切りが良かった。


 途中で自分でも何をしているのかわからなくなったのか、最後は半ばやけくそで頭を下げていた。


 それがまた面白くて、みんなが笑った。


 本人も笑っていた。


 最初は。


「はい、ありがとうございました!」


 沢入さんが声を張り上げる。


「では、今日の功労者に!」


 誰かがビール瓶を持ってきた。


 そのC年の前に置かれたグラスに、次々と酒が注がれていく。


「一気! 一気! 一気!」


 周りが囃し立てる。


 僕は、その光景を見ながら、なんだか落ち着かない気持ちになった。


 笑っている。


 みんな笑っている。


 本人も笑っている。


 だから、これは楽しいことなのだろう。


 そういうことになっているのだろう。


 けれど、本当に楽しいのかどうかは、本人にしかわからない。


 そんなことを考えていると。


「はい! では次!」


 沢入さんが、またもや大きな声で言った。


「本日、ヤーボとして大活躍! そして、何よりも!」


 こちらを見た。


 ……やめてくれ。


「関学軽音に入って、まだ一か月ちょっと!」


 ……やめてくれ。


「ミスターバリトン!」


 座敷が沸いた。


「市山奏汰くん!」


 ……なんでだよ。


「はい、前へどうぞ!」


 鈴木さんが笑顔で手招きしている。


 周囲のC年が、僕の背中を押した。


「行けよ、奏汰!」


「頑張れ!」


「何かやれよ!」


 何かやれよ、じゃない。


 何をやればいいのか、こっちが聞きたい。


「いや、あの……僕は……」


「おっと! 何やら既に面白い雰囲気が漂っております!」


 沢入さんが、僕の言葉を遮った。


「大丈夫! 何をやっても大丈夫!」


 何をやっても大丈夫なわけがない。


 僕は、これまでの人生で、人前で一発芸などしたことがなかった。


 ラグビー部にいた頃にも、そういうことはあったのかもしれない。


 けれど、僕は試合をして、走って、ボールを追いかけていればよかった。


 人を笑わせる必要などなかった。


 そもそも、面白いことを言える人間ではない。


「奏汰、何かできるの?」


 少し離れたところに座る隼人が、笑いをこらえながら聞いてきた。


「できないよ。」


「だよね。」


「……。」


「頑張って。」


 お前、絶対楽しんでるだろ。


 僕は渋々、座敷の真ん中に出た。


 沢入さんが、僕の肩に手を置いた。


「はい、それでは、本日の特別ゲスト! 市山奏汰くん!」


 周囲から拍手。


「身長は?」


「……え?」


「身長、何センチ?」


「えーと、百八十七です。」


「おおー!」


 なぜか拍手。


「体重は?」


「……。」


「言えないのか!」


「いえ、あの……」


 ここで、沢入さんが僕の顔を覗き込んだ。


「お前、ラグビーやってたんだろ?」


「はい。」


「じゃあ、得意なことは?」


「……ラグビーです。」


「そりゃそうだろ!」


 爆笑。


 何が面白いのか、僕にはよくわからなかった。


 ただ、沢入さんは実に楽しそうだった。


「よし! では、ラグビー仕込みの一発芸を!」


「ええっ!」


「さあ、参りましょう!」


 鈴木さんが、沢入さんと顔を見合わせた。


 沢入さんが、僕の横で手を構える。


 逃げられない。


「3!」


「2!」


「1!」


「キュー!」


 座敷全体の声が、一気に僕を取り囲んだ。


 頭が真っ白になった。


 何かしなくてはいけない。


 何か。


 何か。


 ……何を?


 僕は、とりあえずラグビーのタックルをする真似をした。


 誰もいない空間に向かって、両手を広げ、腰を落とし、思い切り飛び込んだ。


 畳に膝をついた。


 痛かった。


 静かになった。


 ……終わった。


 そう思った瞬間。


「何やってんだよ!」


 沢入さんが叫んだ。


「相手おらんやないか!」


 座敷が爆笑に包まれた。


 鈴木さんは、笑いながら何度も手を叩いていた。


 僕は畳から起き上がり、頭を下げた。


「……すみません。」


「謝るな! 笑わせろ!」


 また笑いが起きた。


 僕は、もう一度何かをしなければならないのかと思った。


 しかし、沢入さんは満足したようだった。


「はい、ありがとうございました! 市山奏汰くん!」


 盛大な拍手。


 ……終わった。


 やっと終わった。


 僕は席へ戻ろうとした。


「ちょっと待て!」


 坪内さんの声だった。


 ……まだあるのか。


「ホーネット、お前、楽器吹けるんだろ?」


「……まだ、始めたばかりです。」


「じゃあ、今度ここで吹け!」


「えっ?」


「そうだなあ。ミスターバリトンなんだから、バリトンサックスで一発芸だな!」


「いや、あの、まだ楽器も……」


「おおー! じゃあ、それは次回のお楽しみ!」


 坪内さんは笑いながら、僕の肩を叩いた。


 やめてほしい。


 本当に、やめてほしい。


 沢入さんが、再び手を上げた。


「では、市山くんの健闘を祝しまして!」


 周りにいた先輩が、僕の前にグラスを置いた。


 ビールが注がれた。


「一気! 一気! 一気!」


 ……勘弁してくれ。


 僕はグラスを手に取った。


 飲み干せば終わる。


 そう思って、勢いよく口をつけた。


 苦い。


 冷たい。


 泡が鼻に入った。


 むせそうになった。


 それでも、周りの声に押されるように、何とかグラスを空にした。


「おおー!」


 拍手。


「ホーネット、やるじゃねえか!」


 坪内さんが、また僕の肩を叩いた。


 やめてほしい。


 本当に、やめてほしい。


 僕は笑顔を作りながら、席に戻った。


 座った途端、隼人が肩を震わせていた。


「……何?」


「いや……ごめん……」


「笑ってるじゃん。」


「ごめんって!」


「……。」


 僕は、手元の水を飲んだ。


 ビールより、ずっと美味しかった。


     *


 その後も、コンパは続いた。


 演奏で注目を集めた人。


 ヤーボで失敗した人。


 先輩たちの目に留まった人。


 そして、ただ新しく入部したというだけで、何かをやらされる人。


 次々と名前が呼ばれ、誰かが一発芸を披露し、誰かが酒を飲み、誰かが笑った。


 F年さんたちは、まるで舞台の上にいるようだった。


 実際には、ぎゅうぎゅう詰めの座敷の中で、立ったり座ったりしているだけなのだけれど。


 人を笑わせることに慣れている。


 自分が笑われることにも慣れている。


 そして、誰かを笑わせるために、その誰かを少しだけ困らせることにも慣れている。


 僕は、そういう世界に慣れていなかった。


 もちろん、先輩たちに悪意があるわけではないのだろう。


 いや、少なくとも全員に悪意があるわけではないのだろう。


 僕に一発芸をさせて笑っていた人たちは、きっと明日になれば、何事もなかったように接してくれるのだと思う。


 それは、今日の部会で怒鳴っていた先輩たちが、コンパでは笑っているのと同じことなのだろう。


 でも。


 僕は、今日のことを、明日になっても覚えていると思う。


 それが、なんだか嫌だった。


 コンパの終盤、少しだけ座敷の空気が落ち着いた頃。


 僕は、座敷の端で、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。


 外へ出たかったけれど、通路には人が座っていて、簡単には動けそうになかった。


 聞こえてくるのは、笑い声と、誰かの大きな話し声。


 何を話しているのか、ほとんど聞き取れない。


 それでも、誰もが楽しそうだった。


 僕は、今日一日のことを考えた。


 軽音楽部に入ってから、毎日が新しいことばかりだった。


 サックスという楽器を知った。


 ジャズという音楽を知った。


 先輩たちの演奏を聞いて、音楽ってこんなに格好いいものなのかと知った。


 それと同時に、知らなくてもよかったことまで、たくさん知った。


 人前で笑われること。


 笑っている人たちの中にいても、楽しいとは限らないこと。


 自分が嫌だと思っていても、それを口に出せないこと。


 そして、自分が嫌だと思っていることを、相手は嫌だと思っていないかもしれないこと。


 何が正しくて、何が間違っているのか。


 まだ、よくわからなかった。


「ホーネット。」


 振り返ると、坪内さんがいた。


「……はい。」


「何だよ、そんな顔して。」


「いえ。」


「コンパ、楽しくねえか?」


 僕は、すぐに答えられなかった。


 楽しくない、と言えばいいのだろうか。


 でも、そう言ったら、せっかく声をかけてくれた坪内さんに悪い気もした。


 先輩たちは楽しそうだった。


 僕も、楽しいと思わなければいけないのかもしれない。


「……まだ、よくわからないです。」


 そう答えると、坪内さんは少しだけ笑った。


「そっか。」


 それ以上、何も言わなかった。


 僕の隣に座って、しばらく周囲の騒ぎを眺めていた。


 少しして、坪内さんが口を開いた。


「まあ、無理に笑うこともねえよ。」


「……。」


「ただな、ホーネット。お前が嫌だと思ったことは、いつか誰かにやるとき、ちょっとだけ考えてやれよ。」


 それだけ言うと、坪内さんは再び周囲の輪に戻っていった。


 僕は、何を考えればいいのか、まだよくわからなかった。


 でも、その言葉は、なぜか頭に残った。


 その日、僕は初めて、関学軽音のコンパというものを知った。


 そして、いつか自分が先輩になったとき、後輩たちにどんな顔をして接するのだろうかと、ほんの少しだけ考えた。


 もちろん、その頃の僕はまだ、そんな先のことなど想像もできなかったのだけれど。


 翌週も、水曜日にはチャリオの練習がある。


 土曜日には部会がある。


 そして、その先には、次のコンサートが待っている。


 楽器を始めたばかりの僕にとって、関学軽音の毎日は、まだまだ知らないことだらけだった。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 明日になれば、また旧学生会館へ行くのだろう。


 そして、サックスを吹くのだろう。


 それは、少しだけ楽しみだった。


次回:ポスター貼りとリハリハ

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